翠とみどり【小説】
その日は朝から嫌な予感がしていた。
降りそうで、降らない。
朝からそんな鬱陶しい天気だったし、自分にしては珍しく生理前に下腹部が痛くて、目が覚めた瞬間から気が、体が重かった。
だからと言って、仕事が休みになるわけではない。それを言い訳に休む同僚もいないわけではないが、残念ながら仕事に支障があるほどの辛さにはならない。
月に一回はこういう体質であることに感謝し、私はそういった人よりラッキーだと思うことにしている。
そう思うことで自分を奮い立たせ、気怠い体をベッドから旅立たせる。
今日も1日が始まる。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
出社すると、兼ねてより営業をかけていたクライアントから連絡があり、まずはここからはじめてね、と小口ではあるが案件を頂けた。
ゆくゆくは大口になる可能性のあるクライアントで、小さな案件から信用と関係性を築き、大きくしていけるレールを作っていくのだ。
学生の頃は、営業の仕事なんて、おっさんがクライアントの同じくおっさんと、喫煙所でタバコを吸っているイメージしかなかったが、まあ、一部にはそういったなあなあで成り立つものもあるだろうが、いざ自分が配属されてみると、やるべき事と、やりたい事が交互に、時には同時に湧いてくるので、しんどいがやりがいのある仕事だと、今は思っている。
そう思うようにしている節もあるが。
午前中に細かい業務を片付けて、外回りに出ようと思って、行き先をホワイトボードに書いていると、
「お、外出?」
同期の今池が話しかけてきた。
「うん、朝イチにオーツ機工から案件頂いたから、お礼と、空いてたら簡単な打ち合わせでもできたら、って思って」
「今から昼に行こうと思ってたんだけど、それだったら、時間ないか」
「いや、大丈夫だよ。どっかでお昼食べてから行こうと思ってたから」
「だったら、行こうぜ。今日は『め組』の気分なんだよ」
「今日も。でしょ。そしたら、ちょっとだけ待って。もうそのまま出ちゃうから」
同期で入社した今池は今は同じ社内の総務担当だ。
入社してすぐの1週間の新入社員オリエンテーションで知り合い、気が合ったので少し仲良くなったが、オリエンテーションが終わった後、今池は関西支社で営業になり、私は本社で離れたので、接点がなかったが、3年経って本社の総務に配属された時に、再会して、同期のよしみも手伝って比較的仲良くしている。
うちは名だたる大企業ではないが、ある程度の規模がある会社で、能力がある男性にはいくつかの部署を経験させてから管理職にさせるのが通例の昔ながらの体質を持った会社だ。
ベンチャーのような瞬発力はないが、業績も安定しており、やるべき事のレールもしっかりと敷かれている。
大きなミスもなく、ある程度以上の能力がある人間にはとても良い会社だろう。
いや、能力がある男性には、良い会社だ。
男性である今池は仕事の要領も良く、コミュニケーションも上手だから、まさにこの会社にピッタリな人だ。
このまま順当に行けば、来年にはもう一回転勤を経てから管理職になるのだろう。
同期では有望株だと思う。
会社にほどほどに近く、日替わり定食が安くて美味しい『め組』には、早めに会社を出たので前に1組だけしか並んでおらず、そう待つこともなく、入る事ができた。
「サッキーは休みの日は何してるの?」
日替わりのチキンカツを頬張りながら、今池との雑談が始まる。
今池は私の事をサッキーと呼ぶ。苗字が崎山だからだ。子供の頃からのあだ名もそうだから、サッキーと呼ばれると、なんだか少しだけ気が緩む。
「休みの日ねぇ、最近は何もしてないな。部屋の掃除して、映画見て、ちょっと飲んで。あ、休みの日は絶対に湯船に使ってる。そんな事を聞く、今池君こそ何してるの?」
「朝から飲んでるね。たまに友達とかと連絡とってるけど、東京の友達があんまりいないからさ」
「どこ出身だったっけ」
「群馬」
「出た、グンマー」
取り止めもなく、雑談しながら定食を平らげる。
男性向けのボリュームだが、学生の頃から女にしては大食いの私にはちょうどいい。
私よりずっと早く食べ終わった今池は、口元を隠しながら楊枝で歯をほじくっていた。
「ふう、今日は結構ボリュームあったね。これで700円はアリですな」
「そうだね。美味しかった。じゃあ、ご馳走様でした」
「え、俺が出すの」
「うん、君に任すよ」
「部長か!」
ちゃんと私が営業部の部長の真似をした事をわかってくれたようだ。
「じゃあさ、今日奢るから、今度、休みの日に映画でも観に行かない?」
急な誘いに、少し驚いた。
「彼女いなかったっけ」
「こっちくる時に別れちゃったよ」
「そうなんだ」
今池は背が168センチある私よりも10センチは高いし、男っぽい首回りがちょっと好みだ。誠実そうだし、まあ、デートくらいならいいか。
お試しだ。
「いいよ。じゃあ、土曜は予定があるから、日曜でいい?」
「オッケー。時間とか場所はまたLINEで送るね」
約束を取り付けると、今池は会社に戻り、私は営業先に向かった。
今池の後ろ姿は心なしか軽やかだ。ちょっと可愛い。
デートか。
前の彼氏と別れてから、しばらくしてないな。
セックスも。
まあ、いい。
とりあえず仕事だ。
今日はナイターがあるから、早く終わらせて帰ろう。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
会社からの帰り、雨に降られてびしょ濡れになってしまった。天気予報では曇りだったはずだ。
朝に感じていた嫌な予感がこれだったら、まあ、大した事じゃ無くてよかった。
シャワーで体を温めて、いつものスキンケアをしたら、さあ、ナイターの時間だ。
今日はウメッシュな気分。
「トトトトト」
缶からグラスにお酒を注ぐ瞬間が、今の私にとって至福の時間だ。
グラスのフチギリギリまで注がれた薄い琥珀色の液体は、芸術と言っても過言ではないだろう。
グラスに口を近づけると、弾ける泡の欠片がテチテチと風呂上りの火照った顔に気持ちいい。
大きく2口喉に通すと、グラスの半分が消えた。缶に残った分を全て注ぐ。
テレビを付けて、つまみのジャーキーを口に運ぼうとした時に、インターホンが鳴った。
深夜では無いが、夜のこんな時間に気軽に訪れてくる友人はいない。はずだ。
ネットショッピングも最近はした覚えがない。
少し緊張しながら、ドアスコープを覗き、すぐにチェーンを外し、ドアを開けた。
「どうしたの!」
「みっちゃん、ごめん。助けて…」
ドアを開けると、地元で結婚して、幸せな日々を送ってるはずの幼なじみが、ずぶ濡れで赤ちゃんを抱いて、泣いていた。
嫌な予感はどうやら大当たりだったらしい。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「みっちゃん…突然来て、ごめん…」
涙と雨でぐちゃぐちゃの幼なじみは開口一番、謝罪の言葉を口にした。
一瞬、呆然としたが、胸元に抱かれた赤ん坊が抱かれているのを目にして、我にかえった。
「みどり、どうしたのよ。とりあえず、入って。ってゆーか、まず、体拭いて。えーと、いや、シャワー浴びな。未来ちゃん、だったっけ、はこれは寝てる、でいいのかな。いいの?大丈夫なの?」
みどりはぐちゃぐちゃの顔のまま頷いた。
「じゃあ、未来ちゃんは見といてあげるから。ほら、えーと、ほら、なんだったら湯船も溜めて。話はその後!」
赤ん坊を受け取り、ゆっくりとベッドに寝かせて、みどりを風呂に押し込んだ。
ため息を一つついて、ベッドですやすやと眠る赤ん坊、未来ちゃんを包むタオルをゆっくりと外していく。
しっかりと包まれてたのだろう、中はほとんど濡れてなかった。
脱衣所に行き、みどり用のバスタオルとスウェットを出した。
「バスタオルとスウェット出しとくから、これを着て。下着は…」
そういえば、まだ一回も使ってないやつがあった。
「新しいのあるから出しとくね。小さいのは我慢して。後で買ってきてあげるから。ブラはサイズが合わないから、とりあえず諦めて」
中から返事はなく、シャワーの音が響く。
バスタオルをもう一枚引っ張り出して、ベッドに戻る。
よかった、起きてない。
間接照明用のライトをつけて、部屋の電気を消す。多分、寝てるのに明るすぎると良くない。と、思う。
そういえばこのライト、前の彼氏にもらったやつだ。もらってすぐは何度か使ってたけど、それ以来使ってなかった。
こんな形で日の目を見るとは思ってもなかった。
暖色の光に照らされた赤ん坊は、母親があんなにぐちゃぐちゃになっててもすやすやと眠っている。
起こさないように、バスタオルで包みこむ。
その行為が正しいかどうかはわからないが、赤ん坊は柔らかいものに包まれてるべきだと思う。
「君のママに、何があったの」
ふわふわの頬をさすりながら、話しかけてみた。
「ごめんね、みっちゃん」
「おわ!ビックリした!」
背後からの声に驚いた拍子に大きな声が出た。
そして、その声で赤ん坊の目がパチリと開いて、泣き出した。すぐに音量が最大になり焦る。
ゼロから100までのスパンが短い。
「あぁー、ごめん。起こしちゃった。えーと、えーと、どうしよ」
「あ、ごめん。ちょっとごめん」
言いながら、みどりは慣れた手つきで赤ん坊を抱き上げた。
「起きちゃったねー、ごめんねー、お腹空いたかなー、おっぱいかなー、おっぱいだねー、ごめんみっちゃん。おっぱいあげちゃうね。消毒はー、まあ、お風呂入ったとこだから、いいよねー」
グレーのスウェットをたくし上げ、乳房を赤ん坊の口元に運ぶ。
あわあわさせている口元に乳首を近づけると、すごい勢いでむしゃぶりついた。
みどりの胸は元々大きかったが、赤ん坊の為に、さらにサイズアップしていた。
たくし上げた時の擬音がボロン、だった。
手慣れた手つきで赤ん坊の背中を叩くと、小さなゲップが聞こえた。
満足したのだろう。
赤ん坊は再び安らかな眠りについた。
みどりは赤ん坊をゆっくりとベッドの壁側に寝かせる。
無言。
みどりの横顔を見つめる。
天然で長い睫毛。
軽くタオルドライをしただけの艶やかな髪。
キメの細かい白い頬は少し上気して、桃色に染まっている。
でかい胸。
相変わらず可愛いな。
高校生の頃は、この可愛さが疎ましいと思ったこともあった。
でも、どうあがいてもこうはなれないと気付いた時に、疎ましさがなくなり、ただただ可愛いと思えるようになったんだよな。
「さて」
みどりの肩がビクつく。
「話を聞かせてもらおうかな」
炭酸が抜けたグラスに口をつけて、一息に飲み干した。