タコピーの着地
「配られたカードで勝負するっきゃないのさ、それがどんな意味であれね」
スヌーピーだ。
押しも押されもせぬアラフォーとなった今でもなお、あの達観した犬が放ったこの言葉に、時おりどうしようもなく救われることがある。
「人は」
こんな大きな主語で語ってもいいのだろうか。いや、ダメだろう。誠意がない。
「僕は」本当は家族三人で暮らしたかった。そういうことである。
つまり、しずかちゃんやまりなちゃんの体験の中に、自分の体験と重なる部分が少しだけあった。珍しくもないだろう。
「僕は」自分の不運について、いつか取り返しがつくもの、少なくとも「配当が少なかった分、あとで補填があるもの」と思っていた期間があった。チャッピーを必ず取り返す、でなければそんなのおかしい、そういう精神構造におちいったしずかちゃんの置かれた状況に共感した。
客観的に見るとバグっているにしても、やっぱり共感していた。
そういう「僕は」他人に対して横柄で、不足感を隠そうともせず、人にはやってもらって当たり前で、他者へ架空請求していることに気がつかないような人物だった。
攻撃的な発言、被害者意識の強い思考回路、なによりいつでも自分の主張を聞いて欲しくて仕方がないメンタリティ。
それもそのはずで、不運を「不運だった」と受け入れられず、いつかは帳尻が合うものだと思っていたからだ。
いつでも取り返す気まんまんで、他者に対して無意識レベルで虎視眈々とそれを狙っていたと思うし、そうでもしなきゃやってられなかったというのもある。立派な架空請求。
今になって、不運は不運でしかないのだ、そう思う。けれども、そんな自分に等身大で関わってくれるかけがえのない人がいた。
どうしようもない時はある。いつだって配られたカードでゲームを闘わなければならない。
たとえ等身大で関わってくれるかけがえのない人であれども、過去の不足を埋めてくれるわけではない。いつもそのことに不満をいだいていた。
ーー<今>の自分を満たしてくれるときづくまで。ーー説明しすぎかもしれないがーー過去は取り返しのつかないことだが、目の前にいる人だけが<今>を満たしてくれる。
タコピー最終話を読んで、自分が学んできたこれらの事が一気に駆け巡った。
しずかちゃんの家族も、まりなちゃんの家族も、まったく上向きになっていない。
それはそうだ。自分がそうだったからかもしれないけれど、今の時代、それがもっともリアルだよ。
ただ二人は、配られたカードの中で闘う前向きな力をタコピーにもらったのだ思う。タコピーの等身大が二人に届いたのだ。
ーー届かない時もある。届かない人がいる。どんなに等身大でぶつかっても、過去のトラウマにとらわれて面前の人の気持ちに気づけない時がある。僕はそうだ。
でも、気づく時もあったのだ。
タコピーは大切なことを示した。
どんなにポンコツでも、人を幸福にすることはできる。
どんなに素敵な道具があっても、そんなにたくさんの人を幸せにはできない。誰であってもそうだ。なぜなら、人のぬくもりはとなりの人にしか伝わらないからである。
幸せになってみると、こんなことが自分の幸せの形になのかと思うことがあった。期待はずれなのに、妙に嬉しいようなこと。
三人はタコピーの等身大の温もりにふれて、その境地に立てたのだ。
不足感のある幸福な話だった。
そうだ、この世界はそんな感じなんだ。
……そんなラストでした。毎週どうなるか楽しみで、楽しい連載でした。感謝。