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ウディ・アレンとメディアと配給・宣伝。

好きな監督は誰?と聞かれたら、長いこと、ウディ・アレンと答えていた。半径1km圏内の都会生活と会話劇が大好きな私がウディ・アレンにハマったのは自然な流れ。毎年新作映画を撮り続けている(ことができる)ウディ・アレンこそが、真の映画監督だと思っていた。しかし、気づくと『ブルージャスミン』以降、新作を劇場で観ていない。そして好きな監督として挙げることもなくなっていた。いつから?なぜだろうか。

新卒で入った会社で、初めて宣伝プロデューサーとして担当した作品がウディ・アレンの音楽ドキュメンタリー『ワイルド・マン・ブルース』だった。クラリネット奏者でもあるウディがバンドを引き連れてまわったワールドツアーを追ったドキュメンタリー。きっと会社の先輩たちがウディに興味がないからまわってきたのだろうが、学生時代、ニューヨークのホテルで毎週月曜にクラリネットを演奏しているウディを見に行ったことのある私には願ってもないことだった(クラリネットを吹きながらずっと下を向いていた姿にはびっくり。女の子が声をかけるとすぐに上を向いたのには笑った)。
当時、ウディの新作はいつも恵比寿ガーデンシネマでかかっていたので、ドキュメンタリーもそれに合わせてレイトショーで公開されることになった。レイトショーの予算は少なく、上司にあてがわれたおじさんデザイナーのセンスに納得がいかなくてケンカばっかりしていたが、とにかく全身全霊で向き合って、そこそこヒットした。友達にチラシ裏に描いてもらったイラストと、川勝さんが作ったオサレなパンフレットが良き思い出だ。

映画のメイン写真は、ヴェネツィアでゴンドラに乗ったウディと養女のスン=イー・プレヴィンだった。二人が結婚したかしないかのタイミングで撮影された作品なので、スキャンダラスな要素もあった。でも映画の中で、彼女をからかいながらも頼りっきりなウディは嬉しそうに見えた。あれから、20年以上が過ぎ、今も彼らの婚姻関係が続いているのは、彼女がウディにとって本当に必要な存在だったことを証明しているのだろう。

今月、最新作の『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』の公開された。
『ストーリー・オブ・マイ・ライフ』と2本立てのシャラメ祭りで、久しぶりに劇場で観ようかなと思っていた矢先に、映画ライター村山さんの投稿を発見。そして、長い長いnoteを読んだ。

ウディが養女のディラン・ファローから性的虐待で告発されたのは随分前。それこそ、スン=イーと結婚する前で、養女との結婚含めてミア・ファローとの泥沼が当時大きなスキャンダルだったが、世間はまだウディに寛容だった。しかし、2017年以降の#MeTooムーブメントと、その旗手となったジャーナリストであり、姉の味方についた実子のローナン・ファローの働きによってウディを取り巻く状況が大きく変化し、アマゾンから新作3本製作の契約を解消されたのはざっくりと知っていた。が、問題のレイヤーがそれぞれ複雑に折り重なっていることが、村山さんのnoteでよくわかった。アメリカで新作が公開されなくなり、今後も製作できないとなると、ウディは事実上、社会的に抹殺されているといえるのか?しかし、日本では変わらずウディの映画は都会的なオシャレなものとして公開されているというギャップに確かにモヤモヤする。そして、昨日、村山さんが緊急トークセッションを開催した。なんとも刺激的なタイトル。とりあえず参加するしかないでしょ。

興味深かったのは、作り手と作品は切り離して考えるべきかどうか、というトピック。深田監督ははっきりと切り離すべきではないと断言し、佐野さんは作品の中に人間観がにじみ出ているウディ・アレンこそ、切り離すべきじゃない作り手だと述べた。今回初めて知ったが、映画ナタリー・浅見さんの記事が素晴らしい。取材に応えていたLA在住のライター平井さんの見解も納得。映画ナタリーがこんな骨太な記事を掲載する媒体だと思ってなかった。

浅見さんがこの記事を掲載することは簡単ではなかったと話していたが、彼女の熱意を通し、掲載を許容したマスメディアとしての映画ナタリーを見直した。途中で退席した深田監督以外の登壇者はライター・編集者・記者であり、マスメディアの送り手として、このような問題にどう向き合っていくかといった議論になっていった。その中で、批判的な記事を書くと配給会社から嫌がられるといった話を聞いたことがあるし、それが前より強くなっているのを感じるといった話が出た。

と、ここで急に我にかえる。ああ、これは今の日本の映画メディア(映画を取り上げるマスメディア)と配給・宣伝の問題でもあるのかと。『ワイルド・マン・ブルース』が公開された1990年代末には、映画メディアがたくさんあり、軽いものから重いものまで映画批評の場があった。2000年代以降、デジタル化が進むなかで、映画専門誌が減り、サブカル誌が休刊し、地上波テレビの映画番組もなくなっていった。映画メディアが減っていくのと反比例して、公開本数は増え続け、毎週20本以上の新作が公開されるのは常態化した。TV局出資の邦画や大量広告出稿が可能なメジャー映画以外を配給・宣伝する側は、少しでも映画の露出を増やすために、少ない映画メディアのパイを奪い合う。映画の内容をしっかり伝えられる場が少ないことを逆手に有料記事を営業するマスメディアが増え、多少の出稿をしても記事を出したい配給会社も少なくない。出稿案件でなかったとしても、映画メディア側が読者受けする無難な記事を求めることが多くなったのもよく耳にする。プレス資料そのままの、作品批判をしないヌルい記事が目につくことも多くなった。メディア露出のためのマスコミ試写は、会場費も試写状の発送費もそれなりにお金がかかっているが、マスメディアに枠をもっているライターや編集者で、マスコミ試写に来場する人は正直限られている。マスコミ試写が昔からの付き合いで今は何をしているのかわからない知的シニアにタダで映画を見せるだけの慈善的な場になってしまっているのは否めない。

この古い慣習と無駄の多い状況は、マスメディアの送り手やその奥にいる配給・宣伝に携わる者にとって、当然ながら良いことではない。今や、映画の言論空間はSNSやnoteなど個人発信のメディアに移っている。村山さんのnoteに反響があったこともそれを裏付けた。今回のトークセッションのような簡単に結論が出ない問題を議論し、受け手に届けられる場が映画メディアに少ないことが改めて露呈し、登壇者たちの忸怩たる想いも伝わってきた。このコロナ禍において、これまでの慣習と無駄を変えられる機会がやってきたと捉えて実行できるか、マスメディアの送り手も、私たち配給・宣伝に携わる者も、試されている。



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