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w√OCEAN覆面リレー小説 白組2

拝啓、青い空。
あの日の約束を覚えていますか?

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顎に髭が生えた、前髪が額に張り付くほどに汗をかいた男が、背中を丸めて叫ぶ。
茹だるような暑さと熱気と蜃気楼の中で、ドラムの音が割れるほどに響き、それに負けじと低く太い声が空気を揺すり、地面ごと揺さぶる。


私は思わず顔を歪めて、スマホをベッドに放り投げた。耳からプツリと音がして、スマホはコードに引っ張られ、鈍い音をたてながら床に着地する。

「……あ〜。割れちゃってんじゃん」

ノイズキャンセリング機能を兼ね備えた、最新の密閉型イヤホン。
空気が揺れるはずがないし、ましてや地面が揺さぶられるなんてあるわけがない。イヤホンを繋げたままのスマホを投げるなんてもっと有り得ない。

暑さでおかしくなってしまったのだろう。
エアコンと扇風機のスイッチを入れて、氷が溶けてぬるくなったサイダーを煽る。
薄い水色のワイシャツが肌に張り付いて気持ちが悪く、私はネクタイを緩めて膝下まであるハイソックスを脚から引っこ抜いた。

スマホを拾い上げて画面を軽く拭って、ホームボタンを2回タップして音楽アプリを上にスライドして、ふと曲名を知りたくなった。
猛スピードで上へ上へと移動するアプリの曲名の部分は当然のことながら読めない。
私は舌打ちをしながら今度こそスマホをベッドに放り投げて、ピアノに向かった。

蓋を開いて白と黒に右手を添わせれば、さっきの不快な音など頭の隅に追いやられて。

それっきりその曲を聴いたことは無いし、あてもなくランダムで曲を流し続けることもない。

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あれから10年。
ずっと弾きたかった曲の譜面を手に入れた。

白と黒の鍵盤の上に指をおろすと、ひとつひとつの音を落とし込んでいく。
ひとつひとつを確認して、手に染み込ませて。繰り返すこと数時間。
ひととおり覚えた私は、深呼吸をして両手を鍵盤の上に置いた。


ラルゴ。大丈夫。
レント。うん、いける。
アダージョ。余裕じゃない?
アンダンテ。OK。
モデラート。……あれ、ちょっとおかしいかも。

モデラート。気のせいかな。
アレグレット。なんか違う気がする。
アレグロ。何が違うんだろう。
ヴィヴァーチェ。私が弾きたいのはこれ?
プレスト。違う。
プレスティッシモ。分からない。

何度も何度もループして、ループして、ループして、

「ふふ」

鍵盤から指を離した。


分かっていたのだ、最初から。


私は立ち上がると、部屋のエアコンを切って、窓を開けた。
茹だるような熱気とセミの鳴き声と、子供たちの笑い声がなだれ込んできて、青い空が目に沁みる。
サイダーを喉に流し込むと、強い刺激に思わず噎せ返りそうになる。


私は背中を丸めて、鍵盤に指を叩きつけた。


技法もへったくれもない。
ただ、蜃気楼の中で揺らめいていた、音階も何もない、私の絶対音感を持ってしても掴めない音を追いかけて、私は。


こめかみから汗が流れて首元を伝い、白と水色のストライプ柄のシャツに水玉模様を作る。
うなじに髪の毛が張り付いて、いつの間にか鍵盤が揺らめいて、蜃気楼に包まれて。


ぬるくなったサイダーを飲み干して、エアコンのスイッチを入れ、少しだけ重くなったシャツを脱ぎ、そのままベッドに身体を放り投げた。
壁に貼り付けたポスターはあの時から少しだけ日焼けして、繰り返し指でなぞったサインは少しだけ薄れている。


力の抜けた指で、空に向かってサインをした。


紫色のドレスを身に纏う女性に抱かれて不機嫌そうだった猫がゆったりと笑った、ような気がした。

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拝啓、青い空。

あの日の約束を覚えていますか?
あの日の傷はまだ癒えません。

青い空、やっぱり私は約束を守れませんでした。

追伸
今日の空は青いです。あの日と同じように。

僕の言葉が君の人生に入り込んだなら評価してくれ