君の絵
1、
四国、足摺岬。
一人の男性がBikeの傍に佇んでいた。
ちょうど夕陽が観れる時間帯を知っているかのように、彼は、いた。
近寄って見ると彼のバイクはKAWASAKIと書いてあった。
2気筒のbikeは横から見ても前から見ても後ろから見てもバランスがとってもよく美しい。
彼はcameraを取り出してアングルを切り始めた。bikeを少し動かしては携帯を見ながら何かを確認しつう、cameraをのぞいていた。
カシャ、っと明らかにフィルムカメラのシャッター音が岬の波の音に紛れて聞こえた。
何回かシャッターを切り、おそらく満足したのか、cameraをしまい、さあこれから夕陽が綺麗に焼けそうだ、という時にヘルメットを被り、そのbikeにまたがり、おそらく今はほとんど見たことがないであろうキックスタートでエンジンを始動し、二気筒独特のリズムのあるエンジン音とともに走り去っていった。
重いエンジン音は岬の中に溶けていった。
2、
1980年代。僕はCMのrecording engineerの仕事に没頭していた。
音楽のrecordingとは違って、撮影の現場で声を録音し、studioに戻ってそれを整え、MIXをし、当時はその音を光学的に焼き付けるまでが自分の仕事だった。
毎日studioでCMの仕事を多い時には1日5本もやっていた。
会社へはbikeで通勤をしていた。もちろん公認はされていない。
CMの仕事で一番嬉しいのはコマーシャルフォトという雑誌に今月のCMというコーナーがあり、自分がやった作品がのっていたり、自分の名前が出ていたり、時には特集されていたりと、見るのが楽しかった。
そんな時、後輩の友達のグラフィックデザイナーに出会った。彼はbike乗りだった。
僕は当時SR400というsingleのbikeに乗っており、彼はhondaのオフロードバイクに乗っていた。
彼はよくうちに遊びにきた。
それを聞きつけ友達も集まってくる。
彼がきてやることは、スライドのプロジェクターを持ってきて上映をすることだった。
彼が日本1周をした時の写真だ。
filmはスライド用のもので撮影をする。
小さいスライドプロジェクターというものに1枚か2枚入れ投射し終わると、そのスライドをチェンジしていく。
約40枚くらいのお気に入りの写真をだいたい6時間くらいかけて場所の説明・その時の天気・その時の気持ちを語るのだ。
もう何回も見ているのだが、彼の大好きなスティーリー・ダンをかけながら映写を見ていると、いつも飽きることなく、最後まで酒を飲みながら見るのだった。
おかげでスティーリー・ダンの曲は随分覚えたつもりだったが、おそらくガウチョ、というalbumとAjaというalbum。そしてドナルドフェイゲンのナイトフライ、この3枚を6時間LOOPして聞いていたようだ。
写真には、いつも笑顔たっぷりの彼ととっておきの景色が写っている。そしてそれは時間帯・季節までも計算しつくしたかのような絵でアングルももちろん完璧だった。
会社勤めをしていた当時の自分には絶対にできないことはわかっていたけど、いつか同じ場所に絶対に行ってやる、と心に決めていた。
3、
彼は言ってみればライバルだった。
コマーシャルフォトにいかに自分の名前が多く出るかを毎月心の中で競っていた。おそらく彼も一緒で、名前が出ている作品を見つけると必ず僕が電話するか彼が電話してくるか、だった。
今から考えるとその時代はバブルな時代で、かなりCMは大掛かりなものも多く、その時代のトレンドでもあった仕事だ。そんな中僕らは一緒にはいないけど競い合っていた。
彼と出会って3年後の秋。
彼を紹介してくれた後輩から突然電話があった。
”彼、骨髄性白血病になったんです。持ってあと1週間’。
一瞬何がなんだかわからなくなりかなり動揺した。
そんな電話があってから3日後、彼から電話があった。
’なんかそんなことになっちゃって、あまり先、ないかも。でさー、君行ってくれるんだよね、いつかあの写真の場所、行きたいって言ってた。
あのスライドの順番てさー、大事なんだよ。いつでもいい、絶対に行って欲しい。で行くなら絶対に順番は守って欲しいんだ。最後に僕の言いたいことがわかるから。じゃあ’
と行って電話は一方的に切れた。
そしてその四日後。後輩からもらった電話の1週間後、彼は亡くなった。
後輩が言っていた、小高い山の上の湖があるとっても綺麗な場所に、彼の次の居場所が決まったらしい。
Bikeで行こうとは思っていたが、当時はあまりにも忙しく、そのことすら忘れて時間がどんどん経っていった。結局お墓まいりもせずに、、、、、、