シェフェール『なぜフィクションか』を読む⑥

概念的な分析を求めていたのでこの辺りは個人的におまけの部分だが、折角なので全編やっておく。

第四章

応用編なので気になった話題を扱うに留める。

フィクション装置の一つとしての身体的アイデンティティの入れ替わり。古典的なフィクションにおいては演劇の役者などがこれを実践しているが、デジタルゲームは受容者が同時に行為者となることを可能にした。「異なる主体への心的かつ行動的な同一化」(p.218)がここでは起きている。
メタフィクション・ゲームの話でも触れた、ゲームをプレイし、選択するのはプレイヤー自身だという点は正にこの行動的同一化を示している。更に言えば、ただテキストを読む時間が大半で、僅かな選択肢だけがあるノベルゲームでさえ「ゲーム」として成立することから、身体性は必ずしも重要ではないのかもしれない。
またソーシャルゲームにありがちな意味のない(その後の物語に影響しない)選択肢のフラストレーションは、その同一化を阻害するものと理解できる。物語上そこにあるべき行為はただ言うことなのにもかかわらず、プレイヤーは選択することを迫られるのである。それは等価な2つの選択肢ではなく、ただ1つの選択肢となるべきだろう。(しかし、そもそも選択肢でしかプレイヤー視点人物が喋らないために選択肢の提示が多すぎる、といったそれ以前の問題もまたよく見られる。)

演劇における語りのアイデンティティの入れ替わり。演劇には確かに脚本というテキスト状態が存在するが、その中で語り手は一定ではなく、様々な登場人物がそれぞれ自ら語る。フィクションとは必ずしも単一の語り手によるものではない。これもまた「共有された遊戯的偽装」の一形態として理解できる。
またシェフェールはト書きが没入を中断させるのではないかという見解を軽くあしらっており、子供が「設定」を取り決めるためにごっこ遊びを中断するような行動については第三章かどこかで触れられていたはずだが、それはTRPGにおけるメタ的会話とロールプレイ的会話のシームレスな混合を思わせる。

絵画のフィクション性。一角獣を空想上の生物として描く際でも、それは必ずしもフィクション的な表象になる訳ではない。例えば一角獣を「皆がどのように心に思い描いているかを示すこと」(p.251)が意図であったなら、それはフィクション世界ではなく現実についての絵なのだ。

VRにおけるアイデンティティのバーチャル化。これは分類的にはやはり「異主体への同一化」のようだが、VR世界にいるのはプレイヤー自身の分身である。
これも身体性という観点を除くのならば、「夢小説」といったジャンルに近しい没入の形態を指摘できるというのはやや言い過ぎだろうか。

結論

題名の「なぜフィクションか?」に答えている部分。まずフロイト的な代償行動としての理解を批判し、フィクションの内在的機能としては美的次元のただ1つだけがあるという。美学には通じていない為これはあまりピンと来ないところだ。「フィクションは快を与えなければならない」(p.283)と言うことは結局、面白いからという理由に過ぎないのではないか?


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