嵐の夜に~晴れの今日の日
去年モデルをやっていた絵が美術館の公募展に出品されているから明日一緒に見に行こう、と何故か僕の部屋に君が転がり込んできた。最寄りの駅で待ち合わせれば済む話だと言ったら、以前支度に手間取って定刻に来なかった相手を待ちきれずに先に行ってしまったことがあるから、と罰が悪そうに返してきた。お前が遅刻じゃなくて?と混ぜっ返したら、だってずっと楽しみにしてたから…と子供のようなむにゃむにゃとした口振りをした。ー遠足かよ。っていうか、お前俺を目覚まし代わりにする気だろ。と言ったら、そうだよ、と済ましながらも口をとんがらかしていた。
来客があって間もなくザッと来て、すぐに春嵐に変わった。風雨が窓を激しく叩きつけていた。「明日行けなかったらどうすんだ」「そしたら明後日にする」「一日俺ん家に居る気か」「お前ん家は退屈しないから良い。それに猫とも存分に遊べるし」ウチの猫はこんな陽気じゃ部屋(猫部屋)から出せれねえぞ。他人になんて構ってられないって。「じゃあお前と遊ぶ」ー俺は猫よりランクが下なのか。
君は涼しい顔で適当に本を選んで読んでいる。「明日時間が決まってるんだからもう寝るぞ」明かりを消した瞬間、ブラインド越しにもそれと判る雷が落ちてきた。驚いた君はベッドに潜り込むと僕にしがみついてきた。
雷鳴を引き連れて現れる夜の住民然とした容貌の君は意外にも雷を怖がった。頭を僕に押し付け震えている。全能神の鉄槌が何度も何度も落とされる。その度に君は息を呑み、僕の夜着を掴む指に力が入る。
雷光が君の視界に入らないように毛布をすっぽりと被せ、頭をぐっと抱え込む。そうしてからもう片方の腕を君の背中に回し、ゆっくりと撫で擦る。「大丈夫だから」何度も何度も君に囁く。強張った君の身体から、少しずつ力が抜けていく。背中を撫でる腕の動きでずれた毛布を直したら、毛布の中の空気が鼻先に上がってきた。仏蘭西煙草と仏蘭西香水と交じり合った君の匂い。途端に君の存在を意識し、躰が熱を帯びてきた。
ー君がこんな時に僕は欲望を感じている。(幾分か落ち着いてきたとはいえ)抱き合ったその先など今の君には思いも寄らないだろう。躰の熱を気取られないように動き、肩口に額を押し付けている君に「大丈夫だから」と耳元で囁く。
いつもは僕を振り回しているけれど、今この時は僕に身も蓋もなく僕に頼りきっている君。君は知らないだろうけど、君は僕に光をくれた。暗い水底からの僕の手を掴んでくれた。「当たり前のことだ」と君は言うだろう。それでも君と出逢えたこと自体が僕は嬉しかったんだ。君の為なら僕はきっと何でも出来る。ー差し当たって今は、君が安心出来るように君を君の恐怖から守ろう。
「大丈夫だから。俺がいるから」僕の背中は君を守るためなら傷だらけになっても構わない。だから安心して。ー例え世界が滅んでも、僕が君を守るから。
明けて翌朝。昨夜の嵐が信じられないほど穏やかに晴れ渡っていた。ー晴れ男畏れ入り、と溜め息をついたが、当の君は朝のヒーロー物にかじりついていて気付かない。
実は日曜の方が早起きなんだ、と君は笑う。こんな商売していて曜日の感覚なんてないくせに。
「そうなんだけどさ。やっぱり気配も音も違うもんだよ」
それは世界から遠いところに落ち易い僕にも頷けた。
頃合を見計らって部屋を出る。陽光が殊の外眩しい。展示品のコンセプトをもじって「太陽の下にいたら灰になるんじゃないの?」「うん、今日は大丈夫っぽいね」などとふざけた語らい。今日の君は頗るご機嫌で終始にこやかだ。実際、立ち居振る舞いも完璧で生きる芸術品とも(一部では)称される君が僕を見つめて笑っている。それだけで僕は幸福になれる。
最寄りの地下鉄の駅から美術館へとつながるデッキをそぞろ歩く。ウキウキとした君の足取り。心持ちがそのまま顔や態度に出てしまうのは、僕の贔屓目だとしてもとても好いたらしい。
近未来的な建物に入り、一番奥の展示室を目指す。縦長の部屋は人も疎らで、画家の名前や諸外国の美術館の名を冠した展覧会とは一線を画していた。天井の高い室のなかをぐるりと巡る。企画展の時には動くことも難儀であろう室は、出鱈目に走ることすら出来そうだった。それほど奥まらないパネルの通路側に君の絵があった。一メートル四方程(50号というらしい)の大きな絵。僕の部屋にはもちろん飾るスペースなどない。
作品のタイトル通りを物語る絵。欧州の人里離れた古城に住まうひと組の男女。人間離れした美しさはもちろん、人ではない気配も湛えている。そしておそらく彼らはこの古城にもこの世界にも二人きりの存在の種族なのだ。昏に目覚め暁に眠る妖。只人と交わることはいずれかの滅びを招く。孤独と誇りが彼らをー特に男をーこの場所に繋ぎとめている。
僕達は二人並んで絵の前のスツールに腰掛け、しばらく作品と対峙した。絵の中の君ー男ーの視線は画家から外れはるか遠く、より一層儚さを醸し出していた。今僕の隣にいる君にも、そんな時があるのだろうか。
僕の名を呼ぶ君の声と、肘で小突かれて我に帰った。随分深いところまで飛んでいたらしい。「煙草、行こうぜ」煙草を喫う仕草をして、目配せをする。喫煙所は建物の外だ。絵の中の君と対峙して、やはり緊急していたらしい。二人して一服目を深く吐き出した。
暖かい風が強張っていた四肢をほぐしていった。
「…凄かったね」「…うん、凄く良かった」ちゃんと“君”を引き出せていた。流石はプロと言うべきか。「ギャラリーの個展の時も思ったんだけど、俺ってそんなにはかなげ?」ギャラリーの絵はジークフリートに扮してるんだから“死”は避けられないだろ?それにテーマとイメージとモデルがかっちりと嵌まっちまった、てことも有り得るんじゃないかな。「うーん……ま、そういうことにしとくよ」お前が言うんだからそうなんだろうな、と君は満面の笑みを浮かべた。その笑顔はとてもまぶしかった。
もう少しこの空間にいたくて、建物の中に戻った。1Fのカフェでお茶と洒落込んだ。著名な建築家が設計した建物の窓(全面ガラスのようなものだが)から入る光は木漏れ日のように細かく柔らかい。企画展のない美術館は凡てがゆったりと流れている。公募展なんて本当に美術が好きな連中じゃなきゃ足を運ばない。あくせくした人間がいないと、自然こちらの心持ちもゆったりしてくる。建物の中では時間の流れが違うような、誰もがゆっくりと歩む様がまるで古い映画のようで、僕達は時を忘れて眺めていた。
うっとりと浸っていたら光の色が暖かみを帯び、日もかなり傾いてきていた。
「そろそろ行くか」この場所から離れがたい気持ちで腰をあげる。来た道から逆の方向から帰路につく。行きとは違い、途中で君と別れることになる。そうしたらまた当分の間君と会えなくなるだろう。ーもう少し、君と二人きりでいたい。
「…あのさあ」意を決した。何?と君が笑顔で返す。「今夜と明日、予定入ってる?」昨日の夜にその答えはきいている。予定はないよ、と律義に君が応える。「今日、泊まっていかない?」
ずっと君と二人でいれて僕は幸せだった。君が隣にいてくれたから僕は重い扉を開けることができた。暗い水底に差した一条の光に向かって手を伸ばした。その光が君だった。だから君は何ものにも変え難い、僕の大切なひとなんだ。
君が女王様のように甲を上にして手を差し伸べた。僕はそれを恭しく取って額につける振りをした。君の手が小刻みに震え、頭上から笑った空気が感ぜられた。