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書いていると、見える景色が違ってきた
明日は、ことのは文章教室アドバンス 最終日だ。
課題の提出期限は前日の正午まで。
午前10時40分、提出完了!
最後まで、ぎりぎり直前の提出となった。
ある本で、「完璧主義はギリギリだ!完璧に仕上げようとして、ギリギリになって、もはや、完璧に程遠い」と表現されていた。
えーえー。そうですよ。完璧主義でごめんなさい。
完璧主義の欠陥人間ですよーだ。
とその本を読んだ時は、ふてくされた。
でも、ほんと、その通りである。仕上げる時、逃げたくなる。文章を書くときだけじゃなくて、服を作るときもそうだ。
ほとんど縫い終わって、あとは、ボタン付け の時、本当に、もう、いや。見たくない。コインをおいておいたら、小人がきて、ボタンだけ縫っていてくれないだろうか。
仕上げるというのは、「これでいい」とあきらめる時でもある。
仕上がるというのは、「不完全さ」を目の当たりにするということでもある。
完成させなければ、不完全さ は見えない。だって、まだ終わっていないのだから。いつまでも途中なのだから。
まぁね、不完全だからこそ、文章教室に通っているのだから、当たり前なんだけれど。頭で分かっているのと、受け入れるのは雲泥の差だね。
ここを超えるのは、どうしたらいいのだろうか
ふと思い浮かぶのは
「楽しいと思えること」と「習慣化」この二つがキーワードかと感じている。
「楽しい」ものだから、書く原動力になる。「習慣化」することで、書く「筋力」が鍛えられる。
「楽しいと思えること」=エネルギー
「習慣化」=筋力
楽しいから書けて、書くから、習慣化されて、筋力がついて、さらに書く。
続けていくと、難しい文章まで書く筋力がついてくる。
こんな素敵なスパイラルになったらいいって思いません?
私にとって、文章教室は、自分に「負荷」をかけてレッスンしている感じがする。
先生は、「文章を書くのが苦手な方が、楽しくかけるように」という思いでお教室を開いている。だから、私が勝手に負荷をかけているし、それは先生の本意とは違って申し訳ないなぁと思いながらも、それを貫いているんだけれどね。
で、今この文章は、もうならったことをなーーーーーんも考えずに書いているんだけど。すっごい楽!楽~~~!笑。
でも、以前とはやっぱり書き方が違っているのに気づく。
まず、読み直すようになったしね。以前は、もう一度書いた文章は見たくもなかったねぇ。
とはいえいつも深く泳いでばかりだと大変(身がもたない)ので、日常の楽しいエッセイなども書きながら、楽しく文章と付き合って頂ければと思います。
って。レッスン終わると、先生から、スライドのPDFと添削された文章の返却があるんだけれど、そこに書かれる一言が、好きでね。今日はもう公開しちゃうんだけど。ね、いいでしょ~やさしいでしょ~。
言葉がさぁ、いつも温かいんだよね。私が欲しいのって、文章力っていうより、この温かさなんじゃないかな?って思い始めているんだけれど。
こんな風に温かい文章を書けるようになりたい。
こんな風に言葉に温かさを乗せることができるようになりたい。
読む方に、受け取る方に、温かさを届けたい!
温かさを感じるかどうかは、相手のことなので、私がどうすることもできないけれど、自分にできることは何があって、どうしたらいいかを教えてもらえた。
文章って、なにも、ブログとか、SNSとかだけじゃないでしょ。
メールやラインでのやり取りの中でも、そういうのってにじみ出てくる。
私のは。。。気を抜くと軽いんだよねー。そこが良さよって言ってくれるやさしい人もいるけれど。やっぱりあこがれるわけで。
先生のもとだから、課題の添削される、なんて、超恥ずかしいことを始められた。恥ずかしいというか。。。。恐ろしいといった表現のほうがぴったりだったのに。
そして、
少しずつ、少しずつ見える景色が違ってきているのは確か。