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w√OCEAN覆面リレー小説 白組5

午前6時。無機質な音が鳴り響く。
また今日が始まる。

カーテンの隙間から差し込む日差しに目を細め、鉛のように重たい身体を無理やり起こす。
サプリメントを適当に何粒か口へ放り、ミネラルウォーターで流し込む。鏡に映る自分を一瞥し、顔を洗う。目の下にコンシーラーを重ねてベース整える。日に日にカバーしきれなくなっていることを感じていた。ファンデーションは粉っぽく浮いてくる。眉毛を描いて、申し訳程度にアイシャドウを塗る。痩せてハリのない頰にチークをのせ、血色を失った唇にリップを重ねる。
ものの15分で用意を済ませ、家を出た。

同じことの繰り返し。
その一連の動作に意志などなくプログラミングされた機械のようだ。考えるエネルギーは無く探そうともしなかった。
最早、全てがどうでもよかった。

いつもの帰り道。
電車に揺られぼんやりとしていたら、知らない街に辿り着いていた。高層ビルが立ち並ぶ都会だ。わたしには似つかわしくない。
『むらさきの駅』
見覚えは無かったが下りてみることにした。思わずビルを見上げてしまう。悲しいかな、田舎者の性か。

あるバーを見つけてふらりと入った。低い天井の狭い廊下に煩わしさを感じたが、軽快なジャスの音色が心地良かった。わたしの好きな音楽がそこにある。気分が高揚していくのを感じた。
「ようこそ、お好きなところへどうぞ。ご注文は紫シャツの店員にお願いします。」
白い口髭の洒落たマスターがニコリと微笑みながら言った。
わたしは空いている席に座った。そして近くにいた紫シャツの店員に声をかけた。すると、彼は少々お待ち下さい、と言って何処かへ消え、数分後ブドウ酒を並々注いだ大きな丸いグラスを持ってきた。オーダーは聞かれておらず、メニューらしきものは見当たらない。戸惑いを隠せないでいると、彼はニコリと微笑み、この店はコレしかないんですよ。と言った。
まさか、ブドウ酒一択だとは驚きだ。久しく食べ物を口にしていないこの身体にいきなりアルコールを入れるのか。躊躇されたが、濃くて甘い香りに誘われて、ひとくち飲んでみることにした。全身の緊張がふっと和らぐ感覚に陥った。もうひとくち、もうひとくちと飲み進めていく。ひとくちごとに背負った荷物が溶けていくようで、ふわふわと飛んでいきそうなくらい心地よかった。

そのとき、店内が静寂に包まれた。空気が張り詰めているのを感じた。
何度も何度も聴いた懐かしい旋律が聞こえてくる。

忘れもしない。
ラ・カンパネラである。

気づいたら涙が頰を伝っていた。
ここが何処なのか、この曲を演奏する女性が誰なのか。そんなことはどうでもよかった。
美しい旋律に酔いしれる。贅沢な時間だ。心が満たされていく、久しぶりの感覚。夢中で拍手を送った。

次の曲がはじまった。無意識のうちに身体でリズムをとり、隣にいた恰幅のよい男性と手拍子をしていた。このお店が、一体となり音楽を奏でている。楽しい。楽しい。楽しい。
いつまでも、全身で音楽を感じていたかった。

結局わたしは朝までブドウ酒と楽隊と観客の入り交じる狂喜のコンサートに酔いしれた。
どのようにたどり着いたかわからないはずなのに、気づいたら家に居た。帰り道の記憶はない。いつぶりだろうか、深く深く眠りについた。

あのときの感動を味わいたくて、あの女性を探したが、情報が少な過ぎた。あの駅へもどのように辿り着いたかわからない。半ば諦めかけていた。
ある日、テレビをつけると紫色のドレスを身にまとった女性が映った。ヴァイオリンがテーマ曲の番組に彼女は出ていた。
この人だ!
顔をはっきりと覚えていた訳ではないが、確信した。紫色のドレスを着た彼女は美しく、凛としていた。

コンサートに行きたいが、なにせチケットが取れない。行きたい気持ちと行きたくない気持ちがせめぎ合っていた。
あのときの、あの時間、美しい旋律、気分の高揚感。その記憶はかけがえのないものだった。
あの日から、わたしの人生は色を取り戻した。
もう一度、それを経験したら感動が薄まってしまうような気もしていた。あのお店での記憶はそのまま宝箱に閉じ込めておきたかった。


そう、フランツ・リストは確かにそこにいたのだ。

僕の言葉が君の人生に入り込んだなら評価してくれ