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w√OCEAN覆面リレー小説 白組6 アンカー

その店はいつも、どこか憂いを帯びていた。
《BAR twilight》

このバーを始めて、もう何年になるだろう。半ば出たとこ勝負だった、ひっそりと、大々的な宣伝もなく始めた。オレンジから紺へのグラデーションがなんとも美しい夕暮れが印象的な日だった。


このむらさきの駅で、日々の喧騒から逃れようとする人たちの隠れ家になれれば良いと思った。昨日もあてもなく流れ着いた人々で静かに賑わっていた。
初めのうちは知人や近所の人々がちらほらと覗く程度だったが、徐々に行き交う人々の目に留まるようになり、こうして続けてくることができた。ブドウ酒しかない変わったバーだが、それが逆に良かったのかもしれない。

わたしは祖父の故郷であるハンガリーのブドウ酒がだいすきだった。好きが転じたとは言え、こだわり抜いたブドウ酒のみのバーを開くとは思ってもみなかったし、そして人生であんな鮮烈な一夜を体験することになるとは、夢にも思っていなかった。

その日はジャズの生演奏の日とあっていつもより多くの客が訪れていた。

美しい女性が突然席を立ち、ピアノに向かった。何かを感じとったように静まり返る店内に、優しく繊細なタッチで奏でられる音が広がっていった。フランツ・リストのラ・カンパネラ。
耳馴染みはあった。あったが、いつものそれとは全く別物であった。
目にもとまらぬ速さで白く長く美しい指が跳躍し流れているのに、まるでスローモーションのように感じた。

この場に居合わせたものの瞳の色が僅かに変化していく。くたびれたスーツの男性も、綺麗に着飾った女性も、瞳が炎を灯したように輝いていく。息を飲むような空間から、徐々に歓声が聞こえ始める。
何かに導かれるように、訪れた人々の人生に彩りを与える日とはこういう時のことを言うのだろう。堰を切った熱狂と共に、夜は長くゆっくりと更けていった。


この店は、どんな人が来たっていい。誰であっても。あの夜を経験してから、毎日人々の人生がこの場所で小さく交わっていくのを見届けるのがわたしの楽しみとなった。実は子供だって来てもいい。とっておきのブドウジュースを用意してあるんだから。大きな声では言えないけどね。グラスを拭きつつ、頭の中に浮かんだ少年にウインクをしながらそんなことを思った。

あの夜、彼女が彩ったこの空間がずっとなくならないようにーー願わくばまた鮮烈な夜が訪れることを祈ってーーわたしはこれからも店を続けていくこととしよう。準備をしていたらすっかり日が暮れてしまっていた。ピアニスト、紫苑透子のCDをBGMに、わたしは葉巻を燻らせた。

今日はより一層深い紺色の夜に溶け始める星々が輝いて見えた。
看板にネオンを灯す。
《BAR twilight》
うっすらと不安定に、紫色の文字が浮かんだ。

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キングAジョーカー
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