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w√OCEAN覆面リレー小説 白組1

少し潮で汚れた窓越しに見えるのは夕日が光る海。比較的車内は空いており、私のほかに乗っているのは若い女性と本を読んでいるサラリーマンと小さな子供を連れたおばあさんだけだった。彼らの顔を夕日が照らしていた。
あっという間に太陽が海に沈み見えなくなっても、まだ暖かい空色が残っている。この瞬間心がざわつく。悲しいような懐かしいような虚しいような落ち着くような。今日が終わりに近づいている。
すぐに空は暗い紺色に変わる。するとまた心がざわつく。ついさっきまで太陽との別れを惜しんでいたのに夜が私の世界を覆うと気持ちが高揚するのだ。今日はなにが起こるだろうか、楽しみで仕方なかった。バッグからポーチを取り出しリップを塗り直した。レールが海岸沿いから離れ、街に向かう。高層ビルが増えてきた。そろそろ私が降りる駅。
~むらさきの駅~
私はピアニストである。前職歯科医だったこともあり話題性で有名になった感じは否めない。コンサートやCDはそれなりに人気がある。実力だけで売れたいなんて思わなかった。好きなピアノで食べていけるならどんな形でも良かった。だからネタにできるものは積極的にネタにしたし、一度テレビに出演したときも客寄せのため大げさにエピソードを話したものだ。
今日は公演のためにこの街に来たのではない。たまには、朝まで街に溶けて遊びたい。街は常に新しく進化している。いつも違う店や建物。道さえも変わる。めまぐるしさはこの都会の好きなところでもあり、怖いところでもある。
あるバーを見つけふらりと入った。新しい店でも無さそうな見た目だったが、初めて見る店だった。入るとすぐに階段を下り、その奥にある低い天井の狭い廊下を少し屈みながら進んだ。
なんて不便な!でも少しわくわくした。進むにつれ愉快で軽やかな、でも滑らかで気持ちの良いジャズの音色が大きくなっていったからだ。
「ようこそ、お好きなところへどうぞ。ご注文は紫シャツの店員にお願いします。」
白い口髭の洒落たマスターがニコリと微笑みながら言った。真顔だと渋いのに笑うと目尻が下がって優しさが滲み出た。
狭い廊下を抜けた先には想像していたより広い店内が広がっていた。あのジャズはやはり生演奏だった。店の奥にステージがあり、ステージの中央には紫色のグランドピアノが置いてあった。マスターは私が出てきた入口近くのカウンターに座っていた。
紫色、お好きなんですね。そう言うと、マスターはまた嬉しそうに微笑んだ。
私は空いている席に座った。そして近くにいたふわふわな寝癖の紫シャツの店員に声をかけた。すると、寝癖の彼は少々お待ち下さい、と言って何処かへ消え、数分後ブドウ酒を並々注いだ大きな丸いグラスを持ってきた。
まだ注文してないのに、という顔をすると寝癖の彼はニコリと微笑み、この店はコレしかないんですよ。と言った。入口にいたマスターの笑顔とそっくりだったのでもしかしたら家族なのかもしれない。
そしてメニューにブドウ酒しかないなど何事か。面白いことを考えるものだ。
そのブドウ酒の味を説明したくとも、言葉では難しい。なんとも不思議なものなのだ。香りは、濃くて甘い、ブドウを何百年も熟成させたような深い甘さがある。
しかし、飲むと軽いのだ。舌触りは一般的なブドウ酒のそれではなかった。口の中をサラサラと流れていく。喉へ辿り着くころには暖かい空気のようになっている。溶ける、というより消える。
そのあとボッと体が燃えるようにあたたまった。ブドウの風味は存分に感じたが、飛んでいきそうな軽さと柔らかい甘さと濃いアルコールによる喉の熱さがちぐはぐで、でもそれがクセになる。
気がつくとそのブドウ酒を飲み干していた。それに気づいたのか、さっきとは違う紫シャツの店員が二杯目を持ってきた。テンポの良いジャズのメロディに合わせてブドウ酒を勢い良く煽った。気分は最高、開放的だった。
そして身体の芯から熱い何かが湧き上がってきた。こんなに熱い感情が渦巻くのは久しぶりのことだった。この気持ちをどうにか表現したい衝動に駆られた。
私はおもむろに立ち、ブドウ酒を右手に持ったまま誰も座っていない紫のグランドピアノのイスに座った。
私の行動を見てジャズの演奏が止み、店内は静かになった。そしてブドウ酒をひとくち、ゆっくりと飲みグラスを近くの床に置いた。
私は深く深く息を吸った。この店の空気を全て吸い込むほどに。息をゆっくり吐きながら私は鍵盤に手をのせた。
紫のグランドピアノは華やかな音色で歌い、鍵盤の上で私の指が素早く踊った。曲はフランツ・リストのラ・カンパネラ。この曲を人前で弾くのは初めてだった。
ラ・カンパネラはパガニーニによる超絶技巧練習曲の第3番である。リストはピアノの魔術師と呼ばれるほどの才能の持ち主で、どんな曲も1度目で完璧に弾くことができた。
それほどの技巧と自由奔放な演奏スタイルを確立していたリストはその曲を2度目弾く時にはアレンジを加えより美しく納得いくものに変えた。なので彼が譜面通りに弾くのは最初の1度目だけだったというエピソードがある。
ラ・カンパネラはそれほどの技巧と演奏へ情熱のあるリストが作曲しただけあって、誰もが弾けるような曲ではない。
私はラ・カンパネラを弾きたくてピアノを始めた。練習に練習を重ねた。ラ・カンパネラのことしか考えられない時期もあった。ついに私はラ・カンパネラを完成させた。私はこの曲を愛している。ラ・カンパネラを弾くために生まれてきたのだと確信しているほどに。
人前で弾きたくなくて、記念コンサートでも演奏を拒否した。リストの曲は人を選ぶので演奏できる者は少ない。だから積極的に演奏すれば知名度や評価が上がるのは分かっていた。
でも、私が演奏するラ・カンパネラは私だけのものにしたかった。誰にも披露したくはなかった。執着と固い意地があった。
そんな私がこんなところでラ・カンパネラを弾くなんて。どうしてかは分からない。自然と指がラ・カンパネラを奏でたのだ。今までのどんなコンサートやコンクールよりも心が高鳴った。そして周囲の空気が張り詰めているのを肌で感じた。私はこの空気が気持ち良くて仕方なかった。
観客がいることなど忘れた。私ができることを、できるだけ。それしか考えてない。リストに捧ぐ。夢中で弾いた。
気がついたら大きな拍手に包まれていた。空気が割れるようだった。ラ・カンパネラは6分半ほどあるが、今までのどんな演奏より短く感じた。ほんの一瞬だった。その一瞬に至上の幸福を見た。愛しのラ・カンパネラはこの不思議な空間に甘美な空気を充満させた。
拍手は鳴り止まなかった。私は床に置いたブドウ酒を煽った。そしてまたグラスを床に戻し、紫のグランドピアノと向かい合った。そしてそっと鍵盤に手を置き、軽やかに弾き始めた。
ジョージ・ガーシュウィンのラプソディー・イン・ブルー。クラシックとジャズが出会って生まれた曲。
弾き始めるとクラリネットが加わってきた。トランペット、バイオリン、ドラム、増えるごとに鮮やかになっていく。ラ・カンパネラの時のような張り詰めた空気はない。盛り上がる観客。踊り出す者もいた。この店が、一体となり音を奏でている。楽しい。楽しい。楽しい。この時間が終わらなきゃ良いのに、そう思った。
結局私は朝までブドウ酒と楽隊と観客の入り交じる狂喜のコンサートに酔いしれた。そして早朝始発で自宅へ帰った。帰り道の記憶はほぼ無い。帰ってすぐに歯を磨いてシャワーを浴び、ベッドへ飛び込んだ。そして深く眠った。
〜〜〜〜〜
私は今月号の雑誌の表紙を飾った。かなり好評だった。コンサートで紫色のドレスを着た私がラ・カンパネラを弾いている写真。
ラ・カンパネラを弾くようになってから注目される機会が増えた。コンサートのチケットは発売するとすぐに売り切れ、CDもクラシックにしては異例の枚数を売り上げた。取材依頼を何件も受けた。4回ほどテレビ出演もした。
それは、ラ・カンパネラを弾ける派手な女が毎回紫色系統のドレスを着ており、元歯科医だったからだ。私は世間のネタになりやすい人生を送ってきたようだ。
むらさきの駅にあったあの店にまた行きたいと思いつつも仕事が立て込み、いまだに行けてない。いや、行きたくないのかもしれない。
私はあの夜、独り占めしていたラ・カンパネラを解き放った。そして知った、いつだって私が演奏するラ・カンパネラは私のものでしかないのだと。
誰に聞かれようとも、批判されようとも、あのラ・カンパネラは私の手からしか生まれないし、私の心から離れる事はない。だから他人に披露するのも怖くなくなった。
あの店での記憶は私の宝物だ。あの空間であの時以上の高揚感はきっと無い。それを求めた時点で新鮮さは、もはや無い。過去を模倣した再現よりも、欲しい経験はたくさんある。あの店での1度目が最高で最初で最後なのだ。そう、フランツ・リストと同じように。

僕の言葉が君の人生に入り込んだなら評価してくれ