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【血縁関係シリーズ⑥】徳川慶喜と徳川家達の血縁関係

徳川慶喜は鳥羽・伏見の戦いで大坂城から敵前逃亡して、江戸に行って謹慎したことで徳川宗家の当主が、当時まだ数え年6歳の徳川家達(読み方は いえさと)に交代しました。


慶喜(1837~1913)
家達(1863~1940)
なので2人は歳が36歳離れています。



慶喜の後に、当主となった家達は果たして慶喜の子供なのでしょうか?



結論からいってしまうと、違います。2人は同じ徳川家の人間でもかなり血縁が遠い関係にあたります。



今からウィキペディアを参考にして自分なりに系図を作ってみます。



難しいと思った漢字には読み仮名をふっています。





慶喜の系図

徳川家康
  ↓
 頼房
  ↓
松平頼重
  ↓
 頼章(よりあき)
  ↓
 頼豊
  ↓
徳川宗堯(むねたか)
  ↓
 宗翰(むねもと)
  ↓
 治保(はるもり)
  ↓
 治紀(はるとし)
  ↓
 斉昭
  ↓ 
 慶喜




家達の系図

徳川家康
  ↓
 頼宣
  ↓
 光貞
  ↓ 
 吉宗
  ↓
 宗尹(むねただ)
  ↓
 治済(はるさだ)
  ↓
 斉匡(なりまさ)
  ↓
 慶頼
  ↓
 家達




これをみると慶喜は水戸家の出身で、家達は吉宗の子孫なので紀州家の子孫であるといえます。



家達本人は御三卿の一つである田安家の当主になっています。


慶喜と家達の共通祖先は家康に遡らないといけないほどの血縁関係の遠さです。


なんと18親等離れています。



現代では6親等までが親族と法律で定められているので現代に置き換えたら100%親戚扱いにならないでしょう。




江戸時代の当時でも一般庶民ならそんなに遠い血縁関係の人は知らないでしょう。



しかし、徳川家の場合は最も有名な武家の家であるため、どんなに血縁が離れていようが徳川一族という意識がありました。



なのでどんなに血縁が離れていようが親戚扱いになっていました。



このため慶喜、家達は当然ですが、お互いのことを知っています。



家達は慶喜が恭順して当主の座を継ぎましたが、実はいきなりなったのではなくもともと将軍になる予定でした。




実は、14代将軍家茂が後継として亀之助(家達の幼名)を将軍にすると言い残して亡くなりました。



亀之助(家達)と家茂は、はとこの関係にあり、慶喜よりは血縁関係が圧倒的に近いので後継にしたかったのだろうと推測します。



しかし、亀之助(家達)はこのときまだ数え年4歳でした。



幕府が安定しているときなら徳川家継のように幼い歳で将軍に就いても問題ないのですが、今は幕末という激動の時代であり、幼い将軍ではとてもやっていけないという理由から慶喜を次期将軍候補に推す声が高まり、結果的に慶喜が15代将軍になりました。



しかし、慶喜は将軍就任から1年も経たずに大政奉還をしました。



その後は戊辰戦争の途中で慶喜は謹慎して新政府に恭順し、家達が徳川宗家を継ぐ形になります。



明治になってからは徳川宗家である家達の方が、慶喜より身分が上であったため慶喜は1902年に徳川慶喜家を興して宗家から自立するまでは、徳川宗家である家達に養ってもらう生活が長く続きました。


以上が慶喜と家達の関係でした。

ではまた!





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