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【歴史のIF】伊達政宗がもっと早く生まれていたら天下統一は成し遂げられたか?
伊達政宗は数多くいるうちの戦国武将の中でもひと際目立った存在です。
「独眼竜」というあだ名で知られ、武将の資質と巧みな話術で豊臣政権・徳川政権下をなんとか生き残りました。
政宗の話をするときに大体「政宗がもっと早くに生まれていたら天下を取れていたのか?」という疑問が上がります。
政宗は1567年生まれと戦国武将の中では遅めの方です。
戦国三英傑と比較すると、織田信長は1534年生まれ、豊臣秀吉は1537年生まれ、徳川家康は旧暦だと1542年生まれです。
政宗はこの3人よりも20年以上も遅い生まれとなっています。
政宗は大体三英傑の子供たちと同じ世代です。
遅く生まれたせいで、天下を取り損ねたと言われることがよくあります。
しかし果たしてそれは本当なのでしょうか?
個人的にはたとえ三英傑らと同年代に生まれいたとしても政宗が天下をとることは非常に厳しかったのではないかと思います。
まず政宗は出羽国(現在の山形県)に生まれました。つまり東北地方の大名だったわけです。このポイントが今回の話で重要になってきます。
それに対し、信長と秀吉は尾張国(現在の愛知県)、家康は三河国(現在の愛知県)の生まれです。
三英傑は皆現在の愛知県で誕生しています。
この違いはかなり大きいです。
この時代の天下統一とは京都とその周辺の畿内を支配下に置いた時点で、天下をとったというふうに解釈されていたという説もあります。
天下統一の条件として、全国すべてにしても京都とその周辺だけにしても当時の日本の首都である京都を制圧することが条件です。
京都が一番影響力が大きいわけです。
天皇も将軍も京都にいるため国のナンバー1ナンバー2がそこにいたのです。
将軍は権威が全盛期に比べてはもちろん劣っているわけですが、それでも信長が足利義昭の力を借りてでも、なんとか京都に入ろうとする(上洛する)様子を見ると、このときでもまだ足利家の権威はあったということになります。
愛知県は京都に比較的近いです。中央に近い土地というのは、実際に上洛しなかったとしてもかなり有利に働くんだと思います。
だからこそ三英傑たちは力を伸ばせたのです。
ただし、近いと言っても上洛して京都を抑えることは簡単なことではありませんでした。
信長はまず尾張国を統一した後、
斎藤氏を倒して美濃を手に入れその後、義昭を将軍にするという名目で上洛を目指しますが、北近江を支配していた浅井氏がいました。
信長は浅井長政と同盟を結ぶことで、通してもらうことができました。
それで無事京都に到着かと思いきや、南近江には六角氏がいてなかなか通してくれませんでした。そこで信長は上洛戦で知られる六角承禎との戦いで勝利し、ついに上洛に成功し信長は京都を制圧します。
自分の国を統一した後でも上洛して京都を制圧するには数々の敵がそこにはいるわけなので、なかなかスムーズには行かないのです。
信長が上洛したのは1568年で数え年35歳の時です。
尾張国生まれの信長でもこれだけ大変な思いをしているのですから、東北地方の大名の政宗が京都を抑えるのはかなり厳しいです。
出羽国から京都まではかなりの遠い道のりです。その間には数多くの敵がいます。
まず関東で猛威を振るっている後北条氏、そして甲斐で力をつけている武田氏などなどなど多くの強敵が東北ー京都間には潜んでいます。
それらの大名が政宗に対し、攻撃を仕掛けたとしたら、果たして政宗はそれらすべてを上手く切り抜けることは果たしてできるのでしょうか?かなり難易度が高いと言わざる負えません。
これは政宗個人の資質が問題というより、東北地方の大名というのがかなり天下統一を難しくしているというのが結論です。
そのため、政宗がもっと早く生まれていたとしても天下統一は不可能だったでしょう。政宗が京都周辺の大名だとしたらもしかしたら天下統一が実現できたかもしれません。
これは東北の大名政宗だけじゃなく、反対に九州南部を支配していた島津氏にも同じことがいえます。
島津氏自体はとても強い戦闘集団なのですが、京都から九州南部もかなり遠いです。
それだけ京都から離れているというのは本当に不便なのです。
信長、秀吉、家康たちが活躍できたのは、もちろん本人の力によるものも大きいのですが、そもそも生まれた場所が天下を取りやすい地域だったというのも関係しています。
もし信長が京都から離れた地域の大名だとしたらどこまで活躍できていたかはわかりません。
このことから個人的に、
伊達政宗が仮にもっと早く生まれていたとしても京都からの遠さから天下統一をすることはおそらく不可能だったという結論になります。