シェフェール『なぜフィクションか』を読む④

「メイク゠ビリーブ」について触れられており、簡単に知りたい身からするとお得。正確な理解かは知らないが。

第三章

第三節

この節は「フィクションとは何か」という観点にはあまり関わらない気がするが、心理学的には非常に重要な事実を指摘している。それは自他分離の後天性、そして睡眠時の筋脱力(REM atoniaと言うらしい)だ。

この節のタイトルは「フィクション能力の個体発生—―ミメーシス的自己刺激について」で、その通りに個体発生、つまり進化的にではなく個体の成長の過程でどうフィクション能力が生じるかを論ている。前回「共有された遊戯的偽装」としてフィクションを特徴付けたが、そうすると非常に幼い頃から起きる一人遊びは説明されないのでないかという話。

まず発達心理学で定番の話として自他分離がある。人は自我というものが初めから存在すると思いがちだが、実はそうではなく赤子は自分と外界との境界が無い。例えば鳴き声が聞こえるとして、それは自分が不快で泣いているのか、他の誰かのもので自分には関係ないのか、そういう区別が無い。「赤ん坊にとって外因性の信号と内因性の信号を根本的にね区別することはまったく自明なことではない」(p.144)
ここにはもっと内面的な問題も発生する。それは自己刺激で、例えば赤子がミルクのことを想起したとして、それが現実のものか否かを区別できないのだ。生存上これは不利で、成長に連れて明確に区別が為されなければならない。これによってこそ自分に対する遊戯的偽装を楽しむ余地が発生する。(あれの区別これの区別と話が転々としていてよく分からない部分だがこんな雰囲気だろう。)

もう一つ、内因性の表象を区別しなければならないのが夢だ。夢は基本的に見ているとき、夢として認識されない。REM睡眠(夢を見ている状態)の脳は活発に活動しており、表象が現実のように感じられるのみならず、運動野までも活性化する。夢の中の運動が現実の身体を動かしそうになるところ、実際には強い抑制信号によって筋肉の緊張が阻止されている。著者はミシェル・ジェーヴェに従って「エンジンブレーキ」と呼んでいて、この筋脱力は覚醒時の想像においても現実の活動が干渉されないために重要となる。

さてこうした想像による隔離領域がフィクションの場となる訳だが、その起源として「移行対象」が示される。移行対象は(人形を会話できるものと見立てるように?)内因性の表象を投影することで発生し、大人がそれを察して想像としての地位を与えることで成立する。共有された偽装として、フィクション能力の基礎はまず対外的に発生する。

第四節

没入できるかという観点はフィクション評価の一つの核となる。プルースト『読書の日々』やジオノ『ノア』など引きつつ「フィクション的没入」について、まず4つの特徴を提示する。

  • フィクション的没入の状態では注意力が外界ではなく想像に向き、平時と関係が逆転している。例えば読書に集中している人間の注意を惹くためには、平時よりも強い刺激が必要となる。

  • 外界と想像の世界は遮断されている訳ではなく、むしろ記憶を振り返ると緊密に結び付いていたりする。更に言えばミメームの理解は現実経験に依る他ないのだから、この没入の基礎には常に(不完全ながら)共有された諸現実がある。

  • フィクション的没入はフィクション自体を作り出す。これは例えば完結した物語の続きを書きたい・読みたいという動機に繋がる。

  • フィクション的没入の下で、表象は強い感情を帯びる。

最後の項の感情について、「感情移入」というのはいつも議論の多い概念だが、シェフェールはミメーシス的表象による感情の生起に比べてそれを非常に特殊なケースと考えている。そこで強調されるのは視線だ。「没入は、表象されたもの(たとえそれが人物であっても)に対するわれわれの感情移入を通じてというより、むしろそれを眺め、見つめ、証人の位置にいる主体(覗き見る人の場合も時にはあるが)への同一化を通じて生じることがきわめて多いのである。」(p.160)
ここは個人的には、ミラーシステムのような存在を考えると「視線」という媒介者を導入するのは迂遠な気もする。

前回も言及された点だが、フィクション的没入では「まやかし」の効果を受けつつ、つまり前注意的にはミメームを本物の如く受け取りつつ、意識的注意のレベルでは真に受けないようコントロールしている。ここで前回の議論と違うのは「信」に基づいて議論している点だろうか。訳者解説では「信念」と訳されがちなbelief/croyanceを「教理や思想を信ずるという含意を遠ざけるために」(p.324)信と訳したとしているが、ここまであまり目立つ概念の印象ではなかった。

しかし信の導入によって没入、つまり前注意的まやかしを受けることと、表象を信(外界における事実の情報)へ変換することを区別すると、ウォルトンの「メイク゠ビリーブ」における問題が明確になるという。

シェフェールはそれを「存在論的二元論」と呼んでいる。「フィクション的命題」「フィクション的に恐怖を抱くこと」などの言い方からすると、それはフィクションにおける没入と信の区別が無いために「没入はあるが信はない」と簡潔に解釈できず、「フィクション的」という第二の心理を生み出した理論なのだと察せられる。
ウォルトンは映画を観て涙を流すのを(信が無いという点で)本当の感情とは認めないが、(没入があるという点で)全くの偽とも断ぜられない。そこで全ては「フィクション的」な第二の心理現象と言わざるを得なくなる。しかしそのとき「彼は現実の涙、たぶん葬式でも流すであろう涙を流しているのであり、また現実に悲しいという意味で、現実にその涙を流しているのである。」(p.166)少なくとも前注意的には、それは現実の体験と全く同様なのだ。

フィクションがフィクションとして機能するとき、つまり物語を体験するときと言って良いのかもしれないが、それは没入によってしかありえない。例えば感動した小説のクライマックスを分析しようというとき、そこを読み直す度に感動していると仕事は進まない。その作品をちゃんと読むことは、テキストの無数のミメームを機能させて表象の複合体を心の中に編み出しているときだけ実現する。没入により可能となるそれを「フィクション的モデル化」と呼んでいるが、心理機構を表現していないことを別とすれば「物語体験」と呼んでも良いように思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?