プロ雀士スーパースター列伝 長村大 前編 ※無料記事
【New Wave CUP】
若い頃、私は「デジタル系雀士」をバカにしていた。「オカルト系」は論外だと思っていて、麻雀に正解があるとしたら「アナログ系」だと信じていた。麻雀は卓上の騙し合いだと思っていた。
長村大と始めて打った時は「真っすぐしか打てないデジタル坊や」だと思った。とにかく攻めがストレートだったが、やたらとアガった。リーチしてツモる。それの繰り返しだった。そしてトップを取られた。
全体の成績でも長村が1位だった。
ふーん。あんな真っすぐしかできない奴がねえ。ふーん。
麻雀の引き出しの数で勝負しているつもりだった私は「坊やがツイてるな」ぐらいに感じていた。
その大会は「モンド21(今のMONDOTV)」というCSチャンネルの新番組「New Wave CUP」のオーディションを兼ねていた。
「モンド21」では「モンド杯」という麻雀対局番組を放送していたが、それが第3回大会で打ち切りになってしまった。
そのまま放置していたら、もしかしたら今の「モンド麻雀プロリーグ」はなかったかもしれない。
だが、この時は制作会社の社長と馬場裕一プロ、萩原聖人さんらの動きによって、辛うじて「首の皮一枚」つながった、
長村はその大会で優勝したし、独特のファッションで見た目も評価され、当然のように選ばれた。
私は「女みたいな恰好してからに」と思っていたが、私も選ばれていた。
私の場合は、直前に「地獄の旅打ち日記」という企画をやっていて、その様子を「第3回モンド杯」の後のコーナーで放送してもらっていたから、そのつながりで選んでもらった。知名度ゼロの選手たちの中で、唯一「先にモンドに映っていた」という理由だけで選ばれたのだった。
「New Wave CUP」は、私と長村と清水香織ら6名のプロ雀士と、萩原さんと、漫画家の片山まさゆきさんの8名による麻雀対局番組だった。
多忙かつ練習の必要のない片山さん以外の7名で、毎日のようにトレーニングをした。
普通、麻雀のプロは各自で練習するものだが、今回は企画の特殊性から「合同で」やったのだった。
個々人が独立したプロ雀士として出場するには、私たちは稚拙過ぎた。麻雀界のことも、テレビ業界のことも、否、社会の常識さえ分かっていなかった。
萩原さんも忙しかったが、私たちに「見え方」とか「見せ方」の部分を教え、さらには「面白い対局を視聴者に見せるために頑張ろうぜ」という「共通認識」を植え付けるためのコーチ役として参加されていた。
そんな中で長村は優等生だった。「長村君は、自分の麻雀をそのまま打てば良いと思う」と言われていた。
一方で私は、ずっと「ダメ出し」をされていた。
役牌暗刻で仕掛けてテンパイをとり、リーチが入ったら、その役牌を暗刻で落としてオリる。
そんなジメジメした、辛気臭い麻雀をやっていたからだ。
しかも、それで強ければまだいいが、大して強くなかった。
私としては「これが俺の麻雀なのに」と思っていたし「長村よりも俺の方が深く考えているのに」と思っていた。今考えたら恥ずかしいのだが。
結果、私と長村は決勝戦に残って、萩原さんに敗れた。
練習し、試合する中で、私は徐々に長村の実力を認めるようになっていった。
どうやら、私の方が麻雀のことを分かっていなくて、こいつらの方が正解だったのかもしれない。そんな風に思うようになった。
でも、一緒に萩原さんに負けた時点では、まだ私は長村と同等ぐらいだと思っていた。
それから数カ月が経って、格の差がクリアになった。
【第11期最強位】
当時は長村が所属する最高位戦が運営していた「麻雀最強戦」に、私も長村も出た。
私は予選でコロ負けしたが、長村は1次予選、2次予選と、いずれも1位通過した。参加者はいずれも40人以上いたと記憶している。
すげーツイてんな。
お互いに言い合った。予選を1位で通過することに意味はなかった。ギリギリだろうが、楽勝だろうが、次のステージに行けるというだけで、大した意味はない。
だが、長年プロ雀士などというバカバカしい商売をやっていると、このことに多少の意味があることが分かってくる。
すげーツイてんな。
これがその場の結果だけではなく、その後もしばらく続く「状態」であることを。
もちろん、麻雀が「運100%」のゲームなら、続くかどうかは本当に分からないと思う。
だが、少なからず「実力」が関係するのだから「調子」とか「状態」というものも関与するはずだ。
つまり、長村が連続で1位になったのは、彼の麻雀の状態も良かったからで「幸運をちゃんと活かせた」結果なのである。
ベテランたちは、その意味も含んで「すげーツイてんな」と口にした。
若かった私たちは、そうではなく、主に幸運のことだけを指して「すげーツイてんな」と言っていた。
だが、長村はそのまま「最強位」になってしまった。
ホテルグランドパレスで行われた第11回大会の決勝戦で、原浩明プロ、馬場裕一プロ、将棋棋士の先崎学さんと戦い、優勝した。
長村は一夜で、私たち若手プロの先頭を走る存在となった。
テレビ対局には必ず呼ばれる存在になった。
馬場さんが作った麻雀企画集団バビロンの一員にもなった。それからは同じ事務所で働き、毎日のように麻雀を打った。
元々がライター志望でもあったので、文章はうまかった。
「真・デジタル」という戦術書をマイナビ出版から出したら、売れた。当時は3,000部から4,000部が普通だったのだが、長村の本は15,000部ぐらい売れた。
長村は着実に麻雀界のスターになろうとしていた。
【突然の別れ】
長村はどんどん有名人になっていったが、それでも同じ会社の仲間であることに変わりはなかった。
麻雀を打つだけでなく、一緒に雑誌を作ったりゲームソフトを作る手伝いもした。
ところが、ある時、急に呼び出されて「会社を辞めたい」と言われた。
何か不満があるとかではなくて、ただ単純に疲れたということだった。
あまり深い話をする必要はなかったので、社員ではなく「外注の麻雀プロ」に戻ってもらった。
長村の仕事の力量はわかっていたから、どうせ仕事はある程度発注されるだろう。
給与として定額を支払うのではなく、その都度のギャラを払うだけで、大した変化はないと思っていた。
そのはずだった。
長村は突然「ある事」が理由で業界を去った。
当時所属していた日本プロ麻雀協会も辞めてしまった。
その「ある事」を詳しく書くのは、彼のプライバシーの侵害にもなるから控えるが、その影響で少なからず周囲に迷惑をかけた。
だが、誰かを怒らせたという種類の話ではなかった。別に長村はプロ雀士を辞める必要はなかったし、私たちから逃げるような真似をしなくても良かった。
だが、当の本人には違う景色が見えていたのだろう。
周囲が許しても、自分で自分を許せなかったのかもしれない。
長村は怠惰なところもあるが、真面目だ。怠惰なら怠惰なまま、何も考えずに生きられれば楽なのだろうが、真面目だから自分を否定してしまう時があるのではないだろうか。
だから人に嫌われないのだろうが、自分で自分を苦しめることもあると思う。
突然いなくなってしまった長村に対して、私は全然怒ってはいなかったが、不満があるとすれば、そういう時こそ仲間に頼ってほしかった。バビロンは今も昔も貧乏なので、金の相談だけは乗れなかったが、それ以外のことは何とかなったと思う。
長村が麻雀界を去って2年ぐらい経った頃「真・デジタル」の印税が入って、長村に20万円ぐらい振り込む必要ができた。そのために久しぶりに電話をかけてみたが、彼が電話に出ることも、折り返し連絡をしてくることもなかった。
私は長村というプロ雀士の存在を諦めた。
(後編につづく)
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