気骨の幕臣、大久保忠寛。
1853年とその翌年、幕府において目付、海防掛が立て続けに採用されたことは、前々回で書きました。その中にあって、注目の人物として川路聖謨とその弟井上清直、そして岩瀬忠震と永井尚志を紹介しました。
そして今回は大久保忠寛です。前出の外国奉行たちと異なるのは、彼が養子ではなく直系の三河武士の末裔であることと昌平坂学問所の優等生ではないことです。彼は14歳のとき、第11代将軍家斉の小納戸として出仕し、小姓となります。武芸に秀でていて、文事には興味がなかったようですが、やがて書を学ぶようになって、漢籍にも興味を持ち、後に国学に深く傾倒しました。
彼の業績の最初は、勝麟太郎を発見したことです。老中首座阿部正弘がペリー来航についての意見書を広く世間一般に求めたとき、勝の意見書に大久保は目を止め、直接、勝を訪ねます。そのころ勝は蘭学塾を細々とやっているだけの無役の御家人(禄高40俵)でしたから、500石の旗本から面会を求められるだけでも大変なことです。このときの意見書の内容ですが、海防の重要性を訴えたのは別に勝だけではありません。特徴的なのは、軍艦の必要性とその軍艦の建造費を海外貿易の利益で賄うべし、とした点です。そこまで突っ込んだ意見はなかった。大体、当時の幕臣の中で、長崎奉行経験者でもない限り、貿易が儲かるという発想はないし、そういう商売才覚は武士の中では見下されていました。さらに、勝は陸海軍の学校の必要性、生徒には旗本御家人の次男三男、さらには各藩の陪臣の子弟も入れるべきとしました。また、火薬や銃器、弾薬の製造工場を建設すること、これらを計画するには海外の文献を集め、正確な翻訳作業による知識の集約と蓄積が不可欠であることまで論じられていました。つまり、その後の「長崎海軍伝習所」「蕃書取調所」として実現されたマスタープランが既に出来上がっていたのです。当時38歳の大久保は、31歳の勝の取り立てを進言し、ふたりで東海道から大阪、京都の防衛状況を視察したりしました。ふたりの間には、かなりの身分の開きがありましたが、大久保は勝に手紙を出すときなど「赤坂先生」と書いたり、敬意を示していました。
大久保の第二の業績は、1862年(文久2年)に将軍家茂の御側御用取次という幕閣の重臣でありながら、「大政奉還論」を唱えたことです。「朝廷からの攘夷の勅諚は断然これを不可とし、国家のための得策でないことを訴え、それでも聞き入れられないならば、政権を朝廷に奉還し、駿河、遠江、三河の三州を請い受け、一諸侯の列に並ぶべし」。表面的に取り繕ったり、問題の先送りはするなというわけです。これを聞いた老中たちは、そんなことは出来るわけがないと嘲笑するか、怒り出すかのどちらかだったと松平慶永は伝えます。但し、土佐の山内容堂と松平は評価していたようです。容堂などは、大久保は「当代一流の人物」で、他の大目付などには怒鳴りつけていたが、大久保と話していると、その公明正大な論旨に自分の声が段々小さくなってしまった、という感想を残しています。事実、5年後大久保の構想の通りになったのはご存じの通りです。大切なのは、こうした考えを勝麟太郎とも共有していたし、この主旨の手紙を勝の弟子だった坂本龍馬に持たせ、越前の松平慶永に届けさせたことです。勿論、その内容について龍馬にも伝えていました。ですから、龍馬が船中八策を構想して、後藤象二郎を通じて山内容堂に上申したとき、大政奉還は唐突なアイデアだとは受け取られなかったのです。但し、実際に大政奉還を実行した当人である第15代将軍徳川慶喜は、明治になってからの回想で「大久保がそんなことを言っていたのは知らないし、言ったとしても、その段階では、ただの空論に過ぎない」と語っています。実際、この文久2年、慶喜は一橋慶喜として将軍の後見職にあり、時の将軍家茂が度々御側御用取次の大久保を城中に呼んで、何やら話し込んでいるのを警戒していました。後に大久保は家茂に「万国公法」を贈っていることなどから慶喜は大久保を危険人物として意識していたのでしょう。実際、大久保はこの年の11月には左遷されてしまいました。
さて、大久保の第三の業績は、「江戸城の明け渡し」です。これは、一般に勝海舟の手柄とされていますが、実際には、事前交渉を単独で官軍に乗り込んで果たした山岡鉄舟と江戸を戦場としないように万事手配をした会計総裁大久保忠寛に負うところが大きいのです。徳川幕府の資産がどこにどのような量と形で残されているのか。大奥の状況も含めて把握していたのは、14歳から出仕して、52歳のこの時まで幕府中枢で働いた大久保一翁(忠寛は49歳で隠居して改名)でなければ、わかりません。逆に、薩摩や長州の内部事情、特に中心となる西郷隆盛や大久保利通との交渉は、勝の方が得意だったと思います。大久保自身も「あとは、勝と自分に任せてくれば、薩長如きの肝は破って見せる」と肚を括っています。西郷も山岡が事前交渉に来たとき「本隊が江戸に入る前に私が行くから、大久保と勝と会談したいと伝えて欲しい」と言っています。慶喜はひたすら恭順し水戸へ、新選組は甲府に向かわせ、彰義隊を中心した勢力約3000人が上野寛永寺に立て籠もるが戦闘は一日で終結、海軍の反抗勢力は江戸湾から北に去る。こうして戦線は北陸から東北、函館へと北上しました。江戸にとっては、最小限の被害で治まったと言っていいでしょう。江戸の被害が最小限に抑えられたからこそ東京への遷都がスムーズになされたわけです。
これで大久保一翁の仕事は終わりませんでした。
徳川宗家を慶喜で終わらせるわけにはいかないのです。何せ旗本御家人の家族(一説では約3万人)の処遇を安堵しなければなりません。御三卿の田安家から6歳の亀之助(後の家達)が後継者として認可され、5年前大久保が提案した大政奉還論の線で静岡藩が用意されます。大久保は静岡藩権大参事として藩の政務を担当します。ここで一旦退隠するのですが、56歳のとき新政府から出仕命令が出て、東京へ、なんと東京府知事に任命されます。
この東京府知事という役職には3年半ほど勤めました。幕閣だった頃の大久保にしては、相当長い在任期間です。勝海舟も指摘してますが、大久保の剛直な性格では、周囲との軋轢が激しくて長く持たないんです。長崎奉行に任命されたときなど、自分は悪を憎む感情が強くて、賄賂が慣習化している長崎奉行なぞ勤められないと事前に断ってしまうぐらいでした。府知事時代は養育院の建造や官立小学校の設立、府立病院や娼妓の解放令、性病検査を開始したりしました。しかし、東京会議所の運営で内務省と衝突してしまい辞めてします。その後は、72歳で亡くなるまで元老院議員を勤めました。晩年、公文書の署名には、必ず「徳川家達旧臣」という肩書を書き添えていました。徳川宗家を引き継いだ6歳の家達と共に、静岡県の河川を視察した頃の思い出が去来していたのかもしれません。
参考資料
「大久保一翁 最後の幕臣」松岡英夫著 中公新書
「永井尚志 皇国のため徳川家のため」高村直助著 ミネルヴァ書房
「幕臣勝麟太郎」土居良三著 文芸春秋
「岩瀬忠震」松岡英夫著 中公新書
次回は「坂本龍馬と明治維新」マリウス・ジャンセン著 時事通信社の紹介です。
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