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【安土桃山時代の話】聚楽第を壊す必要があったのか?

聚楽第とは豊臣秀吉が関白に就任した翌年の1586年に建設が開始され、1587年に完成した城郭でした。場所は京都にありました。


城郭と言っても普通の城のように軍事施設という役割があったわけではなく、政治を行う場所かつ邸宅という位置づけでした。

聚楽第は豪華絢爛であり、屋根にはたくさんの金ぱくがあったらしく
まさに関白となった秀吉の権力の象徴を表すものだったといえます。


1588年には時の天皇である後陽成天皇を迎えて儀式も行ったりしています。

そんな聚楽第は1595年になんと秀吉の命により取り壊されてしまいます。

たった8年しか存在しなかっためちゃくちゃレアな建物です。

秀吉の命と書いていることからもわかる通り、聚楽第は自然災害が起こって崩れたとかではなく、意図的に壊させたのです。

そんな豪華なものをなぜ壊す必要があったのかというと、そこには豊臣秀次が関係してきます。

秀吉は関白職を甥でありかつ養子の秀次に譲り、それと同時に聚楽第も譲られ、これをもって聚楽第は秀次の邸宅という位置づけになりました。

しかし、1595年秀次が謀反を起こそうとしているという理由で、秀吉は秀次に切腹を命じました。

こうして秀次は切腹し、秀吉は秀次の存在ごとを消すために聚楽第の取り壊しを命じたといわれています。

しかし、この話を聞いてもわざわざ取り壊す必要があったのかなとあまり納得がいかないんですよね。

後に徳川家が豊臣秀吉が築いた大坂城を取り壊し(埋めた)たことからも敵の城や建物は基本的に壊すのが当たり前という価値観があったのかもしれないので、

そう考えると秀次の邸宅だった聚楽第を壊すように命じるのもわからなくはないのですが

それにしても軍事施設ではない立派な邸宅を壊す必要性があまりわからないんですよね。

しかも聚楽第は秀吉自身が築いた建物であり

それを後に自ら壊してしまうのはなんだかもったいないな~という気がします。何か他の目的で活用できなかったのかなと思ったりもします。


まぁこれは後世の人から見た意見であり、当時の人にとってはどうしても壊さなければならない理由が他にあったのかもしれません。


聚楽第は8年間しか存在していなかったため結構謎に包まれています。

そのため真相は誰にもわかりません。


もし今も聚楽第があったら多くの観光客であふれていたのではないでしょうか?


京都観光の人気スポットでは清水寺以外にもしかしたら聚楽第が入っていたかもしれません。

もし江戸時代に再建されて明治初期まで残っているとかだったら白黒写真ではありますが、聚楽第がどんな姿をしているかわかります。

しかし安土桃山時代には当然写真なんてものはないので、後世の人がどんな姿だったかをみることは不可能です。

それだけに余計どんなものだったのかは気になりますね。

戦国時代・安土桃山時代に建てられた城・建物の多くは現代に残ってはいません。今から400年以上前ですから大半のものが残っていないのも無理ありません。

もう無い城や建物がどんなものだったのか想像することはロマンがあるといえばあります。

ですが、やっぱり聚楽第はどんなものだったのか実際に見たいですね




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