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ウィッチ(2015)
1630年、ニューイングランド。ウィリアムとキャサリンの夫婦は、敬けんなキリスト教生活を送るために5人の子どもたちと森の近くにある荒地へとやって来た。しかし、赤ん坊のサムが何者かに連れ去られ、行方不明となってしまう。家族が悲しみに沈む中、父ウィリアムは、娘のトマシンが魔女ではないかとの疑いを抱き、疑心暗鬼となった家族は、狂気の淵へと転がり落ちていく。第70回英国アカデミー賞で新人賞にあたるライジングスター賞にノミネートされ、M・ナイト・シャマランの「スプリット」でもヒロインを務めたアニヤ・テイラー=ジョイが、家族から魔女と疑われるトマシン役を演じた。監督はホラー映画の古典的名作「吸血鬼ノスフェラトゥ」(1922)のリメイク版監督に抜てきされ、本作が初メガホンとなるロバート・エガース。 映画.com
【ライトハウス】のロバート・エガース監督の作品。
ライトハウスの前に観たかったけど後になってしまいました。
作風ですかね、凄く不安にさせる不快な音響。ここまで嫌な感じの音はあんまり聞いたことがないくらいライトハウスもこのウィッチも嫌な音がします。(良い意味で)
裁判所のような場面から森へと移動するある家族。
敬虔なクリスチャンの両親と子ども達。
狂気の中心となっていくトマシン。
長女なのでやたらと仕事をさせられ煩い双子にうんざり気味。
姉を家族を守りたい弟ケイレブ。
そしてこの弟ケイレブの演技が凄まじかったです!
一番の見せ場かもしれない鬼気迫る演技で未知の恐怖を穏やかさで感じさせるようでした…。
魔女や信仰がテーマとしてあり、家族が信仰によって崩壊する展開は痛々しいものでした。
自分の欲情や嫉妬や弱さを違う何かになすりつけて自分のせいじゃないと安心したいための魔女や悪魔。
自分達の理解を超えるモノに対して、 怖いから大事に丁寧に接する(敬う)人達と、怖いから先に皆で攻撃して弱らせる(排除)人達。
自分の心の奥底の欲望や弱さをしっかり見つめる事がとても大事なのだろうと思います。
それを認識して理解しないと対策だって取れないんじゃないかな。
どうしようもないのなら、そのまま受け入れる覚悟も大事なのでしょう。
余談ですが観終わって思い出した詩があります。
情欲の行為とは恥ずべき放蕩三昧に
精神を浪費することであり、また情欲とは
行為にいたるまで偽誓、殺人、悪意に満ち、
野蛮、過激、粗暴、残忍で信頼すべくもない。
人はこれを楽しむやいなやたちまちさげすみ、
理性を越えて追い求めても、手に入れるやいなや
理性を越えて憎む、まるで人を狂わせるために
仕掛けられた毒餌を飲んだかのようだ。
追い求めるのも狂気、手に入れても狂気、
行為の前も、最中も、後も、常軌を逸し、
体験中は至福、体験後は悲嘆そのもの、
行く手にあれば喜び、通りすぎれば一場の夢だ。
そのことは人々もよく知っているが、この地獄に導く
天国とも見える女を避ける道はだれも知らない。
シェイクスピア/ソネット-129
魔女への恐怖や嫌悪、嫉妬は女性の魅力への抗いがたい情欲や、それにまつわるエトセトラから来ていたところも多々あるのだろうなと。
上記の詩は見方によっては女性蔑視と思う人もいるかもしれませんが、おそらくそうではないと私は感じています。
一連の詩の流れの一編で、特定の女性へのもののようですし、その人の、どうしようもないファム・ファタール的な魅力を称えつつ、逃げられない自身の苦悩を表現しているのだろうなと勝手に思っています。