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夏目漱石が記す教師像
教師という職業は「楽天である」
夏目漱石の「吾輩は猫である」に次のような一節がある。
「吾輩は猫ながら時々考える事がある。教師というものは実に楽なものだ。人間に生まれたら教師となるに限る。こんなに寝ていて勤まるものなら猫にでも出来ぬ事はないと。」
また、
「白君は軍人の家におり三毛君は代言の主人を持っている。吾輩は教師の家に住んでいるだけ、こんな事に関すると両君より 。」
この場合の「楽天」とは、辞書的には「物事にくよくよしないでいつも明るいほうに考えていくさま。のんきなさま。」をいう。
教師が、尊敬される良い職業であることが、明治のこの時代、自明の事として、認識されているようである。
あくまで、本文中では猫の認識ではあるが、猫の目というフィルタを通して、人間社会を風刺した作品が「吾輩は猫である」である。
漱石は、ここでの表現(記述内容)に対し、読者が批判的にとらえられたとしても、あくまでも猫の視点を通して表現された架空の話だという逃げ道を作っている(炎上対策をしている)のである。
漱石はその後、朝日新聞社専属の職業作家として、職業作家として自立することを、この当時はまだ想像していない。なかなかいい守りの一石ですね。
さて、現在の教員の自画像(セルフイメージ)はいかがでしょうか?
少なくとも、苦沙弥先生のように昼寝はできないでしょう!
これから少し、教師について考える際の欠かせない観点をいくつかお示ししたいと思います。
1 「教師は専門職である」
子どもを教育することは誰にでもできることでしょうか?
答えは簡単です。教育に関する専門的な知識と経験が子どもの教育には必要です。これを示す、具体的な例をお示ししましょう。
どんなに、優れた学者や大記録を残したスポーツ選手であっても、自分の子どもを1対1で、直接指導することはとても難しいことです。この難しさを経験して、知っておられる方は多いと思います。
なぜならば、自分の子どもと接する時(特に何か大切なことを教えようとする時)には、最初は「自分の子どもだから・・」と、親として、愛情をもって接しようとします。そひて、多くの場合、親の愛情は期待へと転換され、愛情を注げば注ぐほど、親は自分の子どもへの期待が大きくなります。
一方で、子どもの学びや成長には一人ひとり特性があります。自分自身とは同じ人間ではありません。経験や教育の過程が一人ひとり異なっています。ですから、何か説明を聞いている途中で、すぐにすべてを理解する子から、何度も何度も繰り返し説明しても、先生の説明を理解することが難しい子までと様々です。
自分で進んで楽しそうに学ぶ子もいれば、注意しても、自分が興味がないことにはまったく取り組もうとはとしない子など、様々な個性を持った子どもがいます。
自分の子どもが、親が期待する通りに学習や成長できるとはかぎりません。親は、自分が教える際、自分の思いどおりに教えることが進まないと、子どもへの期待はすぐに、怒りの感情に転換されてしまいがちです。
そうなると、愛情をもって子どもに接し、子どもの学びや成長の様子を冷静に観察し、その状況に合わせて適切な指導を行うことはできません。
親が自分の子どもを指導しても、すぐに感情的になり、うまくいかない場合が多いのはそのためです。
一方教員は、大学で専門的な教育を受けた専門職です。経験を積めば積むほど、多くの子どもの教育に携わることになります。経験値が増えれば増えるほど、教師は、目の前の子どもを比較、検討し、自分の知識や経験を基に、その子に合った最適な教育や指導を行おうとするものです。
一人一人の子どもを、クラスという集団の一員として、教育の対象とし、比較、検討、評価して、自分が最適と思う指導をすることができます。子どもを客観視して、教育できるのは、ある意味他人であり、専門職である教師だけだといえましょう。
2 教師は人格者であることを期待されている。
日本の場合、教員は「先生」と呼ばれ、以前は尊敬の対象でした。
この期待は、ALTと呼ばれるネイティブスピーカーの先生にも向けられます。
JETプログラム(世界最大の若者国際交流事業といわれるALTなどの招聘事業)の新任オリエンテーションでは、来日直後のネイティスピーカーが一堂に集められ、研修に参加する際に、彼らが毎回とても驚く(大きな驚きの声が上がる)場面が毎年2つあります。
一つは、授業風景のVTRです。先生が教室に入ってくると、生徒が起立して、”Good Morning! How are you? ・・・I"m fine thank you." と発し、授業が始まる場面です。これは先生への尊敬を示す場面だと考えられます。
生徒が立って、教員を迎え、敬意を示す行動をするという風景は、ほとんどの先進国には、もはや残っていないそうです。彼らにとっては、映画やドラマに出てくる、歴史上の一風景にすぎません。それが、日本の教室ではいまだに行われていることにとても驚くようです。
二つ目が、「ALTは学校の先生である」と地元の住民にみなされているため、信号無視すると、「学校のALTの先生が信号を守らないと苦情の電話が学校へはいるので、注意をするように」と注意喚起される場面です。
多くの先進国では、教員も働く社会の一員とみなされています。学校を一端でると、高い社会規範を求められ、特別視されることはあまりありません。また、英国等多くの英語圏の国々では、信号は交通弱者(歩行者)を守るために設置しているのであって、車が通っていない場合、歩行者の自己責任で、信号を守らず道路を横断することは、交通違反に当たらない(そうであっても、取り締まりの対象にはならない)行為だとみなされているそうです。
3 担任教師は、お世話になっている大切な人であった。
私が、生徒として学校に通っていたころ、4月には、クラス名簿が配られ、そこには生徒の住所と電話番号、保護者の名前が記されてありました。
そして、その名簿の最後に担任教師の住所と電話番号も記されていました。
その当時、担任の連絡先は、盆・正月のお中元とお歳暮を贈る際に使わていました。当時の中学校の担任は、贈り物の季節になるとクラスの生徒に対して、「教員になってからは、お酒を買ったことがない」と豪語していました。その当時は、「暗にお酒を遅れてとの意味なのか」?と思いました。
高校進学への内申書などのことを考えれば、ある程度仕方がないことだとその当時、保護者にはみなされていました。
また、多くの国では「教師の日」という教員に感謝を示すための特別な日(国民の祝日等)が設けられているそうです。2017年には教育再生実行会議が安倍晋三元総理に対し、ユネスコが定める10月5日の「世界教師デー」を、日本において学校と地域の結びつきを強める「10.5教師の日」とするよう求めたことがある。
教師の日とは?日本における教師の日を解説 | 東洋経済education×ICT (toyokeizai.net)
教育再生実行会議の提言は、以下のリンクより
キッズウイークや「教師の日」提言 政府の教育再生実行会議 - 日本経済新聞 (nikkei.com)
4 教師がやっていることは仕事ですか?
卒業後の進路に関わること、生徒指導上のことなど、教員は保護者と直接会って話をする機会が多い仕事である。最近では、PTAの負担感軽減のため、PTA役員会等の会議が、19時以降に始まる場合も多い。
勤務時間は17時までだが、保護者が来るとなれば、当然関係の先生方は参加せざるを得ない。当然、時間外手当もでない。
※ペットボトル1本程度は出されることが多いが、・・・。
公立学校の教職員は、どこまでが職務で、どこまでが自己研鑽で、どこまが休みか、どこまでが仕事の持ち帰りか、仕事の性格上区別が難しい。そのため、30年前に実施された教員の時間外労働調査に基づき、全国平均の4%相当の時間外が生じているとみなし、その金額を教職員調整手当として支給するので、公立学校は組織として、時間外勤務を把握はしないという悪名高き「無制限教職員働かせ放題」の法律が今も機能している。
各教員は、自主的な判断の元、必要に応じて自由に時間外労働をしているという建前になっている。
しかし、実態として、昼休みも授業準備や生徒への指導、ノートや連絡帳の確認、放課後は会議や部活動の指導、生徒が下校後に、文書作成は、保護者対応、次の日の授業の準備、宿題のチェックなど、終わりが見えない毎日である。一人一人、一つ一つの案件に誠実に丁寧に対応すればするほど、時間は過ぎてゆく。
教員が夜遅くまで学校に残って仕事をしているのが知られているので、保護者の相談や地域の苦情電話が、夜遅く入ってっ来る。
※一般家庭の帰宅後や夕食後が特に多い。
多くの場合、対応に30分では終わらない。保護者の仕事の都合で、毎年夏休み前に行っている三者面談を20時以降の時間帯を希望されることも異常なことではない。そのような面談が終わった時は、保護者から「遅い時間に申し訳ありません」と一通りのあいさつがある場合がある。私の親しい教員は、そんな保護者に向かって、「仕事ですから・・・・」と笑って応えた。
はて!これって、教員の普通の反応? ここまでするのが仕事なのか?
「保護者にはこの時期に、是非とも会って伝えなければならないことだかれ、自分の時間を割いてでも、話をしなければならない」から、あえてこの時間でも面談OKしたのではないか? 教員としての「仕事」ではなく、「使命」と考えているからではないか?
特に学校では、全職員の周知のもとという意識があり、度々全員参加の職員会議が実施される。また、学年、教科、分掌と、学校業務はマトリックスになっているため、会議は減ることがない。特に新学期は、様々な会議が終日続く。多くは配られる文書を読めばわかる。これも大きな負担である。
おなじ大学院の授業で一緒に学んだことがあるビジネス専攻の友人が次のように話していた。
「学校の先生の仕事に限度(制限)がないのは、ビジネスモデルとして破綻している。
ホテルというビジネスモデルを考えてください。朝食付き、シングルというサービスには、基本料金に含まれているサービスと、その価格には含まれていないオプションのサービスがあります。
朝、決められた食堂で、決められた時間、決まったメニューを食べるのは、基本料金内のサービス。でも、夜遅く、自分の部屋までサンドイッチなどを料理して特別にをもってきてもらうのは、オプションサービス。(当然追加料金が発生する。)
廊下に設置してある、コインランドリーを利用できるのは、基本サービス。ホテルスタッフに電話して、クリーニングを頼むのはオプションサービス。(当然追加料金が発生)
基本料金には、宿泊約款で示された基本的なサービスが含まれている。それには含まれない特別なサービスを客が求める場合には、オプションサービスとなる部分には追加料金が発生するのは当然のこと。
学校のように、公共サービスとしてどこまでも、基本サービス(無料)として、保護者や地域の方の様々な要望や要求を受け入れていけば、限られた人員で業務を行うというビジネスモデルは継続できなくなり、破綻するのはあたりまえ。」とはっきりと指摘された
。
まさに近年の学校破綻(ブラック職場)の状態を言い表している。この異常な状態が続いているのが、学校の通常状態である。
この状況を解消するためには、保護者との面談は、1学期に1回30分までは基本サービス、それ以外は、30分ごとに、3,000円、17時以降は、5,000円、休日は7,000円などと、追加オプションの料金設定しないと破綻するのは当たり前ではないだろうか?
学校に十分な余裕があり、先生方にも何とかしましょうという意欲と心身の健康が守られている時代であれば、そんな善意も可能であったでしょう。
いつまで、教員の善意に頼った学校運営を行うつもりだろうか?
公立学校教職員の給与に関する法律が改正されない限り、保護者サービスし放題、教員働かせほうだいシステムは継続され続ける。
4%を8%に改定すれば、解決する問題ではない。
学校がブラックたといわれるのも、ある意味当然かもしれない。