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躾と虐待の境界、家がつらい子供たちへ

躾のつもりで虐待する親たち


子供への虐待の報道があとを絶ちません。

虐待が深刻に問題視されるようになったのは最近なのか、それとも、わたしの元にあちゃさんが生まれたから、虐待のニュースに敏感になっただけなのか。それはわかりません。

逮捕された親の多くは「躾のつもりだった」と言っているようです。ただの言い逃れかもしれませんが。


今年、栗原心愛さんが父親に暴行を受け、死に至った事件がありました。

心愛さんは学校のアンケートにSOSを出していましたが、父親からのアンケート開示への〈脅し〉に屈し、学校側が秘密を守らず開示したことによってさらに虐待がエスカレートし、彼女を死に至らしめた、というのが世間の見方です。

おそらくそうなのだと思います。



子供は大人に〈遠慮〉する


わたしの話をします。

母は未婚でわたしを出産しましたが、わたしが10歳のとき結婚しました。そのとき初めて、自分に〈父〉という存在ができました。

父親だと思うことはできないので、便宜上、以降は〈養父〉と記すことにします。


養父とわたしは折り合いが悪く、家で彼と同じ時間を過ごすのは苦痛でしかありませんでした。

叩かれる、蹴られる、ひどい言葉を言われる、それが日常でした。

彼はなにか文句をつける理由を探しにきて、怒鳴ったり暴力を加えることで、自分のストレスを解消しているように思えました。



中学生のとき、考え抜いたあげく学校の先生に「家にいることがつらいので養護施設で暮らしたいのだがどうすればいいか」と相談したことがありました。

いまの家庭の状況や、なぜつらいのか、ざっくりと話して帰宅すると、すごい形相の養父が待っていました。

わたしの話を聞いた先生はすぐに自宅へ電話をし、あなたのお子さんは養護施設へ移ることを希望しているようだと話をしたみたいでした。

「恥ずかしいことをするな!」と髪の毛を掴まれ引きづられ何度も殴られました。

いまのわたしなら、『恥ずかしいこと』をしているのは保護者であると冷静に判断できるのですが、そのときは自分のせいで親に迷惑を掛けてしまったと感じ、誰かに相談することはできない、してはいけないんだ、と思いました。



栗原心愛さんの事件を知ったとき、まずそのときのことを思い出しました。今なお、学校は何も変わっていないことがすごく悲しいです。



現在はインターネットが普及していたり、世論でも児童虐待への関心が高まっているので、わたしの子供の頃とは違うのかもしれないですが、

もしあの頃のわたしが今、子供だとしてテレビで誰か同じくらいの年齢の子の虐待死のニュースを見て何かを思うとしたら、

「自分も親にひどいことをされてつらいけど、殺されることはさすがにないだろうから、専門の人への相談は無理だろう、殺されるくらいにひどくないと話は聞いてもらえないだろう」

ということです。



大人に〈遠慮〉して、相談することを諦めると思うんです。


子供だから素直で正直でなんでも率直に話すなんてことはまったくなくて、学校へあがる前の幼い子でさえ、遠慮をしたり、気を遣ったりはします。



実際のところ実母にも、養父から何をされた、何を言われた、ということをあまり言えなかった気がします。

叩かれたりするのはだいたい、母が家を留守にしているときだったし、それを母に言った場合は、さらに〈告げ口〉したことを非難され、あとでもっと痛い目にあうからです。



いつだったか、テレビを見ながら寝そべっていたら、急に養父が吸っていた煙草をわたしの足の裏に押し付けてきたことがありました。
熱くて痛くて、びっくりして飛び上がりました。

たまらずにそれは帰宅してきた母に伝えたのですが、母が「さすがにそれはひどい」と怒ると、養父は「火を消してからやったから大丈夫」と笑いながら答えました。


母の台詞から推察するに、母はわたしに対して養父が日常でなにをしていたのか分かっていたのでしょう。

記憶は曖昧ですが、母が養父から自分を守ってくれたという自覚はあまりないです。



母が結婚するまでは、母はわたしの誇りでした。

ほかの子はお父さんとお母さんがいるけど、うちはお母さん1人だけで2人分の役目をしているから、うちのお母さんは誰よりもすごいと思っていました。



のちに母は離婚をするのですが、結婚してからの母に対しては、わたしは少しずつ失望していったような気がします。




拠り所になる素敵な言葉を知った


家ではいつも枕に顔を押し付けて泣いていました。泣き声を出すと、うるさいとさらにひどく怒られるからです。
大声をあげて泣きたくてたまらないけど、それができないので枕を押し当てて声が漏れないようにして泣いていました。


そんな毎日で家にいることがつらいと感じていたある日、【反面教師】という言葉があるのを知りました。

その言葉は、とても素敵な魔法の言葉のように思えました。どんなに理不尽なことをされても自分はこんな人にはならないと思えば大丈夫だと気づいたからです。


それからは何をされても「反面教師だ反面教師だ」と心の中で唱えて、やり過ごすことを覚えました。



わたしは親に対して、「育ててもらった」とは思えずにいます。高校を卒業するまでただ同じ家で一緒に暮らした、という感覚が近いです。

もちろん、食事や寝る場所を与えてくれるのは親だったのですが、大皿のおかずを食べようとすると養父に睨まれるため、自分用によそってもらったご飯とお味噌汁しか安心して食べることができなかったり、
「お前は布団で寝る資格がない」と言われて洗面所で寝ていたことなどを思い出すと、

おいしいご飯とあたたかい布団がいつでも用意されていた、とは思えません。


高校は奨学金で進学し、それはのちに自分で返済したので、学費で親に世話になったという実感もないです。
高校卒業後の進学も新聞奨学生をして賄いました。




〈叱る〉と〈怒る〉の違い


いま、親になった自分はどうか。


あちゃさんのお世話をして思うのは、〈躾〉ってなんだろう、〈育てる〉ってなんだろう、日々模索しています。


あちゃさんは乳児なので、もちろん言葉はまだまだちゃんと理解できないのですが、とにかくあちゃさんが怪我をしそうな危ないときは全力で叱ります。

「だめ」「痛い痛いだよ」、それくらいの言葉は言われるとなんとなく解るようです。ほかにも、厳しい顔つきと口調で、これはだめなんだと察してくれるようです。



まだ生後1ヶ月過ぎたくらいのとき、あちゃさんは眠くても寝ることがとても下手で、一日中泣いてばかりいたときがありました。

夜泣き以前の問題です。1日トータル3時間弱の睡眠しか摂れていませんでした。それが3ヶ月目になるまで続きました。

十分にミルクをあげても、オムツを替えても、ずっと抱っこしていても、何をしても、よく眠ることができず、ようやく寝てもすぐに目が覚めてまた泣き続けていたので、わたしは自分が休むことはもちろん、食事も、トイレに行くことさえままなりませんでした。


少しでも寝られるようにと昼間でもカーテンを閉め切って部屋を暗くし、YouTubeの赤ちゃん用オルゴール音楽を流し続け、「眠いね、寝られないね」と声を掛け、優しくトントンしていてもずっと泣いています。


泣き疲れたら寝るのだろうかと思い、ベッドに置いて1時間、少し離れて様子を伺ってみたこともあったけど、ずっと力の限り泣き続け、1人で寝ることはありませんでした。
きっかり1時間が経過して、あちゃさんを抱き上げると泣き過ぎて顔が青ざめていて、すごく自分を責め、以降は二度と泣き疲れたら寝るのかどうかを試すことはしませんでした。


赤ちゃんが泣き止まないのは精神的にすごく参ってしまうことで、泣かせておいてそのあいだにくつろいでコーヒーブレイク、なんて、とてもじゃないけどできません。

心身の疲労が限界でイライラして、感情が爆発してしまって叫んだこともあります。するとあちゃさんはこの世の終わりみたいにさらに大泣きし、わたし自身も情けなくて泣けてきて、泣きやまないあちゃさんを、自分も泣きながら抱っこしていたこともありました。



あるとき、泣き続けるあちゃさんに、厳しい口調で「あちゃさん。泣いたら眠れないよ。ねんねのときは静かにするんだよ」と言いました。

あちゃさんは今まで聞いたことのないわたしの話し方に驚いたようでさらに泣いたのですが、口調を変えずに、「ねんねだよ、眠いときは泣かないでねんねだよ」と抱っこしながら何度も繰り返しました。

すると、あちゃさんは泣くのをやめて、しばらくすると寝息をたて始めたのです。


驚きました。

生後3ヶ月のあちゃさんが言葉の意味を理解しているはずはないのですが、
そのとき初めて、自分の感情で〈怒る〉ことと、〈叱る〉ことはまったく違うのだと実感したのでした。

それから少しずつ、あちゃさんは睡眠時間を長く摂れるようになってきました。



とは言え今でも、何度叱っても分かってもらえないときは、ついイライラしてしまい、感情で怒ってしまうことがあります。

また、ネガティブな発言をしたくない、感情で喚き散らしたくないという気持ちから、とことん無言になってしまうこともあります。
無言も逆に、すごく怖いですよね。

あちゃさんはわたしの感情の変化にとても敏感で、そんなときのあちゃさんの顔は本当に悲しそうで、非常に申し訳なく、すごく後悔してしまいます。




子供の〈育て方〉に正解はない


〈躾〉って言葉は一方的な能動行為のようで個人的にはあまり好きではないけど、

強いて言うなら躾とは、子供が1人でも気持ち良く生活できるようになるために、行動や言動を諭すこと、それを理解してもらえないときは〈怒る〉のではなく〈叱る〉こと。

最近、なんとなく、そうなんじゃないかと考えています。


また、〈育てる〉っていうことには正解はなくて、無数の育て方があって、
いろいろな専門家や周囲の人たちの意見を取り入れながら、最終的にはとにかく自分自身が納得できることを実践していくしか方法はない、あちゃさんが誕生してから、そう思うようになりました。



例えば、乳児に与える母乳やミルクひとつに関しても、いろんな考え方が存在しますよね。

何がなんでも母乳で育てたいという人もいれば、栄養さえ摂れればミルクでもこだわらないという考えもあり、それはもう、その子供の親が決めたなら、他人が横から口を出す問題じゃないです。



しかし育て方において、自分の都合で、自分の感情のはけ口に子供を傷つけるのは〈虐待〉です。

暴力でもって子供を制するのは〈虐待〉です。

子供を自分の感情によって虐げ、支配するのは、〈育てる〉ことではありません。そう思いませんか。


確信を持って言えることは、子供にとって生活の基盤は【家】がすべてで、保護者との暮らしによって、気持ちの在り方が180度違うということです。




【家】がつらいと感じているあなたへ


だから今、家にいることがつらい、親や保護者と過ごすのが苦しい、と感じている子供に伝えたいことがあります。


危険性の度合いは関係なく、大人に遠慮せずに、気を遣わずに、

学校の先生でなくても交番のお巡りさんでなくてもいいから、
よく行く図書館の司書さんとか、児童館の先生とか、友だちのお母さんとか、お店屋さんやコンビニの顔見知りの店員さんでも誰でもいいので、

周囲にいる大人の誰かに、その自分の苦しさを正直に伝えてほしいです。


その人が理解してくれなかったり、助けてくれなかったとしても、
親に連絡がいってしまってさらにひどい目にあったとしても、
誰かあなたの苦しさを理解してくれる大人を、また諦めずに探し続けてほしい、そう伝えたいです。


もし自分が相談を受けたときは、最低限の行動として、専門の機関へ報告することだけは必ずしたいと思っています。



また、自分の【家】の中では、もしわたしの行動や言動が今後あちゃさんにとって苦痛を与えていたようなときは、あちゃさんが奴さんにその痛みを吐き出せるように、

それを彼が受け止めわたしを諌めてほしい、軌道修正する機会を設けてほしい、

奴さんとはお互いがそれぞれにそんな立場でありたい、と考えています。


あちゃさんには、親を反面教師だなんて思ってほしくないのです。




【厚生労働省HP】
*虐待かもと思ったら児童相談所全国共通ダイヤル189番へ→

https://www.mhlw.go.jp/bunya/koyoukintou/gyakutai/index.html


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