男と女。
アニマとアニムス。
ユング心理学において、集合的無意識の中にある内なる異性について読んだのは22歳の頃。妙に記憶に残ったのは私自身が性について葛藤していたのだろうと今になれば思う。
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ユングによればアニマは男性の集合的無意識の中にある女性であり、アニムスは女性の集合的無意識の中にある男性である。
これは当時からフェミニズムの論客によって批判されていたらしい。集合的無意識の前に性別があり、集合的無意識の後にも性別があり、ユングの文章、語り口が男性性の優位を感じさせたのだろうか。研究者ではないのでなんとなくそんな風に想像している。
しかし河合隼雄によればユングは研究を進めるにつれてアニマを両性具有的に扱うようになったらしい。
そうであれば集合的無意識の前に性別を置くこともなくなったのかもしれない。これは私の勝手な想像。
また、河合はアニマとアニムスを「たましいの元型」と言う。アニマとアニムスが両方揃ってたましいの元型となると。この時点で性差は超えられた。
また、ユングは個性化というプロセスを紹介している。アニマとアニムスはそれぞれ個性化する。それは自己実現という概念に繋がる。
ユングは続ける。個性化のプロセスにおいて性別による差はないと。ここでも性差は超えられた。
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ここまで読んでいただいた方々はもしかして、
(コイツここで知識ひけらかして何なん?マウント取りたいの?どこでも誰にでも知識ひけらかす奴ってのは大体そんなに賢くなくて薄っぺらいんだよな〜)
とかお思いかもしれない。でもどうか最後まで読んでいただけたら、私がなぜこんな面倒なことを引き合いに出したのか分かっていただけるかもしれない。
アニマとアニムスは、私自身の問題だった。
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私は男性の友人もいるが、彼らといるより女性の友人と一緒にいる時が安らげる傾向がある。先程の文章で性差は超えられたと言っていたのに、ここでまた性別を持ち出すのは野暮ったいが、小さな頃からそうだったという、過去を含んだ話としてご容赦ください。
保守的な色の濃い地域に生まれた私は男、しかも長男。小さな頃から「男は早飯、早風呂、早着替え、ついでに早糞!」と言い聞かされ、それができなければ男じゃないと人間外に放り出さんばかりの中傷を受けた。
案の定、食べるのが嫌い、風呂が嫌い、着替えるのが嫌いになった。全てが義務になった。トイレだけは不思議と落ち着いた。鍵のかかる個室がありがたかったんだと思う。
私は男になりたいと思ったことはなく、生まれたら男だっただけだ。とはいえ女になりたいと思ったこともなかった。
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アニマとアニムスに出会い、たましいの元型に出会い、個性化のプロセスに出会い、今私が思うこと。
私の性別は男。
心の中は男2割の女8割、でも境界線はなくて混ざりあっている。
きれいと思える人や景色、音楽、文章、生き方なんかを愛してる。
味がある人や景色、音楽、文章、生き方なんかを愛してる。
かなしみ、孤独、弱さなんかを愛してる。
自分自身で性差を超えられた、自由を愛してる。