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【血縁関係シリーズ⑫】岩倉具視は織田信長の子孫だった

血縁関係シリーズは、みんなにあの有名人物同士の間には実は血縁関係があったんだ~(あったであろう)ということを知ってもらいたくて、始めたものです。しかし、女系子孫が絡むと参考にできるものが、Wikipediaに書かれている情報ぐらいしかありません。そのため信頼性に欠けることをご理解の上、お読みいただけると嬉しいです。


織田信長と岩倉具視

一見、全く違う時代に活躍した人物であるため、2人の間に関係性などないと思うかもしれません。しかし、具視は信長の女系子孫にあたり血のつながりがあったとされています。

まずは、系図を紹介します。

織田信長
  ↓
 信雄
  ↓
 信良
  ↓
信良の娘
  ↓
稲葉知通
  ↓
 恒通
  ↓
 恒通の娘
  ↓
勧修寺経逸(がじゅうじ つねはや)
  ↓
 吉子
  ↓
 岩倉具視

具視は信長の9代後の子孫になります。


順番に1人ずつ簡単に紹介していきます。特に情報がない人については飛ばします。


織田信長(1534~1582)

信長は一番有名ですよね。

尾張国に生まれ、同じ織田一族の織田信友を倒し清州城を手に入れて勢力を拡大させたのちに尾張を統一しました。

その後は斎藤家が治めていた美濃の攻略に乗り出し、


美濃の本拠地である稲葉山城を奪い、岐阜城と名を変えてそこを本拠地にしてさらなる勢力拡大に乗り出します。

そして上洛したいと考えていた信長は、将軍足利義昭に目をつけ、義昭を将軍にするという名目で京都に入ることに成功しました。信長は京都を支配することに成功しました。

その後は越前を支配していた朝倉家との戦いや石山本願寺との戦いがありましたが、最終的に信長が勝利しました。

また、名門武田家を滅ぼすことにも成功し、このときの織田家の力はかなりありました。

しかし、決定的な事件が起きます。

それは1582年に起きた本能寺の変です。

信頼していた明智光秀が、

突然信長の宿泊している本能寺を大軍で攻めたのです。


信長はなんとか戦いますが、わずかな家臣しか連れていなかったばかりにかなわないと悟り、燃える炎の中自害しました。

享年49歳でした。

信長は戦だけではなく、楽市。楽座などの経済政策も行い商売を発展させて街を賑わせた功績も残っています。また豪華な安土城の建設も行っています。


織田信雄(1558~1630)

信長の次男として信雄は生まれました。読み方はのぶかつです。

信雄は一般的に当時から評判は良くなかったらしいが、

雑賀攻め、石山本願寺との戦いでは父信長、兄信忠とともに戦いそれなりに活躍していました。

しかし、1578ー1579年の第一次天正伊賀の乱で許可なく勝手に攻め、その結果大敗北を喫したことから信長に激怒されるという失態を犯してしまいました。

その後本能寺の変で信長が亡くなり、後に続いて信忠も亡くなった後

豊臣秀吉が台頭し、織田家の後継者を決める清須会議において、秀吉は信忠の息子でまだ数え年3歳の三法師を推薦しました。

これに対して、古くから織田家に仕えていた柴田勝家は信長の三男である織田信孝を推薦します。

信雄は人望がなく、誰からも推薦されなかったとされています。

結局秀吉の案が通り、三法師が織田家の後継者に決まりました。

秀吉が台頭することを良く思わない信雄

そこに同じ思いをもっていた人が現われます。

その名は徳川家康

家康と信雄は秀吉に対して戦いを起こしました。

これが小牧・長久手の戦いです。

徳川・織田軍はいい感じで戦っていたのですが、


信雄は家康に無断で秀吉に降伏してしまい、その流れにより家康も降伏せざる負えなくなりました。

それから何年か時が経った後、信雄は秀吉の転封命令を拒否して領地を全部没収されるなど結構悲惨な目にあっています。

その後は色々ありましたが、最終的に大坂の陣で徳川軍に味方したことにより、5万石の領地が与えられ息子に2万石を与え、

自分は隠居し悠々自適な生活を送ったのち、1630年に享年73歳でした。


織田信良(1584~1626)

父・信雄が5万石の領地を与えられたときに2万石を与えられ、ここに小幡藩が成立し、信良は小幡藩初代藩主になります。

藩主として藩政の基礎固めを行い、

家光の許に出仕したり、秀忠の朝廷に対する使者として上洛するなど幕府との関係も比較的良く、落ち着いた毎日を過ごせていたのではないかと思っています。

しかし、父・信雄よりも4年早くに亡くなってしまいました。

享年43歳

稲葉知通(1652~1706)

知通は代々稲葉家が藩主を務めている臼杵藩(うすき)の第6代藩主でした。

臼杵藩は豊後国現在の大分県にある九州の藩であり、石高は5万石とそこまで多くありませんでした。

知通の父と兄も藩主であり、兄が亡くなったのを受けて6代藩主になりました。

享年55歳

稲葉恒通(1690~1720)

恒通は知通の息子として生まれ、父・知通の死後7代藩主になりました。

しかし、このときの臼杵藩は財政難に陥いったため改革の必要性に迫られていました。

そこで恒通は倹約令を強いたり、御用金を課したりして藩財政を立て直そうとしたが、恒通自身が若くしてなくなったために改革は失敗に終わりました。

どこの藩でもそうですが、若くして藩主が亡くなった場合には改革は失敗することの方が多いです。

享年31歳

勧修寺経逸(1748~1805)

経逸は公家の家である勧修寺(かじゅうじ)家に生まれ、同家の23代当主になりました。勧修寺家は藤原氏の人物が祖となっています。

経逸の娘が第120代天皇である仁孝天皇の母にあたるため、

経逸は仁孝天皇の祖父にあたり、また現在の天皇陛下の祖先にもあたります。

享年58歳


岩倉具視(1825~1883)

岩倉具視は昔500円札にもなったことがあるので知っている人は結構多いかもしれません。

具視は下級公家の岩倉家の出身でした。

早くから倒幕の考えを持っており、薩摩や長州に近づきました。結構具視は野心家であり黒いうわさが付きまとう人物でもあります。

具視は、和宮を将軍徳川家茂に嫁がせようとする公武合体策には賛成し、これを行うことによって朝廷の権威回復が実現すると思っていました。


そしてさらに朝廷が幕府に攘夷実行を命令することによって、幕府の力を削ごうとも考えていたらしいです。

そして時は進み、将軍による大政奉還が実現したあと、

具視の計画で倒幕派の面々は王政復古の大号令を発動し、天皇中心の政治を行うことを高らかに宣言し、徳川家による支配を完全否定して新政府が成立しました。

その後は新政府と旧幕府との間で起こった戦いである、戊辰戦争が始まりました。結果的に新政府が勝利し、新政府による国内統治が始まりました。

その後1871年欧米を直接、

政府のメンバーたちが見て回る岩倉使節団が派遣され、名前からもわかる通り具視が特命全権大使という使節団のナンバー1と位置付けられました。

政府の人間として活躍しますが、1883年に内閣制度の完成を見ることなくこの世を去ります。

享年59歳

終わりに

織田信長と岩倉具視どちらも教科書に載るほどの人物ですが、まさか2人の間に血縁関係があったなんて!衝撃を受ける人が多いと思います。

僕も初めて知ったときにそうだったの!とびっくりしました。

意外に知らなかったけど、こういった血縁関係がある人物は他にもいるので今後も紹介したいと思います。

次回もまた読んでくれると嬉しいです。









 

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