リンメル治療院 その2 〜ハルちゃん〜
「ピンポーン」
ドアベルが鳴った。
「はいはーい」
尚美はぱたぱたとインターフォンに走る。
ウチの猫が治療院を開いてからというもの、やたらと来客が増えた。
モニターには、まだうら若い女子が映っていた。
「はい、どちらさまでしょう」
「あの、リンメル治療院さんはこちらですか」
「ええ、どうぞ。お入りください」
インターフォンを切ってから、はーーーーーとため息を一つ。……いかんいかん。幸せが逃げて行ってしまう。
「奥さん、どうしましたニャ?」
メルが猫らしく四つ足でこちらに歩み寄りながら尋ねた。
日本語で、だ。
「どーしてこうなっちゃったのかしら……」
眉間に手を当てて私はうめいた。なんだって急にウチの猫はこんなんなっちゃったの?
「こんにちは、ハルと言います」
まだ中学3年生くらいに見えるその子は、ショートヘアーにクリクリした目をもつ、可愛らしい娘だった。赤いチェックのマフラーにピンクのセーター、茶のスカートに黒タイツといういでたちだった。S字マークのヘアピンで前髪を留めていた。身長はやや低めで、「少女」という表現がまだ当てはまる雰囲気を持ち合わせていた。
「ようこそ、お待ちしていましたニャ」
メルよ。お前待ってたのか。来るのなんてわからないはずじゃないのか?
「ネットでご予約いただき、ありがとうございますニャ」
……ウチの猫はホームページまで立ち上げていたのか……!?
だからか、この連日の来客……!
尚美は一瞬立ちくらみがした。
「それで今日は、どのような……」
「あ、あの!モフモフさせてください!」
「へっ?あ……えーと、それでは、当店1番の毛並み自慢、わたくしメルがお相手いたしましょ……うわっと!」
その子は返事を聞き終わらないうちにメルをひったくるようにして抱きしめた。メル、苦しそうだ。ふん、少し思い知るがいいわ。
私がその様子を見届けて、治療院のドアの前から立ち去ろうとしたその時、少女のすすり泣く声が聞こえてきた。
「ぐぐぐ……ど、どうされました、にゃ?」
苦しそうにメルが問うと、少女はぽつりぽつりと語り始めた。
「あのね、あたし、初めて好きになった人がいたの」
「ほ……ほうほう……ぐぐぐ」
「その人からね、告白してくれたの。好きだ、って」
「そ……それはそれは……ぐにゅにゅ……」
この時点でようやくメルのことが気の毒になり始めた。どのタイミングで声をかけようかな?
「……おまえ、あたまのいいネコちゃんだね。あたしの言ってること、わかるんだね」
あ、よかった。ふっと少女の腕の力がゆるんだ。メルはゼハゼハと呼吸を整えている。
ハルという子は床にぺたん、と座り込み、メルを膝に乗せてよしよししている。グールグール、とメルはのどをならしている。
「……おまえの毛並み、すっごく気持ちいいね……」
うっとりと感触を楽しんでいる。どこか冥想状態にも似た、放心したような表情をしていた。
何かあったかい飲み物でも持ってきてあげよう。そうすれば、少し落ち着くかな。そう思い、私はその場をそっと後にした。
「すてきな男性だったですニャ?」
メルが尋ねた。
「……うん、すてきな人だと、思ったの」
ぽろぽろ、と涙がこぼれはじめた。
「すごく、やさしい人でね、すごく、まじめでね、すごく、よくしてくれたんだ……」
「ほおぉ……」
メルが感嘆のため息をもらす。
「それで……なにかあったニャ?」
「うん……」
こぼれる涙を拭うこともなく、少女は続けた。
「あたしは、彼のことが好き。彼も、あたしのことが好き。それで、いいと思ってたんだ」
「ふむふむ」
「でも、付き合いが続くにつれて、彼の、人に対する優しさと、それが彼自身に向けられていないことに、少しずつ違和感を感じるようになっていったの」
「ははぁ……医者の不養生、というやつですかニャ」
「ん……?それはよくわかんない。ともかく、あたしは彼に、もっと自分のことも大切にしてほしいって何度も話してみたんだ」
「それで、どうなったニャ?」
「彼ね、ちっとも理解してくれなかったし、聞いてもくれなかったの。彼は、なんだかそうしないと恐ろしいことが起きる、とでも信じているかのように、その生き方を曲げようとはしなかったの」
「ほぉほぉ……」
「あたしね、彼のことが好きだった。だから、なんとかしたいって本当に心から思ったの。あたしにできることがあれば、何でもしようと思った」
「ふんふん」
メルを撫でる手は相変わらずゆっくりと動いていた。
「でもね……ダメだったの。あたしが何言っても、彼には届かなかった……」
メルを撫でる手がぴたりと止まる。ふいに、大粒の涙がぼろろっとメルのひたいにこぼれ落ち、メルがまたたきをした。
「彼、は、ゃ、やさしく、て、ひっく、ぃ、ぃい人だ、った、っく、の……で、でも、ぐしゅ、か、かれ、は、ぁ、あた、し、を、ひ、ひつよう、っく、と、思って、くれない、の、かな、って……」
「はあぁ……彼はいい人だったけど、ハルさんのことを必要とはしてくれない、そう思ってしまったんですニャ……。それはさぞかし、心が痛んだことでしょうニャあ……」
台所にいる尚美に、ことばにならない泣き声が、治療院から聞こえてきた。どちらかというと、動物の鳴き声にも似ていたように感じた。
コンコン。
「あの……あったかいココア、持ってきたんだけど、いかがかしら?」
返事がなかったが、とりあえず様子だけでも、と中をのぞくと
「えへへ……メル、おまえ、ほんとぉーーーーーに、あぁーーーーったかいねぇ……」
泣きはらした目と赤い鼻で、心の底からホッとしてメルを撫でているハルちゃんがそこにいた。見ているこっちまで脱力してしまいそうな、ユルユルの笑顔だった。
メルはというと、なんだかおかしな抱かれ方をしており、かつハルが無意識にかけている力加減によって、とても苦しそうだった。
(ちょっとメル、だいじょうぶなの?)
メルはそれには答えず、ただ拳を突き出して「グッ!」とだけやってみせた。
(できるんだ、猫って)
「ありがとーございます!ココアもごちそうさまでした!」
「よかったら、またおいでね」
すっかり元気になったまぶしい笑顔のハルちゃんに玄関で手を振りながら見送った。
「メルもよかったわね、カリカリはずんでもらえて……あら?」
なにやらメルがぐったりしていた。床にひらぺったくなっている。
「こ、今回はしんどかったニャ……。
恋愛相談と毛並みに触る代金、次回はもっと高額に設定させてもらうニャ……」