登攀者の能力判定におけるリスク管理の盲点…(歩きと登攀の二軸思考の盲点)
■ リスクのある行動を好む=無自覚のトラウマ解消欲求だったのか?
今思うと、私のクライミング活動は、なくなった弟へのグリーフケアだったのかもしれません。
弟が亡くなったのは、もうずいぶん前で、25年前です。
弟は突然死で、24歳で亡くなりましたが、余りに急だったので、よく分からないまま、平常の日常に、彼の死は埋もれて行きました…。グリーフケアはできませんでしたし、7段階のプロセスもお留守でした。私も若くて、結婚前だったので、とても忙しく、まだブラック就労中だったためです。
それで生活にゆとりができ、クライミングを趣味でするようになったのは、一種のグリーフケアかもしれません。甲府時代は幸せな時代でした。
■ 九州に転居してから、
しかし、九州に来て急に暗転。
命知らず自慢をわざと行い、命を軽んじるような言動を繰り返す、若いクライマーたちに、ものすごい違和感を感じるようになりました。
というのは、そういうクライマーはクライミングの本場の山梨近辺では少なかったからです。それに加え、もともと私は優等生タイプなので、粋がりなどで、命を落とすような ”幼稚さ” や ”あほくささ” とは、相性が悪く、弟の死がなくても、そのようなメンタリティとは無縁のタイプです。
■ 弟の死への悲しみが、”人質”に取られている
問題は、そのような自分を守る盾になっていた自分の本来の資質が、弟の死によって、生かされなくなったということかもしれません。
生前、弟に良くしてあげられなかった
罪悪感
が原因です。
私の周りには、弟思いの私の思いに
ちゃっかり便乗、
したいというクライマーが集まるようになりました。これは人として、あるまじきことですね。誰かの悲しみに便乗して自分の利益を取る、なんて。
■ 自頭で考える&地頭で考える
さて、その被害報告はともかく、本筋から考えます。
本来、山やになるには、
今 自分がやらなくてはならないこと
は、本人が考えられます。自頭ですね。自頭で考えないで、
友達を参考にする
と間違えます。参考にすべきは、ガイド協会などの人たちのほうです。
以降は、地頭のほうです。
例えば、雪の山に行くのに、雪崩講習を受けずに行けば、当然、その人は雪崩に喰われるリスクは、高くなりますよね。
岩の山に行くのに、ロープワークの講習を受けずに行けば、当然、その人は墜落リスクは、高くなりますよね。
この当然の公式が分からない人が多いみたいで、どうも
周りの同じくらいの登攀グレードの人がそのルートに行っているから行く
という行動原則が多いです。
登山だと
自分と同じくらいの年齢の人が〇〇岳に登っているから行く
という行動原則が多いです。
体力や知識・判断力は人それぞれなので、この判断に根拠がないことは明らかですよね。
■ 自分ではなく相手を危険にさらす可能性が高まっている場合もある
クライミングをするのに、ビレイの講習を受けずに行けば、危険にさらすのは、相手であり、あなたは人を殺す可能性があります。
これは、ショートの岩場では、誰でも分かるリスクなので、かなり無責任な山岳会でも、岩場に行く場合は、口やかましく言われると思いますが…、盲点は、
リードクライマーがセカンド(を含むパーティ全体)を危険にさらすリスク
です。このリスクが顕在化したものが、白亜スラブでの私たちパーティの登攀でした。ご興味ある方はこちらがリンクです。(他サイト)
■ 本来あるべき姿から離れる=なあなあ主義=甘え
本来習得しなければならない習得項目を端折ってしまうこと…
これが、クライミングを含む登山にとって一番のリスクです。
■ 事例:阿弥陀北稜
例えば、阿弥陀北稜の学習院大学山岳部の遭難を考えると、本来であれば、
八ヶ岳赤岳
八ヶ岳赤岳横岳縦走
八ヶ岳全山縦走
阿弥陀ノーマルルート
阿弥陀御小屋尾根と阿弥陀中央稜
という最低5つくらいは終わった人が行くものです。これは積雪期の話ですので、無雪期に当然のように、八ヶ岳全山縦走は終わっておかないといけないです。
これは、いきなり阿弥陀北稜へ行く前に、
道迷いリスク(山頂から別のところに降りてしまうリスク)
を避けるための措置です。これは、普通にルートガイドを難易度順に並べても分かると思いますが…。要するに、周辺のピークを見ただけで、あれが〇〇岳と分かる程度の、土地勘はできた人が行くものなんです。
これが経験不足、と言われることの具体的な中身、です。
■ 事例:ロッククライミング(無雪期マルチピッチ)
・計画書を出さない 緊急連絡先を出さない
・万が一のレスキュー講習を受けていない
・ルート図を見て、必要なロープ長さの計算ができない
・必要なギア数の計算ができない
・カムの設置がいいかげんで、カムが抜けてしまう
・カムの設置がいい加減で、岩角にロープがスタックしてしまうため、ロープアップされない
・そのルートの貫徹に必要なスピードで登攀ができない
などが、登攀グレードだけを見て自分の実力判定をしてしまうロッククライマーにとって盲点になっているところです。
計画書を作るのは、事故を未然に防ぐために重要な能力です。
レスキューは、リードクライマーの墜落時の脱出&要救助者のローワーダウン、および確保(固定)、セカンド墜落受傷時の確保など、ケースによって教えられています。
盲点になっているのは登攀スピードです。岩場で、ハングドッグして、何時間もうんうんうなっているのがクライミングだと思っている人は、いくら5.12が登れても日が暮れてしまいます。
またカムの設置とロープドラッグの回避は、事故を防ぐためのかなり重要なスキルであるにも関わらず、ほとんどの登山の教科書では、いい加減にしか取り扱われていません。ロープドラッグがあると、当然ですが、ロープがそれ以上出ず、登れなくなります。
■ ”歩きと登り”の2軸では、登山者の実力は測れない
ところが、現在では、登山の上位団体の関係者でも、”人工壁で、5.11が登れるから、ちゃんとした登山者だ”、と言います。つまり、経験値のなさを見抜けない。いわゆる”経験”が、欠如していても、「まぁ、登れるから大丈夫だろう」という思考が顕著です。歩きと登りの二軸思考の弊害です。
人工壁で5.11が登れることと、山というアウトドアのリスク管理には、何の相関関係もありません。
なんせ5.11が登れても、外岩の5.7が登れない人はたくさんいます。外の岩はスラブが多く、ランナウトも顕著なのに、インドアの壁は、オーバーハングで、支点は1m置きだからです。やってることの中身が全然違いますよね。だから、逆に、外岩で5.10代をすいすい登っているのに、人工壁の5.10代は登れない人もいます。
準備不足による経験不足は、「歩き」と「登攀」という二本立てで、登山者のスキルを測るという思考回路が登山界では主流であることから、盲点になってしまうのです。
■ ”歩き”を分解する
「歩き」の中には、
・「積雪期歩行(アイゼン歩行ということ)」
・「その山域でピーク名をすべて言えるだけの地形理解」
・「南北エラーを起こさないためのその山域での方向感覚」
・「下れば早いか、登り返しがベターか判断できるだけの地形理解」
を含まないといけません。
ところが、現在は、そうした機微が理解されず、
・登攀グレード
・歩きの強さ = ほぼほぼ若さ
で、安全か安全でないか、が判断されてしまいます。
富士山を100回以上登った健脚者を知っていますが、その脚力があっても方角を間違えてしまえば、遭難です。当然ですよね。
逆に、年を取った人でも、その人の歩きの体力に合わせてプランニングすれば、その山旅は安全になります。
■ ”登り”を分解する
・そのルートを貫徹するのに必要な登攀のタイプ(多くはスラブ)について経験があるか?インドアクライミングではスラブ能力は高まらない
・担いで登っても遅くならないか?
・プロテクションの設置能力は十分か?
・ロープドラッグを作らないで、流れを維持できるか?
・有事の対応力はあるか?
・懸垂下降などの敗退(エスケープ)のスキルは十分か?
現代のクライマーは、ジム育ちです。岩場育ちだった昔のクライマーはこれらを言語化せずに身に着けたようですが、これらは、現代では言語化しないと、若いクライマーは習得しないといけないのかどうか?すら発想できません。
懸垂下降は特に失敗が許されず、ロープが地面に届いていない、ストッパーノットが結ばれていない、ロープを引くときにロープが岩にひっかかって取れない…などの小さなトラブルがつきものですが、一歩間違うと大事故です。
本来はゲレンデでの日ごろのクライミング活動はこのような小さなミスを事前に経験しておくためのものですが、現代のクライマーは、そうしたミスを経験しても、ヒヤリハットである、という認識自体ができていないことが多いです。例えば、ロープがドラッグした登攀でもオンサイト出来れば、成功!と結論してしまい、問題のロープドラッグの解消法を学習せずに成功体験にしてため込んでしまいます。将来、マルチピッチに行くときに経験値を役立てる、と言う発想がないためでしょう。
■ 名誉だけ得たい
昨今のグレード至上主義には、副作用として
名誉だけを得たい
という人が集まるようになっています。例として、
・5.11がクライミングジムで登れるから、北岳バットレス四尾根に行けるはずだ
・5.12が登れるから、白亜スラブは登れるはずだ
・3級しか登れないのに、2段のボルダーをノーマットで登りたい
・5.11が登れます、というのにATC持ってこない
こうした人たちは、リスクよりも、
自分を証明したい思い、認められたい思い
に駆られているもの、と思われます。それにほだされてしまうと
殺されるかもしれない、という恐怖
が生まれるようになりました。これは私のトラウマのため、ではなく、
登山の歴史を振り返る限り、この恐怖はあながち根拠のない恐怖ではない
ように思います。登山史を見れば、
ヒロイズム
に駆られた人たちが、根拠のない、強気判断でパーティ全員を死に追いやるというのが、日本的失敗の本質です。八甲田山の遭難やインパール作戦と同じです。
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