【映画】ペンギン・ハイウェイは「得体が知れない」(未見向け)
俺はおねショタが好きだ。が、映画「ペンギン・ハイウェイ」はおねショタとかそういうのもありはするけどそれだけではない作品だったので、まだ観てない人向けに記事を書きました。俺の言いたいことは「とにかくペンギン・ハイウェイを観てほしい」なので、あとは色々アピールとかであり結論は変わらない。
おねショタとか色々あるがとりあえず置いておく
「濃厚なおねショタがすごい!」「お姉さんのおっぱいがすごい!」「ショタとかロリがすごい!」……などなど様々なおすすめのされ方を目にしているが、こういうのはとりあえずこの記事では触れない。森見登美彦の作品であるとか、そういうのも放っておく。なぜかというとそういうアピールで観に行く人はもう行ってると思うし、俺は原作をまだ読んでいないからだ。
ただし「そもそもペンギン・ハイウェイって何? 新手のスタンド?」的なレベルの人がいたらアレなので、念のため作品の概要とおおまかなあらすじに触れておこうと思う。
ペンギン・ハイウェイは少年とお姉さんの物語である
アオヤマという少年がいる。彼は小学四年生だがそれにしてはずいぶん聡明で、本人も自覚している。そんな彼が通う歯科医院の看護師、それがお姉さんであり、アオヤマくんは彼女に首ったけだ。彼にとってはお姉さんそのものも、自分が抱く感情もすべてが未知であり、ゆえに日々あれこれと考えを募らせる。お姉さんもそんなアオヤマくんのことを(彼女たちは友人同士だ)ときにからかい、ときに叱る。そんなある日、住宅地に奇妙なペンギンの群れが出現したことをきっかけに、アオヤマくんの住む街で次々と不思議なことが起こる……という、ジュブナイルなお話だ。
他にもいろいろ登場人物がいるのだが、あくまで主役はアオヤマくんとお姉さんである。事件の数々も彼らを中心に収束するし、映画の半分ぐらいはふたりの交流に割かれているので、「おねショタがすごい!」「お姉さんのおっぱい!」などの宣伝フレーズも正しい。そもそも序盤からアオヤマくんがおっぱいがどうだおっぱいがこうだと連呼し、さりげない場面で視聴者の視線がお姉さんのおっぱいに向くよう誘導されているので無理もない。
が、映画を観ているうちに「どうもそれだけではないようだぞ」というのがわかってくる。立ちふさがるいくつもの謎、子供たちの心のすれ違い、忍び寄る不穏な気配……そういった諸々が呑気している観客を不吉に煽る。いよいよ終盤にさしかかると、それまでの描写に張り巡らされた無数の伏線が回収され、(文字通り)濁流のようなクライマックスへと我々を引き込む。そしてふたりの物語にも一つの節目が訪れる……。少しのセンチメントと爽やかさ、それはまさに夏の終わりにふさわしい余韻と言えるだろう。
アオヤマくんはノスタルジィを拒絶する
「つまりひと夏の思い出的な? いいよねそういうノスタルジックなやつ」と思った方もいるだろう。たしかにこの作品は強烈なノスタルジーを含有している。特に序盤は、「あーこんな頃もあったっけかなあ」的な浸り方をするだろう。俺もした。しかし物語が進むにつれそういった気配は薄らぐ……それはこの映画がアオヤマくんの視点から描かれており、彼は「ただの少年」ではないからだ。
先にも触れたとおり、アオヤマくんは聡明だ。彼は子供だが、子供なりに自らの幼稚さと世間の広さを認識し、適切な距離を保っている(もちろんその認識の仕方が実に子供らしいのだが)。具体的に言えば、彼はわからないこと、知らないことを積極的に研究し、理解しようと務める。街の様々な自然やブラックホールの成り立ち、あるいはお姉さんのおっぱいに惹かれる理由……そういった未知を理性的に咀嚼する。そのさまはどこかコミカルだが、彼は彼なりの真剣さで世界に向き合い成長しようと(劇中で「立派になる」と表現している)する。そして物語は、彼の研究によって進展していく……それにつれて世界の解像度が上がり、無限の広さを持つように見えた彼の住む街は「ただの住宅街」となり、理知的な大人に見えたお姉さんは「悩みを持ち苦しみもする一人の女性」であることを我々とアオヤマくんに知らしめる。子供ゆえの万能感と想像上の世界のスケールを、無慈悲に剥奪してしまう。それが成長に伴う当然の痛みであったとしても。
しかしペンギン・ハイウェイが優れた作品だと言える根拠は、それと同時に不可思議な事件や存在という「未知」をガンガン投入していく点にある。これはある意味でネタバレかもしれないが、この作品では提示された謎のすべてが解けるわけではない。考察の余地があるとかそういうレベルではなく、一部の「よくわからんもの」は「よくわからんもの」のままで終わる。かといって消化不良を起こさせはせず、観終わったあとには爽やかさとワクワクした気持ちが残るだろう……なにせアオヤマくんはどんなときでも諦めず謎に立ち向かっていく。作品全体に強烈なまでのノスタルジーを含有していながら、主人公はそこに浸るのをよしとせず突き進み続けるのだ。いわばこれは、アオヤマくんと世界そのものの戦いなのである。
けっきょく、なんと呼べばいいのかわからない
ペンギン・ハイウェイの原作は日本SF大賞を受賞しているらしい。「えっSF? それってなんか宇宙とか存在理由とかなんか……科学なんでしょう?」とか思った人はまあいったん腰を下ろしてほしい。SFの定義とかまあなんか色々そういうのはうっちゃっておこう。というのも、俺はこのペンギン・ハイウェイという作品をどうカテゴライズすべきか途方に暮れているからだ。
この物語はノスタルジックな成長記である。しかし同時に非現実的な出来事を描いたSFでもあり、少年と女性の交流を描いたジュブナイルでもある。一方で描かれる人物は彼らに終わらず、アオヤマくんの個性的なクラスメイト(特に俺が推したいのは、彼と同じく聡明な研究少女・ハマモトさんだ)たちの日々のちょっとした成長も描かれる。見ようとすれば恋物語とも(ただし映画本編では「恋」とかそういう単語は注意深く避けられている)取れ、群像劇とも……まあとにかく、作品が多面的すぎて一部分を切り取って語ることが極めて難しい。
冒頭であれやこれみたいな推し方をしない、と書いた最たる理由は上記がためだ。たしかにおねショタだし、おっぱいでもある。だってアオヤマくんがそう言ってるんだから仕方ない。なにせ彼は一日に30分もおっぱいのことを考えている。……が、いざ自分が「このアニメはおねショタ作品!」で終わらせようとすると、たいへんに悩んでしまうのだ(無論、そういった推し方やそう感じた方々の感想・意見を否定するものではないし、逆にそれを否とする方の主張を擁護するものでもない)。劇中に登場した様々な事物の一部は「よくわからんもの」のまま終わるが、なにより「よくわからんもの」はこの作品そのものと言っていい。
でも面白いのだ。たいへんに面白い。そう感じるのは、演出や音楽、デザイン、作画、脚本……そういった作品の骨子の部分ががっちりと緻密に組み上げられているからだろう。それは間違いない。早すぎて何をやってるのかよくわからん曲芸を観ているような気分になる。だから俺はもう少しこの作品について考え、原作を読んだりもう一回観るなりして、「ペンギン・ハイウェイ」という作品を研究しようと思う。そして「研究内容は他人に教えないものだ」と作品のなかで言っていたので、この記事はここまでにする。気になるならば、あなたも実際に映画を観てみればいい!
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