2010年代の百合について

「百合」という言葉が生まれる前から、そこには何かが存在していた。
女学校の成立と「エス」文化の発生、少女小説・少女漫画への結実、『マリア様がみてる』に始まり『ゆるゆり』で最高潮となる男性読者の流入。『ユリイカ』の百合特集(2014年12月号)において詳述されている為ここで繰り返すことはしないが、中でも一つ注目したい事実がある。

それは玉木サナ(前出『ユリイカ』p.115)の切迫感を持って描き出している、百合観念の衝突である。
本稿のタイトルで「2010年代の百合」と(雑に)呼んでいるのは、『ゆるゆり』を含む日常系全盛期(日常系についてはこれを参照されたい)における男性的目線からの百合なのだが、そこには玉木の言う「重さ」や身体性(特に性愛)が無く、清純さや精神性が求められた。身体性の百合(ハードな百合、本来は『百合姫』に典型的な百合)と精神性の百合(ソフトな百合、『ゆるゆり』の百合)という対立や前者への抑圧を感じ取って玉木は危惧したのだ。
逆に言えば、少女小説的な百合では精神性が、『百合姫』的な百合では身体性が前景となっていたように、2010年代以前の百合は両者の間に連続性を持ったジャンルであった。

男性読者の流入により、精神性を求める「2010年代の百合」が分化の傾向を見せた。
この意味での百合は、最早あらゆる関係性が「尊い」ものとされる現在(2020年代)ではキャラクター文化の主潮ではなくなった感があるものの、自分なりの理解を書き残すことには少なからぬ価値があると信じている。以下はそういう話だ。

さて「精神性」という言葉は曖昧に過ぎ、分析に堪えるものではない。より核心的な表現は「関係性」だろう。
関係ではなく関係こそが百合なのだ。

この「~性」は何を意味するか?
「人間性」といった物を指す単語との結合では「~らしさ」などその物としての性質を意味する一方、「破壊性」といった動作を思わせる単語との結合では「~する傾向」程度の意味合いとなる。「破壊性」が「破壊」そのものではないように、いずれも「~」のそのものではなく、何かについて性質を記述する語となっている。
ただ「関係性」はやや色彩が異なる。「姉妹」「友人」などの関係そのものを見つめてもそこに向こう側はないし、関係への傾向というのもやや違うような印象がある。関係は既に横たわっており、それへの向き合い方こそが問題なのではないか。関係に対峙した精神の揺らめき。関係の周辺こそがこの言葉からは前景化される。

しかし何故関係性だったのか。関係によってこそ惹起される(と読み手が期待する)心理体験とは何だったか、何がその「良さ」なのか?

この点について私の中に滞留していた一つの概念がある。

控えめに言って癖のあるテキストで、かつて読んだときは十全に理解できなかったのだが、それでも印象に残ったのが「自意識」である。自意識とは「近代的自我」の近縁であり、文学上の重要性は言うまでもない。また確かに関係ではなく関係と言ったとき、参与者の自意識は前景化する。とは言え、それが百合の「良さ」とどう結び付くのか。

もう一つの鍵となったのが、後に読んだ『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』(以下わたモテ)であった。
この作品は主人公のぼっち的奇行が主となるギャグ漫画として始まったが、物語が進み人間関係が広がることで、徐々に百合要素が強くなっていると一時期話題になっていた。

その第13巻、第(喪)126話で主人公が「さすがは元ぼっち 自意識過剰だね」と揶揄される場面がある。ここは指摘する側も自分への好悪を気にしているという可笑しみを示す為に「自意識過剰」とはっきり言っている訳だが、実際、作品全編を通して主人公は自意識過剰な性格に描かれている。
ただここで唐突に理解されたのは、百合における自意識とは即ち、「救済される」自意識だということなのだ。

わたモテの主人公・もこっちは女性ではあるが、「モテない」「友達がいない」「他人を見下す」などの点で、インターネットに流通した男性オタクのステレオタイプ、特にその悪い面が色濃く反映されている。(「性への強い関心」も加えるべきか?)「自意識過剰」もその一面と捉えることができるだろう。

「2010年代の男性オタクの自意識」という括りは大袈裟に過ぎるが、『僕は友達が少ない』といった当時のライトノベルには上述のようなオタクの自己認識がある程度共通して見出されるように思う。
インターネットを通じてオタク文化に触れつつも、現実にはオタク的コミュニティが無く孤独を感じている。そうした状況で、コミュニケーションへの欲求の裏返しとして自意識過剰があった。故に自意識を前景化するコミュニケーションが、そうしたコミュニケーションを生む関係性が救済であったのだ。
「2010年代の百合」とは、そうしたオタク心理に呼応していた。救済されるのは関係性の参与者である以上に、読み手の自意識だったのだ。

こうして紐解くと、いかに『ゆゆ式』に「2010年代の百合」の本質が籠っているかが明らかになる。

第1巻p.94、友達(櫟井唯、日向縁)と笑い合う中で野々原ゆずこが僅かな疎外感を持つと、縁はじっとゆずこを見つめ、「ゆずちゃん 愛してるよ」と突然投げ掛ける。そのあまりに精微な気遣いに「効いた~! 今のすんごい効いたよ~!」とゆずこは満たされる。

実に百合であり、関係の発露であり、自意識の前景化、救済だ。「2010年代の百合」とはこれであった――少なくとも私にとっては。

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