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孝明天皇がついにブチ切れた!?
孝明天皇は121代天皇であり動乱の幕末を生きた天皇です。
そんな孝明天皇は外国勢力を追い払おうという攘夷の考えを持っていました。
攘夷思想を持っている人は孝明天皇以外にもいて、主な攘夷思想は長州藩や公家で特に多かったと言われています。
孝明天皇と長州藩は同じ攘夷の思想を持っているため、仲が良かったのかと思われがちですが、実際には違います。
長州藩の攘夷というのはかなり過激なもので、外国船がいたらいきなりそこにむかって砲撃をするようなレベルです。
ただ孝明天皇としては外国との戦争までは望んでおらず、そんな長州藩のことをむしろ嫌がっていました。
そんなとき長州藩と公家が手を結び、天皇の大和行幸が発表されました。
この大和行幸とは初代の神武天皇のお墓がある大和(現在の奈良県)に、攘夷祈願をすることを目的としたものです。
つまり天皇自らが祖先のお墓に行くということになります。
しかし、これは孝明天皇が望んだものではなく、あくまで過激な攘夷派の長州藩と公家が協力して勝手に計画したものだったのです。
これにブチ切れた孝明天皇は会津藩と薩摩藩に頼んで、軍を作り、過激な攘夷派を京都から追放する事件が起こりました。
これがあの八月十八日の政変です。
ただ、いくら孝明天皇の大和行幸が天皇の意思によるものではなかったとしても、
兵を出してクーデターまでやるほど怒っていたの?と思われるかもしれませんが、おそらく相当怒っていたのだと思います。
なぜならこの大和行幸が初の攘夷祈願ではなかったからです。
その前から天皇による(無理やりの)攘夷祈願が京都で何回も行われていました。
やりたくもない攘夷祈願を何回もやらされて、おそらくものすごいストレスを感じていたのでしょう。
いくつか行われた攘夷祈願の1つに石清水行幸というのがありました。
この時の行幸の前に孝明天皇は体調を崩してしまい、行幸を延長してほしいと公家の三条実美に頼み込みました。
しかし、三条実美は行幸の日は変えられないとしてこの頼みを拒否しました。
そして孝明天皇を無理矢理籠にのせて石清水まで連れていくというかなり強引な形で行われました。
こういった前段階があってからの大和行幸の発表でした。
孝明天皇としてはもう我慢の限界だったでしょう。
「自分の体調が悪いときにも無理やり連れて行って、今度は奈良まで攘夷祈願しないといけないのかもううんざりだ!!!」
おそらくこのように思っていたのではないかと推測します。
幕末では特に尊王攘夷という思想が全国に広まっており、
天皇は多くの人から敬われている存在でいいなと感じるかもしれませんが、
今のエピソードを知ってしまうと孝明天皇自身は自分の環境にかなり不満があったのではないでしょうか?
そんなふうに思えます。