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踊る La Vie en Rose.#2 二束三文のプライド。

???「やっと帰ってきた」
✕✕「…まだ起きてたんかよ。さっさと寝ろ」
???「またボコボコじゃん…。みんな心配してるよ…」
✕✕「俺が弱いからしょうがない」
???「…そんなに殴られてたら、強くなる前におかしくなっちゃうよ」
✕✕「人の心配してる場合か?お前はどうなんだよ」
???「…頑張ってるよ。…今んとこ、箸にも棒にもかかんないけど…」
✕✕「…お互い才能がねぇなぁ」
???「そんなの、まだわかんないじゃん」
✕✕「あればもう芽ぐらい出ててもいいんじゃねーの?」
???「まだ私達中学生だよ?」
✕✕「だったら心配ばっかすんな」
???「……でもさ」
✕✕「今更引けるか。ここで引いたら殴られ損だ」
???「…せめて早く帰ってきなよ」
✕✕「こんなボコボコの面見せたら、それこそみんな心配するだろうが…。…それに」
???「それに?」
✕✕「……下の奴らにカッコがつかん」
???「……結局それじゃん笑」


中学の途中からボクシングを始めた。
喧嘩っぱやい俺の話をどっからか聞きつけて、とあるボクシングジムの会長が直接話をしに来た。
漫画みたいなことがあるんだな。そう思った。
けど、現実は漫画みたいにうまくは進んでいかないもんだ。

とにかく殴られた。
当たり前だ。
俺はただ喧嘩っぱやいだけの素人で。
研鑽を積んできた奴らにかなうわけもない。
練習で殴られ、スパーで殴られ、試合で殴られ。
しょっちゅう顔を腫らしてた。
施設に帰ると皆が心配するから、なるだけ遅く帰るためにも、風呂で痣だらけの身体を見せずに済ませるためにも、近所の風呂屋に通うようになった。

割とすぐに気づいた。
俺に求められている役割は“噛ませ犬”なんだと。
ジムの連中に自信付けさせるため、格上の強さを鮮やかに演出するためのサンドバッグ。
施設育ちの、喧嘩自慢の不良モドキ。
鍛えられたプロを目指す奴らにとって、それを応援する連中にとって、それはそれは都合のいい噛ませ犬だったろう。
勘違いした馬鹿に思い知らせてやる。
そんな大義名分に心躍ったことだろう。
そういう気持ちは俺にも分かるから。

痛いのは嫌いだ。

今も昔も変わらない。
だから、殴られるのも嫌いだ。
殴られないために、考えないといけなかった。

とにかく身体を動かした。
思い通り、寸分違わず、思いのままに自分の身体を操る必要があった。避けるために、躱すために。

とにかく相手を見た。
どうしたいのか、どうしようとしてるのか、相手の意図を汲み取る必要があった。見切るために、見定めるために。

顔を腫らせる機会は随分減った。
けど、それでは勝てないことも分かった。
ボクシングは避けた奴の勝ちではないから。
当てた方の、倒した方の勝ちだから。
けど、そこまで来た俺にとって、それはそんなに難しいことじゃなかった。

どこに当たれば痛いのか。
どこに当たれば苦しいのか。
どこに当たれば動けないのか。
どこに当たれば危ないのか。

もう知ってたから。
散々、身に沁みているから。

それに、俺の身体は既に十分、俺の狙い通りに拳を打ちこめる程度には、仕上がっていたから。

高校に入る頃、髪を坊主した。
どれだけ鍛えても髪は操れない。
俺の身体に、俺の意にそぐわないものは必要ない。

スパーや試合で頭に拳が掠める度、そのラインに剃り込みを入れた。明確にしたかったから。
自分のミスを、甘えを、弱さを。

プロのライセンスを取る頃には俺を“噛ませ犬”と呼ぶ奴は居なくなった。
かわりに、格上だろうが格下だろうが、誰彼構わず噛み付くやつ。“狂犬”と呼ばれるようになった。

〜〜〜〜〜

規則正しい呼吸を意識しながら、俺は久方ぶりにランニングをしている。
ボクシングを始めてから、ボコボコの面を見せないために、風呂屋に通って遅くに帰り、ランニングをするために早く出るようになった。
引退して、現場のバイトを始めた頃から走らなくなった。必要もない気がしたから。
筋肉はそう衰えていない気もするが、持久力が落ちた気がする。バランスが変わったんだろう。
身体の使い方も一段下手になった気がする。
気がした。気がする。気がする。
神経質になっている。
あの頃もそんな感じだった。
ちょっとでも何かが狂うと、思ったとおり動けないような気がして不安になった。
刺々しく、ピリピリとしていた。
そのくらい張り詰めていないと、あっという間に転げ落ちてしまいそうだったから。

呼吸を整えるように、立ち止まる。

あの頃と同じルート。
これは意識しなくても覚えている。
確認するまでもなく正確に。

櫻ビルディング。
Bar La Vie en Roseが入っているビル。勿論今はシャッターが閉じられ、看板も出ていない。
数時間後にはまたここを訪れることになる。
客でもスタッフでもない、何かとして。
どうなるかは分からない。
ああ言ってはもらったが、実際に手伝えるかどうかはあの人の一存では決まらないだろう。

再び俺は走り出す。
すぐ近くの公園…とは名ばかりの空き地のようなスペースが目に入る。何にもないから、誰もいない。
ただ、俺の記憶にはいつもそこに、あの人がいた。
声をかけたことは一度もない。
なんとなくマナー違反な気がしたから。
別にそれでよかった。
話がしたかったわけでもないし。
ただ、その姿を見るのが日課のようになってた。

〜〜〜〜〜

村山「…で?なんでこんな時間?」

俺はランニングでかいた汗を流しに、開店すぐの風呂屋に来ている。さっぱりして、いつどおりマッサージチェアに座って洗濯の乾燥待ち。
前日夜にも来ているのでなかなか贅沢だ。
しかし予想外な事に、受付には村山が座っていた。

✕✕「…お前こそなんで平日のこんな真っ昼間にいるわけ?大学は?」
村山「今日はたまたま講義がないから…」
✕✕「あっ、そう」

大学のシステムなんて全くわからんが、そういう日もあんのね。

村山「で?」
✕✕「…で?」
村山「なんでこんな時間に来てんのって」
✕✕「あぁ…、走って汗かいたから」
村山「……終わり?」
✕✕「終わり」

あからさまに納得のいってなさそうな村山。
とは言え、実際そうなんだからしょうがない。

村山「……夜は?バイト入れてんの?」
✕✕「入れてない。から夜は来ない」
村山「…あっそ」
✕✕「だから……無駄な心配はすんな」
村山「……別にしないし」
✕✕「…さいですか」

細かい話をするか、少し悩んだ。
言えることも別にないかとすぐ気づく。
まだ何も決まっていない宙ぶらりんだから。

心配するな。か。

我ながら馬鹿だなと思う。
何様だろう。
心配させるようなことしてるのはお前だろ。

乾燥機のアラームが鳴った。
立ち上がって衣類を回収する。

✕✕「…村山」
村山「…なに」
✕✕「……お前普段何時からここ入ってんの」
村山「…急になに」
✕✕「いいから…」
村山「…16時か17時くらい」
✕✕「わかった」
村山「…こっちはなんにもわかんないんだけど」 
✕✕「ま、そのうちわかる」
村山「…今わかるように説明する気はないわけね」
✕✕「あぁ言えばこういうやつ…」
村山「あんたにだけは言われたくない」 
✕✕「…じゃ、また来るわ」
村山「はいはい…」

次ここに来る時、俺は何者になっているのだろう。

何もないボロアパートに戻ったが、指定の時間まで特にやるべきこともない。ただただぼんやりと床に寝転がって、天井を眺める。
何が待ち受けているのかわからない以上、考えても仕方がない。当たって砕けるならそれまでのこと。
俺は少しの間目を閉じることにした。

〜〜〜〜〜


渡邉「来たね」

✕✕「どうも」

渡邉さんはここのオーナーにあたる人。
俺が始めて来た頃には、カウンターに立ってる事もあったけど最近はほぼそういった姿は見ない。

渡邉「由依から話は聞いてる。上で話そっか」
✕✕「はい」

ちらりと店内を伺う。
土生さんは目が合うと、いつもどおりにこりと笑ってくれる。小林さんは挨拶なのか激励なのか、軽く手を上げる。他の人達の姿は見えない。
買い出しなのか、裏に引っ込んでいるのか。
まぁ、気にしてもしょうがない。
渡邉さんについていく。
バックヤードに入ると、おそらく倉庫になっているのだろうスペースと、2階に上がるための階段が目に入る。

渡邉「ちょっと急だから気をつけて」
✕✕「あっ、はい」
渡邉「……お待たせ、来たよ」

誰かが待機してたんだろう。2階の扉を開けると、渡邉さんは部屋の中へそう声を掛ける。


部屋の中に入ると女性が一人、向い合せのソファの一角に座っている。

???「こんにちは。……こんばんはかな?」
渡邉「……どっちでもいいんじゃない?笑」

初めて会う人、だと思う。
ただ…なんだろ、変な空気。

???「え〜っと、何から始めたらいいかな!?」
渡邉「落ち着いて。とりあえず自己紹介したら?」
???「あぁ、そうだった!」 

無も知らぬ人は立ち上がると、上品に頭を下げる。

菅井「初めまして、菅井友香です」
✕✕「…どうも、✕✕です」

なんというか、今までの人生で接したことないタイプの人間だと、立ち振舞で分かる気がする。
別の世界の住人と言うか、周辺の空気感が違う。

渡邉「そっち座って」

渡邉さんは菅井さんの隣に座り、向かいのソファを俺に勧める。俺は勧められるまま着席。

渡邉「じゃあ、改めて。Bar La Vie en Roseのオーナー、渡邉理佐です。こっちの菅井は共同経営者と言うか、共同出資者というか…」
菅井「運営にはほとんど関わってないけど、一応名目上はそうなってます」

形式的な挨拶。
社会人としての立ち回り。
でも、今日来たのはそういうことではない。
お互いに分かってること。
けど、必要なこと。
お互いに一人の責任を負うものであるということを、明確にするための儀式。

渡邉「さて…、じゃあ早速だけど、簡単でいいから経歴を教えてくれる?」  

まるで面接みたいだな。

✕✕「高卒の職歴無しです」
渡邉「あ〜、ごめんごめん。言い方が悪かった。どう生きてきたかを教えて」
✕✕「…どう生きてきた?」
菅井「どういう仕事をして生きてきたかじゃなくて、どんな生き方をしてきたかを教えてほしいの」

どんな生き方。
変に取り繕ってもしょうがない気がした。
もちろん最初からそんなつもりはないけど。
なんというか、ここで意地や見栄を張ったところで、意味がない気がした。

✕✕「……物心ついた頃から両親はいません。養護施設育ちです」

話してなんになるかは知らない。
けれど隠すようなことでもない。
事実で、現実だから。

✕✕「小学校の頃から喧嘩っ早くて、だからってわけじゃないけど中学でボクシングを始めました。高校でライセンスを取得して、一応プロとしてデビューもしました」

一刻も早く、独り立ちしたかった。
1人で立てると、証明したかった。
施設が嫌だったわけじゃないけれど。

✕✕「17で新人王…、まぁそのまんま、新人で一番強いやつを決める大会みたいなもんだと思ってください。その大会で西日本の代表に勝って、優勝。日本ランキングに乗って何戦かやって…」

今になっても、この話は息が詰まる。
息苦しくなる。心苦しくなる。

✕✕「試合で右の拳を骨折して、引退しました」
渡邉「…一度やっちゃうと、もう試合には出れないの?」
✕✕「…いえ、俺の場合は完治しても、人を殴れなくなりました」 
菅井「…それは」
✕✕「…痛むんです。殴ろうとすると」

殴るために拳を固めようとすると、発する痛み。
どこにも異常はないのに、発する幻痛。

✕✕「…もう痛い思いをしたくないのか、無意識にかばう気持ちがあるのか。とにかく、ボクサーとしての俺はその時死にました」

いっそ試合で死ねたなら。
いや、ないな。
そんな痛い思いもしたくない。
…でも華々しく散れたなら、なにも難しく考えることもなかったかもしれない。

✕✕「…それからは日銭を稼いで、その日暮らしです。…こんなもんすかね」
渡邉「…じゃあ、次の質問」
✕✕「どうぞ」 
渡邉「…どうしてあの子だったの?」
✕✕「…あの子?」
渡邉「小林由依」
✕✕「…どうしてって言うのは?」
渡邉「なんで、あの子の頼みを聞こうと思ったの?自分の人生に関わる選択でしょ?」

確かに、普通なら二つ返事で受ける事ではないと思う。生活がかかることだ。未来に関わることだ。

渡邉「…別にただ惚れてるとかならまだ納得いくけどね。他人の趣味嗜好に口出すつもりもないし」

けどね、と渡邉さんは前置きする。

渡邉「……義理堅いっていうかさ、何かと面倒を背負い込むの、あの子はさ」

渡邉さんと小林さんの付き合いがどれくらいなのか俺には分からない。けれど、そう言う渡邉さんの表情には複雑な色が滲む。
長い付き合いなのか、深い付き合いなのか。
そう想像させるには、十分な顔だった。

渡邉「理由よっては、私は止めなきゃいけない。面倒が舞い込むのも、あの子が何かを背負い込むのも。…だから教えて。貴方が自分の人生の一端をかけてでもあの子を手伝う理由を」

言い回しに冗談めいた言葉を混ぜながら、それでも真剣なことは伝わってくる。だからなのか、俺も素直に腹を割って話さなくてはと、自然にそう思ってしまう。真剣に向き合われると、こちらも真剣に向き合わなくては…。そう思わされてしまうだろう。

✕✕「…ボクシングを始めたての頃、直ぐに自分には才能なんてないんだと実感しました」

毎日ボコボコに殴られて。“あいつ”にも、互いに才能がないと冗談めかして言って。
そうやって口に出して、自虐ネタにでもしなけりゃ心が折れそうだった。

✕✕「施設で先生や他の連中に見られると、心配される…。心配されればされるだけ、お前には無理だ。もうやめておけって言われてる気がして、なるだけ顔をあわせないようにしました」

被害妄想も甚だしい。

✕✕「夜は遅く帰って、朝は早くから走りに出るようにして…」

脳裏に浮かぶ。
この店が入っている櫻ビルディング。
そして直ぐ側の空き地。
そこに立つあの人。

✕✕「…毎朝、見るんす。あの人を」

空き地で、1人黙々と練習する姿。

✕✕「毎朝毎朝、水の入ったペットボトルでパフォーマンスの練習して。…何がそうさせるんだか」

本人がどう思ってるかは知らない。
どういう思いを持ってそうするのかも知らない。
けれど俺の目には、あの人は十分“持って生まれた”人のように思える。

✕✕「……戦っているのは俺だけじゃないって、そう思えました。1人ではあっても、孤独ではないんだって…。勝手にそう思いました。…この世界で手に入れたいものがあるなら、どんなに持って生まれたように見える人でも、戦うんだって」

ならば。

✕✕「何も持ってない俺は、もっと頑張るしかない。人よりも多くの戦いを越えていかなきゃいけない」

勇気をもらったとか、元気をもらったとか、色々いい方はあると思うけど。
誰だって一緒なんだ。
勝ち取るために戦うってことは。
そのために一つ一つ積み上げていくってことは。

✕✕「結局俺は最後まで戦えなかったけど、あの人はまだ戦う意思も、手段もあって、その手伝いが出来るんなら、それも悪くないなって思ったんです」

終わるにしても、続けるにしても、あの人の挑戦を見届けてからでも遅くはないだろう。

✕✕「そうやって勝手に感じてたもんの恩が返せるんなら、乗ってもいいかなって。あの人の口車にね」

自分勝手な妄想かもしれない。
けど、それが全て。

✕✕「そんだけです。たったそんだけ」 
渡邉「……」
菅井「……」

沈黙。
まぁ、せざるを得ないだろう。

渡邉「最後にひとつだけ」

渡邉さんはまっすぐ俺の目を見る。

渡邉「…もうボクシングは出来ないにしても、新人王っていう成績を出すくらいに打ち込んで、積み上げてきて、今更ゼロから始めることに抵抗はないの?それだけの結果を出して、今更女ばかりの場所で、一番下っ端だよ? プライドとかさ…」
✕✕「…とっくの昔に生ゴミですよ、そんな二束三文のプライドは」
渡邉「…わかった」

渡邉さんはそう言って立ち上がる。

渡邉「私が聞きたいことは全部聞けた。後はゆっかー…、菅井が少し話したいらしいから、終わったら降りてきて」
✕✕「…わかりました」
菅井「ありがとね」
渡邉「どういたしまして」

そう言って渡邉さんは部屋を出ていった。

菅井「…さて!」

わかりやすく、そしてわざとらしく仕切り直す菅井さん。

菅井「私からも聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」
✕✕「どうぞ」

今更、断る理由もない。

菅井「…今も施設に住んでるの?」
✕✕✕「いえ、もう出てます。基本は満18で出るので。場合によっては満20までいれますけど、俺はボクシングで大成出来る出来ない関係なく、18で出るつもりだったので」 
菅井「…それはどうして?」
✕✕「…自由になりたかったから」
菅井「…ルールが厳しかったとか?」
✕✕「あぁ、いえ…。その…、自分に由っていたかったから」
菅井「…自分に由る」
✕✕「はい…。何があっても、どういう状況になっても、それは自分に原因があって、自分の責任だって。そうありたかった」

苦々しい気持ち。

✕✕「俺が悪くて、俺が怒られるのは分かります。けど、俺が悪いのは両親がいないからだとか、施設の先生が悪いからだとか、そんな環境だからだとか。そう言われることが納得出来なかった」
菅井「……」
✕✕「俺の決定を蔑ろにされてる気がして。勿論は影響は受けてると思います。親がいないこと、施設の先生の教育、周囲の環境。それはもちろんあるけど、でも最終的に決めたのは俺です。俺の決定です。それを無視して、まるで周りにそうしろと言われたかのように扱われるのは嫌だった」

誰のせいでもなく、俺のせいでありたい。
他人におもねることなく、俺に依っていたい。

✕✕「俺なんです。俺を動かす最後の決定権があるのは。俺は俺の足で立ちたい。俺の足で歩きたい。道に迷っても、その時指し示された道を行くかどうかは、俺が決めたい」

だから、あの人に引っ張り込まれたわけじゃない。
俺は俺の意思で、あの人の手伝いをすると決めた。

✕✕「だからこの先、後悔することがあっても、それは小林さんのせいじゃなくて、俺が選択を間違えたってだけなんです」

そこだけは譲れない。

菅井「う〜ん…」

菅井さんは腕を組んで、これでもかというくらいわかりやすく、何かを考えるポーズ。

菅井「…✕✕くんは、甘えるのが下手なんだね」
✕✕「……?」

ん?
なんの話?

菅井「誰だってね、誰かに甘えて生きてるんだよ。頼ってるっていうほうがわかりやすいかな。
極論だけど…、例えばお腹が空いたからコンビニでおにぎりを買うとするでしょ?稼いでさえいれば、お金を払うだけで食べ物が手に入る。
けど、実際はそのお米をつくる農家さんがいて、それをおにぎりに加工してくれる工場で働く人がいて、運送してくれる人がいて、陳列して販売してくれる人がいて…」

菅井さんはニッコリ笑う。

菅井「生きるっていうのは、それだけで誰かに依ることだと思う。特にこれから✕✕くんが飛び込む世界はね」

理不尽なクレームもある。
それに対応するのは俺とは限らない。
上に立つ人は、そういう時矢面に立つことも仕事の一つだから。そして、俺を誘った小林さんは、それを率先して行うだろうと、菅井さんは言う。

菅井「慣れなきゃいけないよ、甘えることに。頼ることに。依ることにね。もちろんその上でそうさせないために頑張ること自体は素晴らしいことだと思うけどね。…でもそれを常に続けるのは、だめだよ。心も身体もついてこなくなっちゃうから」

お人好しだなと思う。
初めて会う見ず知らずの人間に、こうも親身になって色々話をするなんて。

✕✕「…善処します」
菅井「だね。……じゃあ早速やってみよっか」
✕✕「……え?」

菅井さんは自分を指さす。

菅井「私のことは友香呼びで」
✕✕「……は?」
菅井「だ〜か〜ら〜下の名前で呼んでねって」
✕✕「…なぜ?」
菅井「そのほうが親近感が湧くでしょ?距離が近づいたら、頼った甘えたりとしやすくなると思うよ」
✕✕「…名前呼び位でそうはならんでしょ…」 
菅井「まぁまぁ、騙されたと思って!」

調子狂うなぁ…。
やっぱり別の世界の住人だなぁ…。
とはいえ出資者の機嫌を損ねるのも良くないか…。

✕✕「…わかりましたよ、…友香さん」
菅井「うん!じゃあ、これからよろしくね」

これからよろしく?

✕✕「…え、合格ってことですか?」
菅井「…合格?」
✕✕「えっ?」
菅井「えっ?」
✕✕「…これ、俺が小林さんのお手伝いするのに問題ないかどうかの面接じゃなかったんですか?」
菅井「え、私は次入る子との顔合わせって聞いたけど…」

菅井さんはあっ!という顔をして、

菅井「これもしかして私が言っちゃいけないことだったかな!?」
✕✕「それは俺に聞かれてもわかんないす笑」

愉快な人だ。

✕✕「…わざわざ顔見せのために来たんすか?」
菅井「そうだよ。やっぱり気になるし、新しい仲間には歓迎してるよって伝えたいもん」
✕✕「……面倒見いいんすね」
菅井「これでも学生時代は皆のチャプチェンだったからね」 
✕✕「…チャプチェ?」
菅井「キャプテン!」

あぁ、急に何で食べ物の話になったのかと思った。
しかしチャプチェ笑

✕✕「ククク…カカカ笑」
菅井「えっ、笑い方怖い!」
✕✕「あぁ…すんません笑」

ホント、調子狂うし住む世界が違うけど、 
いい人なんだろうなってのは、わかった気がする。

✕✕「…これからよろしくお願いします、友香さん」
友香「うん、よろしくね。…って言っても私はお店に立つわけじゃないけど笑」
✕✕「そうでした笑」
友香「笑。 …じゃ、行こうか。みんな待ってるだろうし」
✕✕「はい」 

友香さんのあとに続いて階段を降りる。

とりあえず、一歩踏み出せた。
ここからは先は俺次第。
どこまで行けるだろうか。




二束三文のプライド。END.

NEXT.静寂と暴力。







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