『ツボちゃんの話』
佐久間文子『ツボちゃんの話』(新潮社)を読んだ。
とめどない佐久間さんの『ツボちゃんの話』の、ほんの少しの部分を聞いた、という感じがする。
人には複数の、さまざまな側面がある。本人以外には知り得ない履歴がある。
当然のことなのに、ふだんそのことを忘れて平気でいる。
神保町で、坪内さんを三省堂の前あたりで見かけたことがあったかしらと思う。あるいは、写真や名前を見かけることが多すぎて、そう思っていただけかもしれない。
そんなことがあったからか、勝手にも、どこかしら身近な存在に感じていたため、昨年の訃報に驚き、残念で、この本が出たと聞いて、読みたいと思った。
坪内さんは「博覧強記」で「東京っ子」。かつて私が憧れたキーワードを体現していたのかも。(今は違うかも。)それでご本人にも興味をひかれた。ずいぶん昔に坪内さんの元配偶者である神蔵美子さんの写真集『たまもの』で彼のプライベートな、ある側面が彼女の視点で描かれて、知った気になったりもした。佐久間さんの書いた25年間のことを読んで、人って本当に知りえないものだと感じてしまう。あんなこともあった、こんな思い出も自分の胸にしまいこんでいるけれど鮮明に思い出せて、望めばそのとき・その場所にすぐに飛んで行ける、書かれていないそんな無数のシーンがたくさんあるんだろうと思えた。
「いまは何を見てもツボちゃんのことを思い出して、後悔している」(「あとがき」)
人は突然いなくなることがあり、故人と近しい人にとって後悔がまったくないということはあるんだろうか。
いつ、どうして亡くなったかにかかわらず、その人はやるだけのことをやっていなくなったのだと思う。それが、いくら突然に見えるかもしれなくても。
周囲の人が後悔する/しないにかかわらず。
私はそう思いたい。
ところで、人の日記に値段をつけるということに対して、考えるところあり、この部分が気になった。
月の輪書林の古書目録に、昭和天皇の学習院初等科時代の担任の日記が出ているのを見つけ、「これ『週刊朝日』向きなんじゃない?」と教えてくれたこともある。確かに面白そうだが、百万円の値段がついている。購入を迷っていると、「自分も読みたいから半分だすよ」と背中を押してくれた。(p61)
購入して、「『昭和天皇実録』を編纂中の宮内庁の書陵部をはじめ、さまざまなところから問い合わせや読みたいという申し出があった」そうで、『昭和天皇実録』にもこの日記からの引用があるそう。