夢に現を抜かし、現に夢を足す3(終)

赤い風船が目に留まる。
先程のお婆さんと少年と少女だ。
僕はその後を追うことにした。理由はなんとなくだ。なんとなくというのは何もないってことじゃなくて何かがあるけど説明するのが面倒だとかうまく表現できないとかそういうことだ。ずいぶん便利な言葉だ。全てをなんとなくで片付けることだってできる。『なんとなく』とは理由になりうるのだ。明確ではないのに納得させることができる不思議な言葉だ。
少年と少女は各駅停車の電車のように屋台の前で立ち止まり、また隣の屋台で立ち止まり、それを何度も繰り返す。お婆さんはその都度、何かを確認していたが『降りるんですか?降りないんですか?』と聞いていたのかもしれない。
お婆さん一行がそんな具合だから僕もその都度足を止めることになる。僕は冷やかし程度に屋台に視線を送らざるをえない。腹は満たされているのだ。
結局、少年と少女はかき氷を買った。少年がブルーハワイを、少女がイチゴを手にする。
一行が屋台の並んでいる道から外れた。僕は距離を少し開け後を追う。
お婆さん一行は横断歩道の手前で赤信号に止められていた。
少年と少女が舌を見せ合っている。
信号が赤から青へ変わる。
糸が切れたのか解けたのか手を離してしまったのか赤い風船がスウーゥンと飛んでいく。僕はその行方を追う。信号機の高さまで風船が達したとき、ドギャーガと音がして風船を捉えている僕の視界にお婆さんが下から飛び込んでくる。
スローモーションのようなゆっくりとした動きでお婆さんが宙を舞っている。
宇宙空間を漂う何かのように穏やかに回転している。
風船が割れると同時にお婆さんは落下を始め、背中からアスファルトにドゥオンと叩きつけられた。
ヤーと悲鳴が聞こえる。誰かが救急車だ救急車を呼べと叫ぶ。
お婆さんは車にはねられた。
少年と少女はリックリックヒューヒュッヒュッと泣いている。
僕は泣いていない。
そこに僕の役割はないのかもしれない。
僕はその場から遠ざかるように歩き出す。
夕焼けが始まった頃、僕は住宅街を歩いていた。
僕が住宅街を歩いていた頃、夕焼けが始まった。
どちらでもいいし、どうでもいいけど本当は同時なんだろう。
丁寧に並んだ家の中から人間の生活する気配が感じられる。水の流れ、まな板を叩く包丁、窓の向こうで動く人影、ドアの開閉、ニュースキャスター、揺れるカーテン、煮物の香り。触れてなくても匂いは届き、見えてなくても音が届く。五感のそれぞれの範囲は違う。
僕が今一番強く感じているのはリッジッジッ、リッジッジッと音を鳴らす僕の靴底。
この空間には発せられるべき音が発せられていた。役割だとか安定だとか予定調和だとか間違いがひとつもない住宅街。
ある音が耳をトゥールーとなぞる。旋律。僕は足を止めその音に集中してしまう。音量は小さいが僕は確信する。僕はこの音を知っている。知らなければ聞き流していただろう。
僕はその音のする方へ進む。それ以外の選択肢はなかった。その音に近寄らないことはこの物語の終わりを意味するかのようにも思えた。僕はまだ何もしていない。
進むにつれ音は輪郭を持ち始め、次第に姿を現し始める。
それはどこにでもあるようなガレージの中から聞こえていた。
ガレージには窓があり、僕はそこから中の様子を窺う。
高校生くらいの少年達がBLANKEYJETCITYの『ガソリンの揺れかた』を演奏していた。しかし音や歌はBLANKEYJETCITYそのものだった。
僕はテレビやパソコンを見ている気分になった。映像と音を別々に発する機械。映像か音が間違っているんだろうと思った。
いや違う。その音は目の前から生まれている。
メンバーの過去が見えているのかと思ったが、少年達の顔を見てその考えが間違いだとわかる。面影はなくプレイも仕草も似ていない。必死な表情を浮かべている。楽器を覚えて間もないであろうぎこちなさ。手元を見続けていながらのプレイ。本物の音が出せるはずはない。そもそも本人ではないのだ。
釈然としない。
何かが間違っているはずだ。
間違ったことが起こり得るのか。
起こっている以上は間違いではないのか。
知識が思考の邪魔をする。
僕は他のものに集中しようとする。
ガレージの中に何もしていない少年がいた。膝を抱えて座っている。ただそこにいるだけで音や演奏に興味など全く示していない。その少年がこちらを見た。覗いているのがバレてしまったか、とばつが悪くなった。
少年が立ち上がりこちらに近付いてくる。尚も演奏は続いている。少年達は自分の演奏で精一杯で周りに気を配る余裕はみられない。
僕と少年は窓を挟み対峙する。僕は少年から嫌みを言われるのかと覚悟した。
しかし、少年は僕を見ていなかった。目線は僕の頭の遙か上に向かい一点だけを見つめている。僕はその視線を辿る。
赤い風船が夕焼けの空にあった。橙の中に赤が浮かんでいる。余程集中しなければ気付けないほどに橙に近い赤い風船であり赤に近い橙の空だった。
向き直ると少年が口を動かした。なんと言ったかはわからない。全く聞こえない。
少年達は演奏を終え、満足そうに何かを語り合っている。彼等の中で合格ラインを超えた演奏をしたのか、あるいは三人でひとつのことを成し遂げたことに感動を覚えているのかもしれない。
僕の目の前に立つ少年はそんなことにまるで構いもしない。演奏が終わったことにすら気付いていないだろう。ひょっとすると始まったことにも。
ただ一点を見つめ口を動かし続ける。
それは同じ言葉を繰り返しているようだったが、僕には聞こえなかったし読み取れなかった。読み取る気はなかった。どうでもよかったし想像したところで正解を確認することも煩わしかった。
僕はこれ以上ここにいたくなかったのでその風船を追うことにした。
リッジッジッ、リッジッジッ、リッジッジッジッ

「それでさ、君はどう思う?」
抑揚のない声が聞こえた。その方向に顔を向けると少女がいた。僕はベンチに座っており隣で少女が俯いている。
見渡してみるとここは恐らく公園で、少女以外に誰もいないし、彼女が携帯電話を手にしている様子もない。僕に話しかけたのか?僕はいつの間にか少女と会話していたのか?わからない。会話の内容もわからない。
わからないから僕は黙る。いやさっきからずっと黙っていたはずだ。継続。
「ねえ、どう思う?」少女がこちらを向く。少女の顔には靄がかかっていてどんな顔をしているのかどんな表情なのかわからない。
「どう思うって何についてだかわからないよ」
「今言ったばかりじゃない」平坦な言葉。
さっきということは、やはり僕は気付かないうちに少女と話していたのだろうか。
「申し訳ないんだけど記憶がないんだ。記憶がないといっても君と話していたという部分だけが抜け落ちたみたいだ。それに君が誰だかわからない」
「ついさっきまで話していた事を忘れちゃった上に私の事も忘れちゃうってなんなの?まぁ私のことなんかどうでもよかったってことね」少女は立ち上がる。
「違う!って言いたいんだけど、それすらわからないんだ」
「だったら、忘れたままでいいじゃない。忘れた実感すらないんでしょ。今の君は、私を知らなかった状態と同じよ。はじめまして。これが君と私の最初と最後の挨拶よ」
少女は僕に背を向け歩き出す。
僕は少女の背中を見送りながら何か言わなければと思うのだが、うまく言葉にならない。引き留めるべきなのかどうかもわからない。追いかけることができなかった
少女は進む。
僕はここにいる。
そして少女の姿が闇に溶けた。僕は彼女を追わない代わりに記憶を辿る。しかし、欠片すらも掴めない。
顔も表情もどんな喋り方だったかもわからない。突然現れて消えた少女。
少女は僕の何を知っていたのだろう。僕に好意を寄せていたのだろうか。それとも友人だったのか。わからない。

しばらくして僕は公園を出る。身体は依然、重たく感じられたがなんとか言うことを聞いてくれる。
公園の出入り口のすぐ横に自動販売機があった。
そうだ。何かを飲もう。喉が酷く渇いている。
ずいぶん背の低い自販機で、高さは僕の胸辺りくらいしかない。
僕は硬貨を飲み込ませ、コカ・コーラを吐き出させる。
コーラ缶を取りだそうと身を屈めた。
「五千円でっどどどどうだい?」背後から声が聞こえ臀部に何かが触れる。
振り向くと禿げ上がったオッサンが立っており、下卑た笑みを浮かべている。
「なっなぁいいでしょ?……そのつもりなんだろ?この時間にコカ・コーラを買うということは……ぐふふっ」オッサンが僕の背後に手を回し尻をいやらしく撫でる。僕は体ごとそれから逃れる。
「足りない?……んっん~そっ、それ、それなら一万」両手で僕の体をまさぐろうとする。僕はその手を振り払う。
「んふっん~そっそそそそんなに安くは売らないよね……そっそうあるべきだよ。安売りはダメだ……んももももう一万たっ足すよ」オッサンは僕の両手を掴み上げずっふぅずっふぅと鼻息を荒くする。
「離せ!クソッタレ!」僕の声は闇に吸い込まれたかのようにオッサンには届かなかったようだ。
「出そうか……じっ十まで」こちらの反応を窺うこともなくオッサンは自らのズボンのジッパーに手をかけた。自動販売機の明かりがオッサンの下半身を鮮明にする。そんなもん照らすなよ。
僕は空いた手でオッサンの頬を殴りつける。
「それは演出か!まっ益々いい!」僕は薄暗い闇にうっすらと浮かび上がる欲望の塊のような表情を見てしまう。目が血走っている。狂気を帯びた雰囲気に僕の身体から血の気が引いた
「失せろっ!」恐怖を取り除くかのようにしてオッサンを突き放す。オッサンは一歩後退り踏みとどまる。
「かっ駆け引きが上手だなぁ……三十だ!」オッサンがジッパーの中に右手を滑り込ませた。
僕は三十万円で何ができるか考えていたが、即座に正気に戻り首を振った。
「金額の問題じゃねぇよ!」僕はオッサンの太ももに蹴りを入れる。クッと膝が曲がり滑稽な姿になる。
「気に入ったよ!一本出そう!」
オッサンが性器をダウルリと引きずり出した。僕は動きを止めて見入ってしまった。何が起きているのかわからない。一本って百万円か。百万……。
「さぁくわえろっ!」オッサンは僕の髪を鷲掴みにし、グニャリとした愚息に近付けようとする。僕が抵抗を示すとオッサンは空いた手を振り上げた。パキャーンと弾けるような乾いた音とドッという衝撃が耳のすぐ横で感じられた。それらが直接脳に飛び込んできたようで思考が飛んだ。何が起きたんだ。
「三百だ!今すぐだ!」あぁ少しの間我慢すれば手に入るんだ。ドッパキャーン、ドッパキャーン。嫌だ。そんな考えをするな。オッサンが僕の顔をゴッドゴッド殴りつける。あぁもう拳だ。硬い。痛い。顔が熱くなってきた。やめろ。僕は殴り返すがまともに当たらない「五百!」あぁ何を買おうか。熱い。熱い。やめろ。もっとくれ。殴られるのは嫌だ。熱い。鉄の味がする。痛いのは嫌だ「七百!」もっとだもっと。思い切り殴ってくれ。もう痛くない。痺れてんだ。頭がぐわんぐわん回る。誰だお前は。金は。もういい。やめろ。いくらだ。帰りたい。帰る。どこに。
「二千!」僕は抵抗をやめた。
「辿り着いた!お前はこの瞬間にゼロだ!」
僕の思考は方向を見失い速度を落とし停止した。
タタタタラーという音が聞こえて目が覚めた。その音は途絶えることなく鳴り続いている。
暗いうえに視界がぼやけている。
僕は倒れていた。地面に縛りつけられているみたいだ。何故目が覚めたんだ。理由じゃない。目覚める目的なんてないだろう。あぁ動きたくない。地面に触れている部分がひんやり冷たくて、それ以外は寒い。
帰りたい。身体を起こそうとすると全身に鋭い痛みが走る。あぁ帰る場所なんてあったっけなぁ。
もちろん頭も痛い。そのうえ、重苦しい。頭の中にありったけの鋏だとかカッターだとかを入れられたんじゃないかと思えて頭をさすってみる。テキチチチッと刃が出た気がした。さらに痛みが増す。
ここは……トイレだ。汚い公衆便所。薄暗いけれど目の前には便器が白く浮かび上がっており、漂う臭いはまさしくそれだ。左の鼻は詰まっていて、右も全開じゃないけれど呼吸をする度にクソみたいな空気を感じとってしまう。痛くて寒くて息苦しくて臭くて気分が悪い。最悪な人生の最低の最中だ。
ここから抜け出したい。
僕は手をついてなんとか上半身を起こす。刃物は身体中に埋められているのかもしれない。痛みが意志を持ち、身体から飛び出そうとしている。はっきりいって迷惑でしかない。
僕は、生まれたときから痛みを感じ続けていると自分に言い聞かせて立ち上がる。
壁を頼りに移動し、洗面台の前に立つ。割れた鏡があったが暗くてそこに映る人間はよく見えない。見えなくてよかったかもしれない。きっと酷い顔が映っているんだろう。
僕は蛇口を捻り、水を口に含み濯ぐ。バルっと水を吐き出す。吐き出した水は透き通っていなかった。血が混じっている。
そして顔を洗う。顔中が痛い。水が悪意を持ってないとすれば、僕の顔が傷だらけなんだろう。
僕は蛇口を戻しそこから出て歩き始める。
辺りは暗く、雨が降っていた。先程から続いていた音は雨が世界を叩く音だ。タタタタラー。
雨足は強く、顔にぶつかる水滴が煩わしくてたまらない。
風はとても強く激しさを帯びている。キュレルキュレイルと風が渦巻く。僕はその音が怖くてたまらなかった。今にも襲いかかってきそうだ。音の発生源を知るために辺りを窺うが、どこから僕を狙っているのかわからない。
少し歩いただけで息があがる。鼓動が高鳴る。それでも僕は逃れるように歩く。ニッチャニッチャ、ニッチャニッチャべチュン。僕は水溜まりに足を踏み入れてしまった。それは大して気にならない。いや、気持ち悪い。靴の中でチャグチャグと音が鳴り始める。靴下が水を吸い込んだり吐き出してる音だ。
あぁシャツが肌に張り付き始めた。また一段と身体が重く感じられる。
街路樹が左右へ大きくしなっている。それは両手を伸ばし上半身を揺らし、まるで踊っているみたいだ。風に踊らされているのかもしれない。でもそれは狂喜に酔いしれているかのようだった。樹は風を受け入れたんだ。僕にはできない。周りの全てのものが怖い。何故僕はここにいるんだ。ひとつも望んでなんかいやしないのに。
街灯が街路樹を照らしていた。そこから地面に落ちた影が激しく動く。影の方が生きているように見える。
僕の影はどうだ。足元から背後に向かって長く長く伸びている。僕じゃなくて影の方が生きているのか。僕は何だ。
下り坂に差し掛かった。
ちょうどその時、風が止んで僕は立ち止まる。
少しだけ、ほんの一秒だけ街灯が温かく感じられた。
それだけで僕は救われた気がした。嬉しかった。
僕は太陽が待ち遠しくてたまらなくなる。
僕は走り始めた。身体は痛い。
痛みは収まらないし収まると思ってない。でも走る。
方向は正しいのかわからない。走ればどうこうなるわけじゃない。だけど走った。今までで一番速く走った。
雨粒は激しく僕を打ちつけるし、風は正面から吹き付けてくる。違う。僕が雨にも風にもぶつかっているんだ。聞こえてくる音は恐ろしく僕の恐怖を駆り立てる。ぐっしょり濡れたシャツは僕の肌に張り付き体温を奪い続ける。
夜明けはどこだ。
陽はまだか。
僕は真夜中を走り抜ける。
夢に非ず、現に非ず。
どちらでも違わない。

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キングAジョーカー
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