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亡き人が「映画の中で生き続ける」のは、本当か?


映画×量子力学: 「シュレーディンガーの猫」と映画鑑賞

 「映画とは何だと思いますか?」という質問を時々きかれることがあります。その時々に応じた答えをしますが、まず、映画を「モノ」として考えてみましょう。

 僕のとっての映画制作は、はじめからデジタルでした。今でも時々不思議に思うのですが、ハードディスクなどの中に入ったマスターファイルは、色情報と音情報(厳密にいうと画ではない)の塊みたいなもので、それが映画として再生されます。ブルーレイぐらいの画質なら、様々な色の点が横1920×縦1080集まったものが1秒に24回切り替わるのが動いているように見える。

 では、映画を「コト」、あるいはちょっと大袈裟に「生命体」として考えた場合はどうでしょうか。建物があっても人がそこに来なければ、「使われていない」(本来の目的を達成していない)ということになるように、映画は観られないと存在することができない。つまり、上映しないと完成したことにならないということです。その「上映」というのは、数百席あるシネコンであっても、数十席のミニシアターであっても、観客がたった一人でも根本的には同じです。

 どんな鑑賞姿勢・態度であっても作品を気に入っても気に入らなくても、映画を観るという出来事を通して、観客は映画を「存在させる」一翼を担ってくれています。これは、量子力学の「シュレーディンガーの猫」という不確実性に関する思考実験と似ています。

 観測がなされるまで、ある物質は「観測されるであろう可能性」が重なった状態のまま存在していて、観測されたときに初めて「状態」が決定されるという考え方です。

 映画もまさにそんな感じです。なにが似ているか?

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