意志が生まれたのに従えない自分
意思と意志の違いをネットで検索すると、
意思は、考えや気持ち
意志は、意欲
だそうだ。
小学校低学年の頃、教室の黒板の上の壁に、今月の歌の歌詞が貼ってあった。その横に今月のめあてと書かれた模造紙も貼ってあった。
そこには、
①あいさつをする
②相手の気持ちを考える
③自分の意見を言う
とあった。
この中で私が得意だったのは、②の相手の気持ちを考える だった。相手の気持ちを考えなさいというフレーズは幼い頃から痛いほど耳にし、人の気持ちを考えないと、と素直に思った(のかは定かではないが)私は、ずっと相手の気持ちを考えてやさしい子に育った。(自分で言うな)
元々控えめな性格でおとなしくて無口な子どもだった。なので、①のあいさつをする のも苦手だった。
朝学校に登校すると、校門のところに校長先生が立っていて、みんなに挨拶していた。私も大きな声で挨拶しなければ…!と意気込むも、一度もできたことはない。自分の精一杯で挨拶ができても、他の人からすると蚊の鳴くような声だったと思う。
そして、③の自分の意見を言う。これに対する苦手意識が異常だった。
授業で問題を解く時、ノートに問題を書いて、次の行にまず自分の答えを書き、そして次の行にみんなの答えを書く。それからやっと本当の答え合わせをする、というやり方だった。
道徳の授業となると、明確な答えはない。でも、ないからこそみんなの答えを交換し合うのが大切だと今はわかる。
当時の自分はというと、問題に対する自分の意見というのがわからなかった。
自分の意見、つまり自分の思ったこと考えたこと、すなわち意思は、自分の中から発生するので誰にもわからないし、それぞれに答えがある。
自分の意見を書く時間、みんな鉛筆をすらすら動かしていたけれど、私の中からは何も聞こえなくて、自分の意見ってなんだろう…どうしよう…何か書かなければ…という気持ちとみんながノートに書く音で、すごく焦っていた。
でも、その問題を読んでも理解しても自分に問いかけても、音沙汰ひとつなかった。
なにも思わなかったし、どう思うのが正解なのかもわからなかった。
そういうとき大人は、何でもいいから書いてみて、と言うのだ。何でもいいから、というのは全員が何か思うことを前提にした言葉だ。
そんなこと言われても、何もないのに何を書けと、と思っていた。
それを言葉に出す子どもではない。心の中で少しムッとしながらひたすら焦るだけだった。そのまま時間をやり過ごすことが何回もあった。
これまた小学校低学年の頃の話である。小学校の隣には幼稚園があった。学年のみんなで幼稚園へ行って、大きなカブの劇をするという授業があった時のこと。
配役を決めたり、自分たちで役のお面を作ったり、劇の練習もした後、司会が2名選ばれることになった。
何かを決める時の初めは大体立候補である。立候補で手を挙げたのは1人だった。その後、一向に誰も手をあげない時間が続いた。誰もしないんだったら、私がやろうと思って手をあげた。ほんとにいいの?と確認されて頷いた。
その後の家庭訪問か三者面談か忘れたが、先生と母親が話しているのを聞いていると、先生が、〇〇ちゃんが手を挙げてくれたんです!!となんとも大袈裟な言い方をしていて、母親もすごいやん!えらいやん!的な、とにかく大人達に褒められた記憶がある。
普段無口で控えめな性格の子が司会に立候補するというのはそれほどインパクトのある出来事だったのかもしれない。
もちろん満更ではなかったが、当の本人からすると、司会をやりたかったわけではないし、特に勇気を出して手を挙げたわけでもなかった。
まず、なぜみんなが司会をやりたがらないのかがわからなかった。あの時の、みんなのやりたくない空気感というのは独特である。
今考えると司会の人は劇に出られなくなるから、みんな劇をやりたかったのかも知れないと思った。
そう考えると私は、特に劇をやりたかったわけでもないし司会もやりたかったわけではない。
ただ、やる人がいないならやりまっせ精神で手を挙げただけで、そこにはなんの意思も意志もなかった。
というふうに、生まれてから十数年は、自分の意思も意志もわからないまま生きてきてしまった。(逆に難しそう)
前の記事で、自分のこの気持ちがパティシエになりたいと言うのかどうかがかわからなかった、と書いた。
それも、自分の意志をきちんと理解できてないんだろうなと思う。
数年前の休日。朝起きて、今日何をするかを考えた。あの店に行って、あれを食べて、あれを買おうと頭の中で思い描く。しかし、それを実行することはできなかった。
また別の日。仕事が早く終わったので普通電車に乗り、ゆっくりと帰っていた。その日はとても天気が良くて、電車の中から見える海が最高に気持ちよさそうだった。海の家が建設中だったりして、一旦電車を降りたいと思った。でも降りなかった。
その後、駅に着いてもすごく天気が良くて、空がとてもキレイだった。写真を撮りたいと思った。駅前で周りに人もたくさんいて、一枚しか撮れなかった。
これらは本当にあった怖い話でも世にも奇妙な物語でもないので、オチはない。
ただただ、欲望のままに行動できない人間の日常である。
そこに、〜したい。という意志があるのに、それを無視する。
無視するというより、本当にしたいのか自信がない。結果、無視してしまう。
なにか行動する時は、本当にやりたいのかな?といちいち熟考してしまう。
周りの目を気にしすぎているのも原因だと思うが、なぜやりたいと思ったままに行動できないのか自分でもよくわからない。
自分の意志に確信を持てないのはやはり変だろうか。