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#1 帰り道は遠回りしたくなる

〇〇:「お疲れ」

井上:「…お疲れ様です」


後部座席に乗り込んできた女の子は、傍目から見ても元気とは言い難い表情をしている。


〇〇:「なんか凹んでない?」

井上:「だって…」


井上和。

整った顔立ち、華やかな雰囲気。

街を歩いていればきっと多くの人が振り返るだろう。そのビジュアルの完成度はお披露目の動画が公開されるなり大きな反響を呼び、前回のシングルでは選抜入りを果たし、この日、今回のシングルで初めて表題曲のセンターを務めることが告げられていた。


井上:「…私に出来ると思いますか?」

〇〇:「…もし出来ないって言ったら、やめるの?」

井上:「…いじわる」


バックミラー越しの彼女はいじけたように視線を窓の外へと移す。

あまりに仕上がりすぎているその姿は、時折彼女がまだ20歳にも満たない少女であることを忘れさせる。それでも不意に見せる反応や言葉遣いに年相応の女の子であることを思い出す。


〇〇:「ごめんごめん」


ゆっくりとアクセルを踏み、車を走らせ始める。

普段は何人か帰宅路が近いメンバーを乗せ、順々に送り届けていくのだが、選抜発表の日はスタッフも送迎車もタクシーも総出で、各メンバーを個別に送ることも多い。理由は色々あるが、大体は皆が想像する通りだと思う。


〇〇:「乃木中のV撮りに答えてた時は結構落ち着いて話せてたと思ったけど」

井上:「……乃木坂に加入してから、初めて選抜に選んでもらってからも、私ずっといっぱいいっぱいで…」


井上自身が以前ブログで綴った通り、一時期の彼女は目まぐるしく動く環境についていけず、あらゆるものをシャットアウトして自分を守っていた。


井上:「自分のこと日に日に嫌いになって…、それでも先輩も、同期のみんなも大丈夫って励ましてくれて…」


運転しながらでも、震える声で彼女の表情は想像がつく。


井上:「こんなにダメな私でも、応援してるよ、大好きだよって言ってくれるファン人達もいて…。でもそう言ってくれる人達に何も返せない自分がもっと嫌いになっちゃいそうで…」


夢見た場所に立って、浮かれる暇も無く怒涛の日々を過ごすうち、知らず知らずすり減ってく子達は多い。

どれだけの葛藤があっただろう。

どれだけ思い悩み眠れない夜があっただろう。

それは当事者である彼女達にしか分からない。


井上:「それがすごく悔しくて…だから今回センターに立たせてもらえるこの機会に、みんなにちゃんと恩返ししたい。みんなが大丈夫だよって声をかけてくれたから、今もここに立っていられるんだって。みんなが応援してるよ、大好きだよって言ってくれたからここに立たせてもらえたんだよって」


それは彼女が壁にぶつかって、葛藤して、思い悩んで、得た一つの答え。


井上:「…だから一生懸命頑張ろうって、そう思うけど…もしまた何も見たくない、何も聞きたくないってなっちゃったら…って怖くなるんです」


一つの壁を越えて、越えられたからこそ、彼女の前に新しい壁が立ちはだかろうとしている。


センター。


夢破れて、逃げるようにここに来て、

紆余曲折、運営の末端に加わって5.6年。

5期生の加入と共にマネージャーのような立場について約1年半。

そんなアイドル運営という業界の弱卒も弱卒な自分でも、その言葉に宿る重みはわかる。

どんな人気メンバーでも、実力者でも、初めてそこに立つと決まった時、平静でいられなくなる場所。多くの人が喜び以上に、不安にかられる場所。

それでも、アイドルを志すすべての人が思い焦がれる、一つの頂とも言える場所。


〇〇:「…今の井上なら大丈夫なんじゃないかな」


上手く言葉にできるか、わからないけれど。


〇〇:「えっと…役が人を作るって言葉があって。簡単に言うと、役につくとその人は次第に役あった行動を取るようになって、それに見合う人に育ってくってことなんだけど」


できる限り伝えよう。


〇〇:「アイドルになるために生まれてくる子も、センターになるために生まれてくる子も、そうそういないんだよ。普通の女の子だった井上和は乃木坂46っていう立場になった時、初めてぶつかる壁や、葛藤を経て、頼れる先輩や頼もしい仲間達に囲まれて過ごす中で、自分と向き合って、アイドル井上和になったんじゃないかな」


弱い自分も、劣等感も、受け入れて、

足りない部分を仲間と補い合える。


〇〇:「アイドル井上和は自分が負けず嫌いで、不器用で、少し卑屈なことを知って。一緒にいるメンバーやファン、グループを大切したいって思えるようなった人だから、大丈夫なんじゃないかな」


何も見たくない。

何も聞きたくない。

何も話したくない。

そう思う前に、

少しだけ見方を変えてみたらどうだろう。

少しだけ受け取り方を変えてみたらどうだろう。

少しだけ渡し方を変えてみたらどうだろう。

前向きに。ポジティブに。

そうできるんじゃないだろうか。


井上:「…私でいいんですかね」


誰もがセンターを任された時、心に浮かび上がってくる言葉。

責任やプレッシャーに飲み込まれそうな時、口からこぼれ出る言葉。

負けず嫌いで、不器用で、少し卑屈な女の子が、この言葉を口にするのにどれだけの勇気が必要だっただろう。


〇〇:「これは秋元センセに聞いたわけでも、今野さんに教えてもらったわけでもない個人的な持論なんだけど、センターに選ばれる人は“変える力を持った人”なんだと思う」

井上:「変える力…」

〇〇:「例えば新しい風として、グループに変化もたらす人とも言えるけど」


女性グループアイドルは解散するよりも、核になる部分を変えること無く、世代交代を繰り返して存続することが多い。長く人気を獲得していくには絶対に避けて通れない課題。

そのために日々、逸材を、原石を見出し、育てていく。古参のファンの期待を裏切らないように、それでいて、新たなファンを迎えるために、グループは常に変化し続けている。


〇〇:「でもそれ以上に、毎日に疲れてへとへとになって帰ってきても、センターで輝いてるその子を見たら、明日も頑張ろって思えるようになったりとか、一緒に歌って踊る仲間達が、その子の姿を見て、自分もセンターに立てばこんなふうに輝けるかなって憧れて頑張れたり。そういう心に変化をもたらせる人が、センターに選ばれるんだと思う」


そして


〇〇:「いつかの井上が感じた、自分もこのグループに入りたい。このグループに入れたら、何か変わるかもしれないって思った瞬間を、今度は井上が、いつか来る未来の後輩達に与えてあげてくれたら、それ以上のグループへの恩返しはないと思うよ」


それは


〇〇:「耳を塞いで、目を閉じるしかできなかった日々も、アイドル井上和に変わるために必要な時間だったんだと思う。だから今回も今すぐセンター井上和になる必要はないと思う。先輩に手を引いてもらって、同期に背を押してもらって、センターにしか見えない景色を見てみてほしい」



いつかきっと来る日への備え。


〇〇:「そうやって変われた井上だから、任されたんだよ、きっと。誰かを変えることが出来るのは、まず自分自身を変えることが出来る人だから」


先輩達が卒業し、彼女達が先輩となり、グループの中核を担うようになるその日への。



井上:「でも、また私、変わるためにいっぱいいっぱいになっちゃうかも」

〇〇:「それで自分を責めてしまうことは良くないけど、いっぱいいっぱいになることは別に悪いことではないんじゃないかな。必死も、無我夢中も、いっぱいいっぱいもカッコ悪くなんかないし、恥ずかしいことでもない。むしろその懸命さが、人を心打つんだと思う」

井上:「懸命さが、人の心を打つ…」


繰り返されるとちょっと恥ずかしいんだけど


〇〇:「だって井上、遠藤がいっぱいいっぱいになってても、カッコ悪いなんて思わないでしょ」

井上:「いや、それはむしろ可愛いです」

〇〇:「笑 やっと普段の井上だわ」

井上:「ちょっと!それだと普段から私気持ち悪いやつみたいじゃないですか!」

〇〇:「そこまで言ってないわ笑」

井上:「笑 …最近思うんですけど、〇〇さんって結構ポエマーですよね」

〇〇:「おい!いい感じに話がまとまろうとしてたのに、深く刺して来るんじゃないよ!」

井上:「笑」


今日初めて、屈託なく笑う顔を見た気がする。



泣いて、笑って、疲れたのか、程なく井上は眠ってしまった。


どれだけ言葉を尽くそうとも、彼女たちの不安をすべて拭い去ることは出来ないだろう。

どれだけ時間を共にしても、志を同じくするメンバー達ほど同じ目線に立つことは出来ないだろう。

どれだけ褒め称えようとも、ステージで浴びるファンからの歓声以上に彼女達を肯定するものはないだろう。


それでも真摯に、向き合っていこう。

この子達が少しでも健やかにあれるように。

少しでも強く輝けるように。

精一杯出来ることをしよう。

坂道の途中で、上ることを諦めてしまった自分だけど、そんな自分だからこそ、今坂道を懸命に上るこの子達の力になろう。


少しだけアクセルを緩め、可能な限り、静かに運転する。家につくまでの、僅かな時間に過ぎないけれど。

それでもその時間くらいは穏やかに眠っていられるように。


〇〇:「帰り道は遠回りしたくなるって、こういう時にも思ったりするんだなぁ…」





帰り道は遠回りしたくなる END

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