信仰をしている友達との接し方
私が創価高校を卒業してから、創価学会に疑問を持って脱会しました。創価高校で過ごした3年間、辛いこともたくさんありましたが、当時は同じ信仰を持つ友達と切磋琢磨し合いながら、充実した日々を送っていたように感じていました。ここでできた友情は、かけがえのないもので、一生涯続くのだろうと信じていました。しかし現在、創価高校の同期で今も付き合いのある友達は数人しかいません。なぜなら、信仰をしている友達にとって私は反逆者で地獄に落ちる存在なのだと思うと、後ろめたい気持ちが湧くのと、純粋に信仰をしている友達と話を合わせようとすると疲れてしまい、自分から連絡を取る気にあまりなれなかったからです。
先日、今でも連絡を取っている数少ない創価高校の友達と電話をしました。話をしていて、創価学会の話題になり、もし選挙を友達に頼んだり、祈伏したりすることが少しでも嫌だなって思ったら、その気持ちを大切にして欲しいということ、もしそれで○○ちゃんが友達に距離を取られてしまっても、それは○○ちゃんの責任じゃないよ、ということを伝えました。それから、○○ちゃんが信仰をしても、しなくても、とにかく幸せになってくれることが私にとって嬉しいということも話しました。自分なりに彼女が少しでも肩の力を抜いて生きられるようにと思って伝えたつもりでしたが、彼女曰く選挙や祈伏に関しては、学校の課題がすこし嫌だなって思うけど結局やったら力が付くのと同じことで、嫌だと思ってもやる、とのことでした。少し腑に落ちない気もしますが、創価学会が正しいと信じている人からするとそういうものなのか、と勉強になりました。いつか活動をしていて本当に辛い気持ちになることがあったら、ふと私の言葉を思い出してくれるといいなと思います。
それから、私には創価高校のみんなが洗脳されているようにしか見えなくて、別の世界で生きているみたいで寂しい気持ちになるということも正直に言いました。そして、こうやって自分の気持ちを正直に打ち明けられるのは、○○ちゃんに心をひらいているからだよ、ということも一緒に伝えました。すると彼女は、私のことを別の世界で生きているって思っている訳じゃないから気にしないでと言ってくれましたが、この寂しい気持ちはきっと経験した人にしか分からないのだろうと思うと、余計に寂しくなってしまいました。
以前は、友達が私のように疑問を持って苦しい思いをするきっかけになってしまうということを恐れて、高校の友達には自分の心の核心部分を話さないようにしていました。しかし、特に新興宗教を信じている人は周りから何を言われようとかたくなに信じようとする傾向があるということが分かり、そのような配慮をするのはやめました。信仰をやめた人間として、信仰をしている友達とどう接するのが正解か、まだよく分かっていませんが、その都度自分が最善だと思う方法を模索するしかないのかなと思っています。
参考動画(日本語字幕あり)