珈琲【小説】
夫が死んだ。心筋梗塞だった。
夫が勤める会社から連絡があり、病院に着いたときには、すでに息を引き取っていた。
つまらない男だった。
物静かで、真面目で、酒は飲めず、ギャンブルもしない。付き合いで麻雀くらいはしていたようだが、ほんとに付き合い程度だった。
タバコも一人目が出来た時にやめ、会社と家の往復の毎日。読書程度の趣味しかなく、多分、浮気もしたことがない。セックスも、普通だった。
よく、死に顔が寝ているようだ。と言われるが、夫の亡骸はまさにその通りだった。もう少しで定年を迎えるはずだった目の前の夫、だったものは眠っているかのように静かに横たわっていた。
子供たちは夫に似たのか、普通の、良くも悪くも特徴がない男に育った。大した手もかからず、道を踏み外すこともなく、普通のサラリーマンになっている。世間一般には立派だと言われるし、確かにそうだろう。
普通が1番。
確かに、そうだったんだろう。
夫の生き方、それについて行った私の生き方。本当に普通で、波風のない生き方、人生。
悪くはない。悪くなど誰にも言われない、とは思う。
葬式はつつがなく終えた。子供たちが仕切ってくれて、自分は参列に来た人達に静かに頭を下げるだけだった。
それだけで、夫に先立たれて悲しみに塞がれる妻のように見えていただろう。多分。
あらかたのしきたりが終わり、次の集まりの段取りもした後、子供たちはそれぞれの家族のもとに帰っていった。
そつがないところも、二人とも夫とそっくりだ。
子供たちが帰り、思ってたよりも小さな壺に入った夫だったものと向き合う。
自分は薄情なのかもしれない。いや、そうなのだろう。長年連れ添った夫がいなくなったというのに、こうだ。
夫がいなくなったとしても、変わりはない。
もう長いこと、いてもいなくてもどっちでもよくなっていた。
いつからだったかさえ、もはや覚えてない。
珈琲でも飲もうと思い、席を立つ。
いつも使っているマグカップを取ろうとして、手を止め、ダイニングの食器棚を開く。
背伸びして、上の棚にある瀟洒なカップを取り出した。
新婚旅行で行った温泉地で買ったものだ。何焼きだったかは忘れたが、普段使いできない華奢なデザインだったので、数えるほどしか使ったことがない。
長年放置されたホコリを軽く洗い流すと、カップは落ち着いた艶を取り戻した。
薬缶を火にかける間に、カップにドリッパーと粉をセットする。
そういえば、唯一の共通の好きなものが珈琲だったな、と思いながらセットしたドリッパーに細く湯を注ぐ。
珈琲の豊潤な香りが鼻先に立ち昇る。
『また、ここに一緒に来ような』
急に脳裏に浮かんだ。
新婚旅行で行った高台の喫茶店で、山並を眺めながら夫が言った言葉。
交わされた約束。
守られることがなかった、約束。
急に胸が締め付けられ、嗚咽が、漏れた。
目頭が熱く潤み、涙が溢れ出て、そして、うずくまる。
気付かないうちに、胸にはポッカリと大きな穴が空いていた。
キッチンに珈琲の香りが漂う。