「人生において分岐点となったのは中学1年の時です。やり直せるなら中学1年からやり直したい。こんな人のことを傷つけるだけの人生なんて嫌でした」
闇バイトにより無期懲役の判決を言い渡された実行役のリーダー「永田陸人」からの直筆の手紙
朝Xでこの投稿をたまたま見ただけなのですが、
数分かけて私は最後まで手紙を読み切りました。
それだけこの文章には読ませる力があったと感じます。
Xの返信コメントには
「人権派の弁護士が台本を書いている」
「弁護士の文章をを写してるだけ」
「減刑狙いの御涙頂戴なのは見え見え」
「こんな奴に一ミリでも心寄せた奴は甘い」
的なものもありましたが、
私の最初の感想は、
「私も犯罪者になってた可能性は十分にあったのかもしれない」
でした。
それだけ犯罪に手を染める人生は紙一重の所にあることを痛感しました。
そもそもどんな事件だったっけ?と思い、
「永田陸人」で検索し、
裁判の様子を報じたこちらの記事を読みました。
そして、この記事の中にある次の言葉が、私をこのnote投稿に駆り立てたのです。
この事件は、永田陸人という1人の社会人も殺されてしまったんだなと考えてみると、
「ただ授業で教科を教えるだけの先生ではなく、
もっと社会との関わりを伝える教育者が増えないといけないのでは」
と考えさせられました。
昨今、学校において「競争」「比較」「序列」が”過度に”行われ過ぎているのではないか、という懸念を私は抱いています。
ただし「社会に出たら競争だ」という現実もありますが、
その競争は基本的に「自分で選べる」はずなんです。
なので、小中学校の義務教育期間中は、
過度に競争・比較・序列を用いずにいられないものかなと私は考えています。
そこに気づくと、学校というものをリデザインしたくなります。
以前「小学校〜それは小さな社会〜」という映画を見ました。
ニューヨークタイムスで映画の終盤20分強が公開されています。
望まない競争や比較から生まれる生徒同士の同調圧力。
人権を尊重しない教師の圧力。
手段の目的化。
永田陸人がこの映画を見たらどう思うのでしょうか。
「ああ、ちゃんと先生の言うこと聞いてればよかったな」
と思うのでしょうか。
もしかしたらそう感じるかもしれませんが、私は
「永田はこうやって比較されたり、同調を強制されたりするのが嫌だから悪い道へ進んでしまった」のではないかと勝手に推察します。
これが罷り通っている社会を変えなくてはならない。
僕はこんな学校文化を絶対に変えてやるんだ。