思考の過程③ ぼくらの表現について
2021年3月21日(日)の夜、くろまっちゃん(クロマト氏)のツイートキャスティングにコラボして、絵を描くことやその他の表現に関して色々な話をしたんだ。
くろまっちゃんと私がこういった話をしていくと、「発する機会を失っていた言葉たち」が自然と湧き出てくるんだよ。
この記事では、深夜のぼくらの会話の中で印象に残った部分を、もう少し深く掘り下げていけたらと思ってる。
絵を描くきっかけについて
くろまっちゃんが絵を描くきっかけになったのはおじいちゃんの逝去によるものだったそうで。
詳しくはくろまっちゃんの記事をご参照くださいませ。
私の場合は幼稚園に行く前のコピー用紙の裏紙の思い出に遡るよ。
これも詳しくは私の記事「思考の過程②」をご参照くださいませ。
記事を読んでいただくとなんとなく伝わるかなと思うけど、要点は「くろまっちゃんと私は絵を描くきっかけや絵に対する姿勢は違うけど、なんか似ている」っていうところ。
初めて話した時から
くろまっちゃんと初めてツイートキャスティングをしたのは2021年1月のことだったような。
それはそれは話が止まらなくなっちゃって、次枠、次枠でずっと話していた印象があるなぁ。
何をそんなに話してたかって、表現すること、自分の中から出たがっている衝動を放つことを、お互いにつたない言葉を懸命に用いて意思疎通していたのだなぁ。
そんなことを話す相手なんて、お互いに今までいなかったからさ、もう無我夢中になって話したよねぇ。
初めて話す相手と深く長い話をすることはあまりないよね。
面識もなければ予備知識もない中でさ、ツイキャスの音声だけでラリーするんだから、そんなふうに止まらなくなるなんて思わなかったよ。
今思うと、ぼくらに必要な環境はツイキャスだけで十分だったみたいだよねぇ。
その後も何度かツイキャスで話したりしてきたんだけど、あの日のように深く話す機会って作れるものではないからね、普通に楽しんでたんだ。
絵の感想「すげー」について
そんで3月21日のツイキャスは、ぼくらがひさしぶりに深く話す回になったんだ。
お互いの描く絵の話をしている時、私が開いている街角ギャラリーの話になったのね。
色んなひとが見てくれるんだけど、子どもたちの感想って「すげー」「うめー」だけなんだけど、それがいいよねって話になってさ。
多くのおとなのひとたちは「いや~いいご趣味ですな」とか「ほ~こんな絵が描けるんですか、うらやましい。私は描けないから」とか、「この絵はどこの風景ですか?ほ~そこですか」とかよく分からないことを言うよね。
子どもたちとおとなのひとたちって何が違うんだろうねって考えていくと、言葉が邪魔をするんじゃないかという話になったんだ。言葉の呪いにかかってしまうって。
言葉の呪いは厄介で、感動を小さくしてしまうことがあるんだよ。
大きかったはずの感動の大波を(まるで水槽に入れてしまうように)言葉の意味の中に閉じ込めてしまうんだ。
そんな言葉を遣うくらいなら、手放してしまえばいい。
だから「すげー」でいいんだよ。
「すげー」について、くろまっちゃんと私はおんなじイメージを持っていて、すげーのは夕陽だってことで一致したんだ。
みんな夕陽を観たことあるかい?観てさ、何て言う?「すげー」「きれー」「うわー」「っふー」とかじゃないかな?
「小手先じゃないからさ」
そうそう、夕陽について話しているとき、不意にくろまっちゃんが言ったんだった。
「なんかおれの絵について色々言われたりすることがあるけど、例えば口元がいいですねとか、目がきれいですねとかさ。困っちゃうんだよね、おれが描く絵って小手先じゃないからさ」
くろまっちゃんっぽいなぁと思ったよね、それは彼の絵からも十分感じることができるから、小手先じゃない彼の絵をこの記事を読んでくださってるひとにも是非観てほしいよ。観たあとにじぶんの心に問いかけてほしい、どう感じた?って。
くろまっちゃん、笑いながら言ってたけど本気の言葉だってすぐわかった。
夕陽の話と対応してるから、意味もよくわかったんだ。
圧倒的な夕陽を前にしたぼくらは、夕陽の姿にじぶんを見るんだよ。
そこには批評や手直しなんかはあるわけないよね。
小手先じゃないってそういうこと。
ある日の夕陽を観て、感動したとするじゃない?
言葉で表現したくなったら詩や文章になるよね。それでも足りなかったら音楽や絵になったりして。
それらの表現がもしある日の夕陽になったとしたら、そこにはもう批評や手直しなんかの言葉はいらないってことだよ。
ぼくらの違いを超えて...その向こうへ
くろまっちゃんと私は当然ながら違うところも多いんだよね。
例えば、くろまっちゃんは外部からのルールがあってそれを守ることで安心感を得るタイプで、私は外部からのルールは一度自分で確かめてみて必要ないと思ったら破るタイプ。
目的地があったら、くろまっちゃんは困難から逃げて逃げて逃げまくってやっとたどり着くタイプで、私は何が何でも最短距離を突っ切るタイプ。
アプローチが違っても目的地は近い気がするよねって話をしたんだ。
話していると向こう側に見ているものが近い気がするっていうのかな。
くろまっちゃんは夕凪を完成させたんだよね。
あえて言葉にしてみるとあの絵からだけ、夕陽を感じる。
他の絵にはない、くろまっちゃんの中に入った夕陽の照り返し、夕陽の温度とくろまっちゃんの体温、想いの先に続く道みたいなもの。
ああああ!言葉じゃ足りないんだ!いや遣いこなせないんだ!
もう観て!夕凪、観たらわかるですからあ!
ひるがえって私は何を完成させるんだろうなぁ。
いまだに「これだ!」っていう表現にはたどり着いてないよ。
でもさ、ぼくらは確実に、想いの先に続く道の上にいるよね。