w√OCEAN覆面リレー小説 紅組4
大きく息を吐く。透き通った濃い紺に別れを告げ、ドアノブを回す。
まったく、懐かしい思い出だ。結局、人生初の家出は何の抗議にもならなかったようで、その後もあの憎らしい細長いフォルムのオレンジ色は相も変わらず食卓に並び続けることになる。
私はいつの間にか、人参と和解し、長かったオレンジ色のソレ嫌いの歴史に幕を下ろしたのであったが、物の見事に弟がそれを踏襲していた。
そういえば今日の晩御飯はペースト状にされたソレが食卓に並んでいたな。両親が調べでもしたのか憎らしいオレンジ色を隠そうとする努力が見られた。そりゃもうしっかりと。
…ということは、つまり、残念ながら、その魂胆が丸見えだったのだ。
案の定、晩御飯後の弟は非常に不機嫌でそのまま部屋に籠ってしまった。なんだか身に覚えのある感覚でくすぐったい。
幼いころの回想と回想を繰り返し、時間は深夜三時半を回っていた。こそばゆい感覚を払うために伸びをしてみる。
不意に水洗音が聞こえた。こんな真夜中に用を足す人間がこの家にいただろうか。まさか。
電気のついていない廊下は塗りつぶしたような黒だったが、住み慣れた家だ。玄関までのルートは頭と体で覚えている。まさか…ね。
見慣れた背丈の人影が見えた。そのまさかだった。
私に気づいた弟は一瞬怪訝そうな顔をしたけれど、悪戯に笑いかけると観念したような、でも隙を伺うような態度になった。
「予想通りって?」
なんと声が漏れていたのか。彼の頭の上に大きなクエスチョンマークが見えた気がしたが、まあ後でゆっくり話そう。今は外に出るほうが先なのだ。
くっ、と顎で扉の方向を指すと、そのジェスチャーに呼応するように扉が開かれる。
私と弟は息を合わせ、というより勝手に合ったのだけれど、そのまま素早く夜に身を投じた。夜の帳に緊張が解され解放感が体に染みた。
だが、緊張を解くのはまだ早い。安心しては駄目だと自分に言い聞かせていると、謎の解放感にあてられたのかこの愚弟は静寂を薙いだ。
「姉ちゃん、明日面接でしょ」
なんと驚きである。いつかの私は細心の注意であの角を曲がるまで満足にスニーカーも履き切らず闇と同化するように動いていたというのに…ランニングシューズに踵まですっぽりではないか。この浅ましい詰めの甘さに対して心の中で最大限の嘲笑を浴びせてやろうじゃないか!…いや、
しかし、これは純粋な心配の表情だな。一連の愚行は姉想いに免じて許してやろう。
それには答えず右手に握った車のカギを見せびらかす。
愚弟は困ったような表情だったがはっとして顔色が明るくなる。意思の疎通は十分とれていると判断した。さすが姉弟。何も言わず少し離れた駐車場に足を向ける。
「なんで家出しようとしたのか一応聞いとこうか」
端を発したのは私。すると喋ってもいい許可が出たと判断したのか、「だって今日の晩御飯アレでたじゃん。アレ。しかもばれないように姑息な手までつかってさ。バレバレなんだよねあれ。気づいてないとでも思ってんのかな。」
オレンジ色のソレへのヘイトが凄い。憎しと捲し立てる姿が昔の自分と重なった。
「だからこんな家出てやろうってね。こんなに嫌いってわかったらもうアレが出てくることもないでしょ。」
そう続けた。でも私はそれが無駄なことを知っている。生半可な行動はかえって逆効果なことを。子供は大人には勝てないのだ。
子供より強い存在が大人なのか。私はどんな大人になりたいんだったか。
大人になるって何だろうか。子供とはなんだろうか。
結論はこうだ『人参と和解せよ』いい大人になるためには野菜の苦手も無くしておかなければ。
そんなことを頭の中に巡らせているからか、途中から弟の話は全く入ってこなかった。
まあ、わざわざ愚痴を端から端まで聞き取ってあげることもない。と言い訳をしておこう。
この弟の初めての家出にふさわしい体験は何か…ふむ。
「行きたいとこがあるのよね。付き合って。」
返事も待たずシルバーの軽自動車に乗り込み、こなれた車捌きで駐車場を後にする。
行き先も決まってなかったあの日とは違う。行き先は決まっている。
信号は青だ。