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サイエンスSARUって日本一じゃんよ。ダンダダン7話

アニメスタジオ「サイエンスSARU」が「血の通った」組織であると分かるダンダダン7話のインタビュー記事がnoteにありました(下記引用)。

榎本:(笑)。でも、この第7話にどんな反応をいただけるのか……まだ戦々恐々としています。原作を知っている人もそうでない人も、面白く観て頂けたら嬉しいですね。

才能を結集させて完成した第7話――絵コンテ・作画監督榎本柊斗、演出・松永浩太郎「ダンダダン」最速インタビュー|月刊ニュータイプ / Newtype Magazine

私は原作既読ですが、7話は、場外ホームランでした。もちろん作画・演出が凄いのは当然として、それをもり立てる脚本も凄かったです。

ここでは脚本の2点だけ触れたいと思います。ネタバレです

  • ダンダダン7話:優しい世界へ

  • スタジオ:サイエンスSARU、監督:山代風我、7話作画監督:榎本柊斗、演出:松永浩太郎

  • 7話主要人物
    -- 母(後に妖怪になる)
    -- 娘(母の娘だが連れされれる)
    -- アイラ(妖怪になった母に、娘認定されたメインキャラ)

まず7話の肝は「母娘」です。実は原作の時点で完璧で、「うしおととら」や「鬼滅」のレベルに来ている。それをアニメ化で、作画力・演出力で神回に仕上げるのが課題です。そのために2点、「夜空バレー」と「ラストハグ」に焦点があてられたと思います。


前半「夜空バレー」

https://youtube.com/shorts/7S5Ll1Gvd58?si=IrCkTZNRFuuRqT1R

前者「夜空バレー」は、原作の飛び降り自殺の改変でした。アニメは、原作未読だと轢かれて死んだと理解される演出に変わっているのです。この改変は改善です。母の自害性を消去し被害性を際立たせる事で、「この母を救済したい」という視聴者の願望を掻き立てるのに成功しています。そして、その願望を「優しい世界へ」と語るアイラが言語化し、カタルシスに繋がります。

同時に、原作既読勢には「夜空バレー」がちゃんと飛び降り自殺の描写に見える湖面に映る星々は、ビルや車の地上の光です。飛び降りて自由落下する浮遊感を、あのバレーダンスに描いていると分かる。あのダンスに作画カロリーを費やすのは「母の死の瞬間」だからです。この絵作りは、映画ダンサーインザダークにも使えたんじゃないか?そう思える素晴らしい映像表現でした。

無論、「自殺の美化」と批判まねく可能性もあります。アニメでは車に轢かれたと「も」とれる省略表現にしたのは正解です。しかし私は、あまりに美しいダンス表現に仕上がっている(スタッフ、リトル・ダンサーでも見たんかな?)事で、「アクサラ(母)は、飛び降りがしたかったんじゃない。ただ、バレーがしたかったんだ!」と、「空中に踏み出したそのつま先は、本当は、バレーのつま先立ちをしたかったのだ」と、感じました。あのつま先立ちは「ポアント」と名前を持ち(さらに派生種類あり)ます。その正確な描写をした作り手側が心の中で、「自殺じゃなく、ポアントじゃんかよ!」と訴えているように感じて、余計に感動しました。

自殺は罪です。でもそこに至る過程は、現実という暗闇に漏れ輝く「生」に溢れている。その光を取り出すのが、アニメ・映画を含む文学の責務だと思っています。この「夜空バレー」シーンは、母の「生」を描いている。いえ違いますね。母となったバレリーナの「生」を描いている。そこを精一杯描く事は、成仏を願う事と同じです。だから震えました。何故なら、「アクロバティックさらさら」というふざけた名前の妖怪に「命」をあたえるアニメーションに、この「夜空バレー」がなっていたからです。

まとめると、改変は改善で、原作既読者を余計に感動させ、支払った作画コストを真の「アニメーション」に転換している。これが「どうしたら、こんな改善できるの?」という1点目です。ただアニメでは、ライトに突如浮かぶ母が跳ねられて空中に飛ぶ運転席視点のシーン(ホラーでよく有るやつ)から、「夜空バレー」に入ったら良かったとは思います。

後半「ラストハグ」

後者「ラストハグ」は、原画を見て初めて気づいたのですが、手前の母帰宅シーンの扉の逆側を描いているんですね。2秒間に映る母の服装やカメラ画角から分かります。完成版だと、まぁ見る度に泣くので気づかないw。

たぶん伏線を逆算してると思います。

台詞「宇宙一幸せ」や「優しい世界」を響かせるため、まず宇宙(=夜空)を背景にして、そして「絵に書いたような幸せ」をアニメで描こうとしたと思います。歯抜け娘とかも「咀嚼したい」ぐらい可愛くすべきだし、暴力シーンも視聴者が顔しかめるまで痛々しくすべきです。これは、作画力で成功してますよね。普通過去回想は写真なのに、三次元でカメラ移動するのも、私には斬新でした。

また「ラストハグ」で、アイラと娘の「走り」を強調するため、母が「娘を求めて彷徨い走るシーン」を冒頭と中盤に描く必要があった。こういう「必要なシーン」は下手にやるとつまらないのですが、今回は非常に面白い表現(黒バックに揺れる灯)にすることで見応えを出すのに成功している。

逆算の最後に、母が「ただいまを言えない闇落ち(●春など)」をしっかり視聴者の心に入れ込むのも大切でした。キッチンタイマーも、ドアノブに映る自分の姿も、そうですね。

結局、この「ラストハグ」は複数伏線の回収で、全く同じシーンを、最初に帰宅を逡巡する母側から描き、最後に帰宅を待ちわびる娘側から描きます。みなさん、聞いてくださいよ!?そこまでは、母親目線の娘への愛情をたっぷり描いて、この「ラストハグ」シーンで妖怪として自宅に戻ってきた母を見せ、満を持して、逆に二人の「娘」側から母親への愛情を描く。つまり、まず扉の外には、ただいまを言えない母がいた。その母が妖怪として帰ってきたら、壊れた自宅は無人。でアイラは走る。アイラの走りは実の娘の走りになる。その走りの描写の中に、実は扉の内には母より強烈に強力に、おかえりを言いたい娘がいたのを描く。この玄関扉を挟んで対称な母娘を描く。対称なのは、過去の母と過去の娘で、かつ現在の妖怪とアイラです(下図)。無論「ラストハグ」シーンでは、実の娘の走り出した足だけ映して、顔は映しません。だって妖怪になって娘の顔忘れてるから。(こんなん、泣くじゃんか!)

玄関扉を挟んで対称な母と娘のキャラ構造 
四画像の引用元: https://x.com/anime_dandadan

顔さえ忘れられた娘の想いをアイラが届けるから、メインキャラにふさわしくキャラ立ちする。キャラ立ったアイラは、自然と走り出しますよ。母を亡くしたアイラが、「おかえり」をもう言えないからこそ、想いは増幅されるのです。この増幅された想いは、娘の純粋な会いたい気持ちをコアとして、その一番外側は、この母に成仏して欲しいアイラの気持ちが支えています。その惑星内部構造のような複雑な「想い」を、「おかえり」を言えない現在のアイラが、「ただいま」を逡巡した過去の母に届ける。だから、このシーンでキャラ間を行き来する交流感情は稲妻になる。

これが「どうしたら、こんな改善できるの?」という2点目です。ただ伏線貼る時に、ドア鍵を開ける音やドタトダ廊下を走る音もしっかり入れて、ラストでアイラが走り出す直前、ドア鍵開け音をもう一度入れたら……まぁ神回に失礼ってもんですが。

最後に

余談ですが、海外Youtuberも気づいていて笑ったのですが、7話はルフィーの「ワンピース発言」があります。そっちで例えるなら、チョッパー級の新キャラ追加エピソードを30分におさめたのが7話と言えますね。また7話は映画「マインド・ゲーム」みたいな遊撃力があり、作品主題の力強さを単発エピソードに活かした王道の「ヴァイオレット〜」10話とは戦略の違う、でも同じく泣ける神回でした。ちなみに「ヴァイオレット〜」は、美少女絵を我慢して見続けたら、なるほど京アニ日本一だと思ったし(いや日本一は複数存在して良いのです!)、そう言えば最後は邦画「鉄道員(ぽっぽや)」の高倉健を思い出しました。ホントです(Filmarks)。ダンダダンのファンの方も「ヴァイオレット〜」と「鉄道員」を是非見て下さい。見た上で、何言ってんだお前!ってなったら、すいませんでしたw.

以上、サイエンスSARU、日本一じゃね?という note でした。おそらくは、原作改善をしっかり考えられていて、トップから末端スタッフまで力を出し切っている「血の通った」集団だと感じます。このチームを監督する山代風我さんは令和に名を残す天才かも知れません。

「室井慎次 生き続ける者」も踊る大捜査線のリブートとしては酷評の嵐。日本のドラマや邦画、その合体であるテレビ屋映画は、サイエンスSARUを見習ってほしいですね。


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