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夏の終わりに綴ること

久しぶりの記事の投稿は喜びが大きい。

家に帰っても多忙というか、隙間時間がなくなっている現在、記事を投稿できるということ、書き残せることがありがたいのだと感じている。少しの読書の時間、少しの新聞を読む時間ができることも、本当に貴重な時間に感じてありがたい。

それでも、記事を投稿する隙間がなかなか見つからない、読書や新聞を読むことが後回しになってしまうといったことはあるけれど、やっぱり家族と喜怒哀楽をともにし、長い時間を全力で過ごせるってことほど幸せなことはないな。ということも強く感じられた夏だった。

例年よりも短い夏休みだったが、いろいろなことを体験し、考えることができた。

いろいろと、特に教育関係について書き込みたいのだが、今日は、思考の方向性が亡き母のことと戦争、平和についていまいちど振り返って書こうと思う。

このことが、一番書き残したかったことかもしれない。

今年の盆は、母の初盆でもあった。実家に菩提寺の御僧侶をお招きしてお盆経をお願いし、また、例年お願いしている菩提寺での旧盂蘭盆会も執り行っていただいた。実家でのお盆経の際に頂いた御僧侶からの御説法で、父や兄弟と御説法を振り返り、来年以降も実家でのお盆経をお願いしようと決めることもできた。

そして、今年も8月6日、9日、15日の黙祷にも参加できた。「平和」ということを今後も自らの教師人生の中で、重要なひとつとしていかないと。と、改めて確認ができた。

振り返れば、母は戦争経験者ではなかったが、教育者こそ戦争を語れと、よく話してくれた。母の父、つまり私の祖父は、ガダルカナル島の戦いで陸軍の部隊を指揮していたところ、上空からの戦闘機に首を撃ち抜かれた。

その後、一命を取り留めることができた。フィリピンや台湾を経由して、療養しながら故郷に帰ることができた。しかし、今だからこそ、「帰ることができた」と言えるのだ。

祖父は、家族や親戚にどうして帰ってきたのかと責められたと、祖母が語ってくれた。祖父は、それでも家族のために生きた。だが、周囲の冷たい目が強かったそうだ。しかも、首の神経を撃ち抜かれた後遺症があった。思うように生活ができなかったという。

そんな祖父は、自ら命を絶った。母が2歳の頃の事だったそうだ。日本は終戦をしていたのに、である。むしろ、終戦をしたからかもしれない。いや、分からない。今を生きる私たちには到底共感できないほどの複雑な思いが凄まじい渦を巻いていたのだろう。

祖母と母、そして私と3人での会話に繰り広げられたのは、そのような戦争の話だった。私の座っていた角度から、祖父が軍服で勇敢に馬に跨っている大きな白黒写真がしっかり見えていた光景が、今でも鮮明に覚えている。

祖父が生き延びてくれたから、母が生まれた。祖父が生き延びてくれたから、私がいるのだ。本当にありがたいことである。ただ、祖父の死は戦死ではなかったかもしれないが、私は戦死だと思っている。

しかし、ガダルカナル島の戦いに出征した軍人の子孫で、私のように命を継がせてもらえた人は稀なのだと思う。戦争なんて、本当に意味がない。

私は、多様な考えが社会にあってよいと思うが、戦争に関わる考えは改めさせるべきだと強く主張する。戦争に「善さ」など一切ない。しかも、日本は、被害者としてだけではなく、周辺諸国への加害者としての意識をもっと定着すべきだと思うのだ。

平和は、加害と被害の両面を語れて実現可能になるのではないかと思う。

こういった話題は、それこそ多様な意見があるため、誹謗や中傷があるかもしれない。それはそれでよいが、まず言えることは、軍をもつこと、武力を武力で返そうしたり無為に準備したりすることに対して私は強く反対を訴える。

戦争の問題だけではなく、「平和」を身近なところから子どもたちと、保護者と考え合える教師となっていきたい。

とりあえず、今日はこんなことを書きたかった。


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