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魔界ノりりむのサブアカを語るためのメンヘラ文学論が必要とされている
V(VTuber)には𝕏のサブアカ(サブアカウント)を持つ者が少なくない。これはファンがツイートポスト通知を入れている場合、何気ない日常ポストで通知欄を埋めないようにという配慮がある。またちょっと裏の顔を見せますよというロールプレイ的な意味で裏アカを称することもある。とは言え本アカが告知類のポストに限定されているVは少なく、基本サブアカのポストは本アカに投稿しても区別がつかない。
ただVによっては本アカと明確に雰囲気が違う場合もあり、魔界ノりりむのサブアカ「みんなのりりむちゃん」は特に際立った例となっている。
注目されているポストは主に「病み」の表現であり、一般的なVより遥かに実際の裏アカ、あるいは病みアカに近い運用になっている。社会関係の中で苦しむ人々の言葉、言ってしまえばメンヘラ文学がここにはある。自分の気持ちと本当に噛み合う言葉を探して紡がれた、その意味で正真正銘の詩(ポエム)に他ならない。
メンヘラと言えば今では『NEEDY GIRL OVERDOSE』の超絶最かわてんしちゃん(超てんちゃん)がロールモデルと言うか、ほとんど絶対的な模範と見られている。意識的・無意識的を問わず、超てんちゃんのように表現することでこそそれが病みとして認知される状況がある。しかし1998年には日記による「病み」の語りに先鞭をつけた南条あやの登場、数年後に2ちゃんねる「メンタルヘルス板」の設立などの歴史があり、超てんちゃんはその文脈を多分に引き継いで生まれて来た。
Wikipedia「メンヘラ」の項目はこうしたメンヘラ史を包括的に記述しようとしており非常に参考になる。例えば「病み」を軸にケータイ小説を歴史の中へ配置する視点に注目しよう。
石原千秋『ケータイ小説は文学か』の挙げるケータイ小説の特徴は、実際(過激な性的要素を除くと)リストカット、薬物、自殺(未遂)と今の「メンヘラ」の諸要素に共通するものが多い。しかし米光一成の論によればこれらの要素(また他の構成的特徴)はケータイ小説に独特ではなく、ただ「乱れた日本語を使うこと」だけが特異であって、そこに編集者などの手を介さない「大人を排除した少女的リアル」が獲得されると言う。
では何故ケータイ小説では性的要素が色濃く、特に必ず主人公が性被害を受けるのか。それは決してインスタントな悲劇ではなく、主人公は己の全存在が「汚れた」感覚を刻まれる。その傷は「受苦する身体」の証であり、石原が言うにはその差異化によって少女は主人公となる資格を得る。
しかしメンヘラを知る現代の我々にとっては、「傷」に更なる機能を見出すこともできる。それは「病み」の証明、病める人々(少女、そしてメンヘラ)の連帯の象徴としての傷だ。少女は相手も「傷」を持つ人であり、それが「病み」の表現であることを認識することで、相手と連帯し共感することができる。「少女的リアル」はその閉じられた輪の中にある。
メンヘラ文学もまた同じ輪にある。ただ、この輪はもう「内部だけ」の存在ではない。「外部」がメンヘラ文学を発見し、いや消費として創り出し? その表現を読みこなし始めたのだ。「オタク」が大衆化して幅を持つ概念となったように、現在の「メンヘラ」も傷に至らない社会関係上の鬱屈にまで広く用いられている。
エイプリルフールのメンヘラ芸みて、そういうの関係なく病む自分が虚しくなって病んだ
— みんなのりりむちゃん (@makaino_sub) March 31, 2023
「メンヘラ芸」とは輪の外部の行為であり、ここでの「病んだ」は輪の内部の行為だ。このポストからは現代のメンヘラを取り巻く基本的構図がはっきり読み取れる。また冒頭の動画でりりむが「ネタツイみたいになってるよね」と言っているのも、正に外部からの読みの介入を示している。
最初に友達っていう言葉つくった人は、どんな感情だったのかな
— みんなのりりむちゃん (@makaino_sub) November 11, 2022
寝たら元気になるとか…太陽がかってに昇って地球がかってにまわって強引に明日になってるだけで自分の気持ちが消えるわけでも変わるわけでもないのに、なんでその明日に合わせなきゃいけないんだろうね
— みんなのりりむちゃん (@makaino_sub) June 21, 2023
「いつから朝でどこから友達なの?」が最も有名だが、病みと素朴な自然観の融合した表現は魔界ノりりむの特徴的作風となっている。あるいは「メンヘラ文学」の規矩を手に入れることでこそ、当人に特有の表現を炙り出せるとも言える。
そう、我々にはメンヘラ文学論が必要なのだ。病み表現の流通するメンヘラの輪の中と、それを文学として読む外の目線。『メンヘラ批評 Vol.1』がステレオタイプに寄った言説をわざわざ注付き、黒地で収録しているのも、輪の界面の一種象徴的な現れと解釈できる。輪の内外に展開されるこのシステムを踏まえなければ、「みんなのりりむちゃん」の魅力を分析するのは困難だろう。