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w√OCEAN覆面リレー小説 紅組1

ある人が言った。
『色は交わるにつれて透明になっていく。』

ある人は思った。
『その世界の中で一つの色になりたい。』

恐らく、視覚の問題ではない。こうした矛盾したものに美しさを感じたのであろう。

最近では、透明感のある人という言葉をよく耳にする。

だが、透明感のある人の色は透明ではない。

透明であるとすれば、それは男のロマンともいわれる、透明人間だ。

従って、透明感は透明とは無縁であることを指している。

では、なぜ人は人に対し、透明感というレッテルを貼り付けるのだろうか?

そこには、どんな欲求があるのだろうか?

私にはわからない。

しかし、これだけは言える。

人は、欲求を持てと言われて育ってきたということだ。

『夢という欲求』を持てと。

そして、欲求は評価される。

幼少期の頃の夢は、褒められるという評価を受けるばかりであった。(世界制服という夢を持っていた頃も否定された記憶はない。)

欲求の評価は、夢にとどまらず、他の場でも行われ続けてた。

勉強や部活だ。

親や先生は、目標を高く持てと言ってくる。

『目標という自己実現欲求』を高く持てと。
(自己実現欲求とはマズローの5段階欲求におけるピラミッドの最上階に存在するものである。)

これは欲求が低いと評価しているのだ。

つまり、大人は人の欲求を評価している。いや、評価などという生易しいものではない。コントロールするとでも言っておこうか。

就職活動で志望理由を尋ねられるのがよい例だ。

おそらく、自分の欲求を述べた志望理由は、企業に合わせてつくりあげられた志望理由であろう。

もしかしたら、私達は、コントロールされた欲求の中で動いているのかもしれない。

食欲も睡眠欲も性欲もそうだ。

食欲や睡眠欲は、普段行っている量や時間から生み出され、性欲は…童貞なのでよく分からない。

ともかく、欲求は、環境の中で育まれてるものだったのだ。

もし、そんな欲求を満たすということが幸せということならば、全ての欲求が集約される自己実現欲求は、人の幸せそのものだ。

夢を持て、と言われたのも、自己実現欲求を持てということだったのかもしれない。

目標を高く持てと言われたのも、満たすことの難しい自己実現欲求を満たすための練習だったのかもしれない。

志望理由をつくりだすのも、自己実現欲求の実現に向けての行動だったのかもしれない。

これらは評価ではなく、受けるべき教育だったのかもしれない。

ならば、これからは、自分で欲求をコントロールすることにしよう。自分の自己実現欲求は何なのか。

考えればきりがない。

ならば、軸を定めよう。どんな自分でありたいか。

私は、少年のような大人でありたい。

僕の言葉が君の人生に入り込んだなら評価してくれ