そして今日も僕らは罪を犯す(罪の味)
罪の味。
人は度々食べ物を前にこう表現をする。
実際に罪の味というものはこう、というものは存在しないがおおよそのひとが何となく想像できる味だったりするのではないか。
とは言いつつ人が罪の味と表現をする際に同じような味を表現しているわけでなく、いくつかの意味を持った言葉なのではないか。
・人はどのようなものを食べると罪の味を感じるのか
人によってそれぞれ罪の味を感じるが何をもって罪を感じるのか。
例えば森山直太朗はこう表現をする。
"ラーメンの残り汁に ぶっこんだ飯
ドンブリの底まで 胃袋が欲した
両手に感じる あやまち・ぬくもり
もう戻りはしない 例え世界を敵にしても"
罪の味/森山直太朗 より
わかる。とても良くわかる。
体に悪いのよ、こういう食い方は。
塩分過多、脂分過多、糖分過多。
寿命が縮む縮む。
でも美味いし、やめられない止まらない。
我々人類はラーメンの汁ぶっこみ飯の誘惑には逆らえないのである。
健康面でしてはいけないことをする事は美味いのだ。
例えば村上龍はこう表現をする。
"焼いた白子が運ばれてきた。
「これだよ」と、男は言って、白子を口に入れた。オレも食った。いつものことだが許されないものを口に入れてる気になる。罪そのものを食っている感じだ。そして罪を食うとオレ達は元気になる。"
村上龍料理小説集 ふぐの白子
"「飢えて食うアンパンと、この生ハムはまったく違うんだ、このダイニングの料理は、罪だな、許されないものだ、差別で成立している」"
"「禁じられていることだけに、快楽は潜んでいるんだって当り前のことがよくわかるな、ここの料理を食べると」"
同小説集 鹿肉の生ハム
"生ハムは柔らかく口の中で溶けた。これほど上質のものを味わうと、奇妙な罪悪感のようなものを覚えてしまうものだ"
同小説集 トナカイの生まレバー・ラップランド風
これもわかる。
こちらは健康面というよりは食べなくても良い命を食べているという事や清貧を是とする世の中でしなくても良い贅沢なものを食べると美味い。贅沢は美味いのだ。
道徳面でしてはいけない様な事をするのは美味いのだ。
・背徳感は美味い
正確には背徳感という意味合いと差異はあるがニュアンスは伝わるとは思うので背徳感という言葉を使うが、なんにせよ背徳感というものを人間は快楽に感じる。
三大欲求と背徳感というのはどの欲求と組み合わせても蜜の味であり危険な物であるのだ。
美味いものは背徳感があるのか背徳感が美味さを感じるのかあるいはその両方か。
どちらにせよこの背徳感というものは麻薬の様なものであり、人に快楽と罪を生み出すのである。
さて、この背徳感。
罪の味をテーマにすると1番のキーワードになるところではあるが、人はどのような時やものに背徳感を覚えるのであるのだろうか。
例えば環境。
昼から飲む酒、ガンガン暖房付けて食べるアイス。
例えば健康。
深夜のラーメン及びラーメンライス、バターと砂糖たっぷりのスイーツ。
例えば道徳観。
肝臓を肥大化させたフォアグラや命を感じる心臓や白子。
おおよその人は大抵経験をしたことがあるのではないだろうか。もちろん食べ物そのものの味も美味いのだが、輪をかけてこの背徳感というものが美味さを生み出しているのだ。
・そして今日も僕らは罪を犯す
やってはいけない知られちゃいけない、なんて事は無いのだけれどもそれでもまあやんない方が良いんだけどなあと思いつつもやってしまい止められない。
人は過ちを犯す生き物なのだ。
だからこそこの誘惑からは逃れられない。
それがどんなに健康に悪くとも贅沢だとわかっていても。
だって美味いんだもの、罪の味。
だから今日も僕はラーメンの残り汁にご飯をぶっこむ。
・余談
完全に蛇足ではあるが、自分が今まで食べてきた中で一番罪の味だと思うのは福岡銘菓の博多通りもんである。
なにあれ、絶対ダメなのはわかるんだけど一箱余裕で止まらないんですが。
確実に罪。