喫茶チャイティーヨ エンディングK“痕”
〇〇「ううぅ…」
夏フェス営業から数日、チャイティーヨの定休日である水曜日に、僕は目覚めてから早4時間ほど、布団の上で携帯片手に唸り続けている。
画面も同じく4時間ほど、夏鈴ちゃんへLINEを送信するための画面のままだ。
〇〇「はぁ…」
今日何度目のため息だろう。
…今度のリフレッシュ休暇、これと言って内容は決めていないのだけど、夏鈴ちゃんと過ごしたいな…なんて気持ちが日に日に強くなっている。
キャンプの夜以来、手持ち無沙汰になると、僕の思考には彼女の存在がちらつく。
…私のこと、そういう風に見れますか?
〇〇「はぁ…」
恥ずかしながら、人をデートに誘った経験のない僕は、こういう時にどんな誘い文句を送ればいいのかさっぱりわからない…。
書いては消してを繰り返して4時間…。
…世間の男女はいつもこんなに苦労しているの?
〇〇「…う〜ん」
このままでは永遠に話が進まない。
当たり障りないメッセージを送って、流れでそれとなく予定を聞いてみよう…。
誘い方はそれから考えても遅くない…はず。
〇〇『こんにちは。突然ごめんね。
今日、バイト終わりにでも少し話せないかな?』
さて、これでとりあえず行動しない罪悪感からは逃れられた…。返事が返って来るまでにゆっくり誘い方を考えよう。
最悪すでに予定が埋まっていたらその時はその時。
…そういう考えがそもそも今のような状況を作り出しているような気もするけど…。ひとまずとか、とりあえずとか、そういうことなかれなぁなぁ主義が。
思えばこんなに人へ話しかける言葉に悩むのは久しぶりかもしれない。
わたあめくらい軽い感じ。
シンプルで、深くも重くもない。ただ甘いそれ。
それくらいのノリと言葉なら、毒にも薬もならないだろうって、そう思ってた。
それくらいの人間なら、深く踏み込まれることも、強く拒絶されることもないだろうって。
中途半端な距離感でふわふわとしていたい。
近すぎると見たくないものも、
見せたくないものも、
はっきり見えてしまいそうだから。
そう思ってた。
そんな事を考えていると、携帯が震える。
夏鈴『話したいです』
もう返事が来ると思ってなかったから、少しびっくりしてしまう。
とはいえ早く返事は返さないと。
〇〇『今日は何時までバイトかな?』
送信したメッセージにすぐ既読がつく。
夏鈴『少し前から水曜日はお休みにしてもらってるので、学校終わったらで大丈夫です』
〇〇「えっ…」
これは、もしかしたら自惚れなのかもしれないけど、お休みを僕に合わせてくれていたりするんだろうか…。飛躍し過ぎかな…?
布団の上で僕はまた唸る。
いやいや、こんな事してる場合じゃない、返事返さないと。
〇〇『じゃあ学校が終わったら、電話とか出来るかな?』
送信しようとして、親指が彷徨う。
少し悩んで、もう一文追加しておく。
〇〇『声、聞きたいなって』
打ち込んで、恥ずかしさというか、何とも言えない感情が湧いてくる。
既読はすぐついたけど、中々返事が返ってこない。
なんか失敗しちゃったかな…。
不安だけど、ずっとこうしてるわけにもいかない。
携帯を手に上半身を起こす。
お茶を淹れて、昼ごはんを食べよう…。
お腹が空いてると考えもマイナスになってしまう。
立ち上がって、キッチンへ向かおうとしたタイミングで携帯が震えた。
すこーしだけ緊張しつつ、返ってきたメッセージを確認する。
夏鈴『出来れば、会いたいです』
僕はその場で膝から崩れ落ちた。
素直に落ち込む。
何故僕はその一言が言えなかったんだろう。
そりゃあ会いたい。
会って話がしたい。
顔を見て、目を見て、表情を見て。
でも、僕はその一言が言い出せない。
夏鈴ちゃんだって、きっとその言葉をサラリと出せたわけじゃない。あの間がいい証拠だ。
情けないのが、これでも僕としては結構勇気を出したほうだって事。面倒をかけたらどうしようとか、断られたらどうしようとか、相手の都合を考えているのかとか、そんなことばかり考えて行動に移せないことが多々ある。
いい加減、そんな自分を変えたい。
自分がそんなふうに思ってもらえるなんて、考えたことなかった。
あのキャンプの夜、夏鈴ちゃんはあんなに勇気を出して行動してくれたのに。僕は未だに想われる事に向き合えていない気がする。
なぜ恋をしてこなかったんだろう。
もし人並みに誰かを好きになったり、
誰かに好きになってもらっていたら、
もう少し好意に甘えたり、
甘えられたりしたんだろうか。
今更言った所で何にもなりはしないのに。
せめてもらった言葉には素直にならないと。
僕は携帯を操作して、返事を打ち込む。
〇〇『僕も会いたい。
ごめんね、こっちから言えばよかったんだけど』
そこまで打って、少し悩んで、文を修正する。
〇〇『僕も会いたい。
どこか行きたいところはある?
学校が終わる頃、迎えに行くよ』
僕は返事も待たずに洗面所へ向かう。
顔を洗って、しっかり準備して、
夏鈴ちゃんに会いに行こう。
〜〜〜〜〜
免許を取ってしばらく、安く手に入る軽自動車を探していたんだけど、自分一人で移動するのに車っていうのも大仰だなぁと思うことがしばしばあり、尚且つ大人数での移動ならチャイティーヨ号があるしなぁ…ということが重なり、僕は普通免許で乗れる3輪バイク、所謂トライクを購入した。
わざわざ二輪の免許を取らなくていいし、維持費も車よりは安いし、乗り心地も悪くない。
ただ、こんな風に人を迎えに行くようなことがあるなら車にしておけばよかったかな…。
僕は南美の校門近くにトライクを停めて待機。
今日の最後の講義が終わったそうなので、生徒達がパラパラと外に出てくる。そのうち夏鈴ちゃんも出てくるだろう。
しかし、目立つね…。
南美は女子と男子の比率が偏ってて、7割が女子生徒だそうな。そりゃそんなトコに3輪バイクで乗り付ける男がいたらみんな見るよね…。
夏鈴「〇〇さん」
校門から出てきた夏鈴ちゃんが、僕に気づいて手を振る。
〇〇「あぁ、夏鈴ちゃ…」
天「あ、〇〇さんだ」
アルノ「えっ、ホントだ」
ひかる「…おやぁ?」
夏鈴ちゃんの後ろから、続々と見慣れた顔が現れる。そりゃみんなおんなじ学校だし、一緒に行動するよね。いや、別にいいんだけど。
天「おー!バイク…。バイク?」
アルノ「そういえばたまーに乗ってますね」
ひかる「……」
ひかるはチラチラと夏鈴ちゃんに視線を送ってる。
夏鈴「…じゃあ、私達はここで」
夏鈴ちゃんは皆から離れて僕の隣に並ぶ。
天・アルノ「…え?」
キョトンとする天ちゃんとアルノ。
夏鈴「…行きましょう」
〇〇「あっ、うん。じゃあ、これ…」
僕はヘルメットを夏鈴ちゃんに渡す。
夏鈴「ありがとうございます」
夏鈴ちゃんは受け取ると、直ぐに装着。
〇〇「ちょっとごめんね」
僕は夏鈴ちゃんのヘルメット横のインカムを操作。
僕自身もメットとインカムを装備。
〇〇「聞こえる?」
夏鈴ちゃんはコクコクと頷く。
僕はトライクに跨ると、夏鈴ちゃんも後ろに。
〇〇「え〜っと…、じゃあおつかれ」
僕は未だキョトンとしている天ちゃんアルノと、ニヤニヤするひかるに挨拶する。夏鈴ちゃんも3人に手を振ると、僕を後ろから抱きしめるようにギュッとしがみつく。
…ちょっとドキドキしてしまう。
なんだかちょっと大胆というか。
緊張しつつもゆっくりと発進。
くれぐれも安全運転を心がけよう。
〜〜〜〜〜
天「え〜と…、もしかして、そゆこと?」
アルノ「か…、かなぁ?」
〇〇さん達を見送った後、天ちゃんとアルノちゃんは驚いたように言う。
天「いつの間に〜…?」
アルノ「わ、わかんない…」
お互いに勇気を出したのかな。
なんて一体誰目線なことを思いつつ、私はついニヤニヤとしてしまう。
天「…な〜にニヤニヤしてんの」
ひかる「えっ?」
アルノ「…ふ〜ん?」
2人は私の両脇に立つと、ガッと私の腕を掴む。
天「これはくわしく聞く必要があるね」
アルノ「だね」
ひかる「えぇ〜?」
私は2人に連行されるように、引っ張られる。
一体なんて説明すればいいのやら。
私だって、直接聞いたわけじゃないんだけど…?
〜〜〜〜〜
海に行きたいです。
今年は結局、一度も行けなかったから。
夏鈴ちゃんの希望に沿って、僕らは海を目指す。
夏鈴「思ったより快適です」
〇〇「そりゃよかった」
夏の暑さも鳴りを潜め、風を切って走るこの感覚が気持ちのいい頃合いになって来た。
二輪と違って立ちゴケの心配もないし、すり抜けたりバイクらしい小回りは効かないかもしれないけど、僕としては結構トライクの安定感は乗っていて素直に楽しめる。
〇〇「あ〜、あのね夏鈴ちゃん」
夏鈴「はい?」
〇〇「ごめんね、学校に迎えになんて行ったらあぁなっちゃうよね…」
きっと明日以降、アルノ達に色々聞かれるだろうし、からかわれるかもしれない。学校に通ってる他の人にも、何か言われたりするかも。
浮足立って、配慮にかけた行動だったかな。
夏鈴「……です」
〇〇「え、ごめん。もう一回言ってくれる?」
うまく聞き取れなかった。
インカムの接続が良くないのかな。
夏鈴「…わざとです」
〇〇「え…」
夏鈴「学校の前まで迎えに来てもらったのも。天ちゃん達と出てきたのも。全部こうなるってわかっててやりました…」
〇〇「……」
どういう意味なんだろう…。
少し考えて、思い至る。
独占欲は強いかもしれないから、
覚悟しててください…。
そういう意味なんだろうか…。
その、なんというか…。
そういうアピールというか…。
夏鈴「…すいません」
〇〇「あっ、いやっ」
僕が黙り込んだからだろうか、夏鈴ちゃんが謝る。
〇〇「違うんだよ。えっと…、なんというか」
どうしても、言葉に詰まってしまう。
いつもはこんなんじゃないのに。
もっといつもみたいに、軽いノリで会話を繋いでいけばいいのに。
〇〇「…あのね」
夏鈴「…はい」
〇〇「…僕はやっぱり未だに誰かに想われるって言うことが良くわかってなくて…」
正解はわからないけど。
ただ素直に言葉にしてみよう。
怖いけれど、怯えはあるけど。
勇気を出してくれている夏鈴ちゃんに応えるためにも、僕も勇気を出さないと。
〇〇「けどね。ドキドキしてる。すごく。その…、夏鈴ちゃんがそういう行動を取ろうって思うくらい。
…僕のことを想ってくれているのかなって」
自惚れかもしれない。
自己陶酔かもしれない。
浮かれポンチもいいとこ。
顔が熱い。
言ってて恥ずかしくなる。
けど、それが素直な気持ち。
夏鈴「…気づいてないだけで、たくさん想われてると思いますよ」
ちょっと拗ねたような声で言う夏鈴ちゃん。
〇〇「…もしそうだったとしても、気づかなかったし、気づかせてくれたのは夏鈴ちゃんだから」
夏鈴「……」
返事は返ってこないけど、僕にしがみつく力加減で、気持ちは伝わってくる気がした。
〇〇「あ、そう言えば」
余計な情報かもしれない。
カッコつけたいい回しかもしれない。
でも、できる範囲で、素直になろう。
〇〇「人を乗せて走るのは初めてだから、何か不都合があったらごめんね」
夏鈴「……」
やっぱり返事はないけど、僕の服をギュッと握りしめる夏鈴ちゃんから、気持ちは伝わってくる。
言葉も交わすことなく、気持ちがわかるだなんて思うのは傲慢だろうか。
それでも、君は特別だって伝わってると信じる。
僕は僕を好きになれない。
あの日から。
全部無くして、逃げ出して、
夏鈴ちゃんとも会わなくなったあの日から。
ずっと。
私は、私が素敵だと思った物を嫌いって言われて、いい気しないです。
しばらく会って無かったアルノが、初めてチャイティーヨに来た日に僕に言った言葉。
確かにな…。そう思った。
だから、好きになれなくても、少なくとも嫌いになるようなことはしたくない。
それに、これだけ想ってくれる人がいるなら、そんな自分のことも、少しぐらい認められる気がする。
そうしてるうちに海岸線に出た。
〇〇「風強くなるから、しっかり捕まっててね」
僕のことを想ってくれる君には、こんな情けない自分でもカッコつけたくなる。だって君には、僕のことをカッコいいと思ってて欲しいから。
見栄でもなんでも張るから、やっぱり素敵だなって思っててほしいんだ。
君には。
君にだけは、そう想ってて欲しいんだ。
〜〜〜〜〜
〇〇「到着。足元気をつけてね」
夏鈴「はい、ありがとうございます」
僕らはおおよそ季節外れの海水浴を楽しもうなんて人がいない場所へやってきた。
足元は砂浜ではなく石がごろごろとした砂利浜。
ここなら水遊びに興じる人も少ないだろう。
夏鈴「…綺麗ですね」
〇〇「うん…」
気の利いたことがなんにも言えない。
本当は言いたい。
洒落た言葉や耳馴染みのいい言葉。
会話が弾むような話題。
でも、今はそういう時じゃないような気もしてる。
ただ、黙って海を見てる夏鈴ちゃんの横顔。
眼前に広がる海より、僕はその横顔を見ていたい。
そんな単純な想いが、僕から言葉も、それを思考する余白も奪っていく。
僕の視線に気づいた夏鈴ちゃんが、ぷいっとそっぽを向く。
夏鈴「…なんですか」
〇〇「……なんだろうね」
言葉に出来ない何かを、人に伝えるためにはどうすればいいんだろう。僕はダンスで感情を表すことはできないから、行動で示そう。
すぐ隣にいる夏鈴ちゃんの手を握る。
一瞬、驚いたようにビクッとしたけど、彼女はそれを拒むことなく受け入れてくれる。
〇〇「夏鈴ちゃん」
夏鈴「…はい」
僕らは海を眺めながら話す。
〇〇「今度、リフレッシュ休暇があってね。どうも僕は休日の過ごし方が下手でさ」
いついつからいついつまで。
と日取りを告げる。
不思議と何故か、あんなに悩んでいたことが、するりと口をついて出てくる。
それでもやっぱり、最後の一言は、躊躇いというか、なんというか、スムーズに出てこない。
〇〇「…良かったら、一緒に過ごしたい」
絞り出した言葉も、本当に当たり障りのない言葉。
夏鈴「…温泉、行きたいです」
返ってきた言葉は、正直意外なものだった。
〇〇「…温泉」
夏鈴「…だめですか?」
〇〇「ううん、意外だなって思っただけ笑」
夏鈴「……」
どことなくムスッとした様子の夏鈴ちゃん。
〇〇「ごめんって」
夏鈴「……で、行くんですか、行かないんですか」
〇〇「もちろん行くよ。喜んで」
夏鈴「……」
〇〇「……」
それから僕らはしばらくの間、何も言わずに暮れ始める海を眺めていた。
夏の終わりが近い。
そう思わせる、足の速い夕暮れだった。
〜〜〜〜〜
その日はとてもいい天気で、湿気はさほど感じないものの、夏の残り火のような明るい日差しが趣ある町に降り注いでいた。
〇〇「……」
僕は少しそわそわしながら、彼女の準備を待っている。着慣れない和装がその気持ちをより大きくしているのかもしれない。
せっかくの旅行、温泉旅館が一番のお目当てとしても、少しくらい散策するのもいいだろうと、お宿のチェックインまでの時間をすこし町歩きに興じることにしたんだけど、
〇〇「まさか僕までとは…」
そういう格好の夏鈴ちゃんも見てみたいな。
なんて、半分断られるだろうと思ってした提案に、〇〇さんも着るなら…とまさかの返事が返ってきたので、断るわけにもいかずこのざまである。
夏鈴「…お待たせしました」
夏鈴ちゃんは白っぽい袴姿でお店から出てくる。
〇〇「……」
夏鈴「…何か言ってくださいよ」
珍しくぷくっと頬をふくらませる夏鈴ちゃん。
これまでの僕なら、なにも迷うことなく可愛いとか綺麗とか、素敵だねとかすぐに言えたのに。
〇〇「…すごい、似合ってる」
なんて、言うのが精一杯で。
夏鈴「……」
なにか言えって言った夏鈴ちゃんも、恥ずかしそうに俯いて黙ってしまって。
なんだろう。
良くわからない胸の苦しさに耐えきれなくて、僕は夏鈴ちゃんの手を取って歩きだす。
〇〇「行こう」
ただじっと夏鈴ちゃんを見ていると、僕は何故か気が気じゃなくなってしまう。
どうしちゃったって言うんだろう。
〜〜〜〜〜
夏鈴「…綺麗」
〇〇「うん。天気もいいし、あんまり暑くないし、いい日にこれたね」
僕らはとあるお寺へ。
渡り廊下を歩きながら中庭を眺めると、陽射しが緑を透過して、大地に明るい陽だまりを作ってる。
美しいものを見る時、
人は美しい表情をするものなのかな。
気づけば僕は夏鈴ちゃんの横顔を見つめてる。
そんな僕の視線に気づいて、夏鈴は気恥ずかしそうにそっぽを向く。
そんな事をここしばらく何度も繰り返してる。
〇〇「少し座らない?」
夏鈴「…はい」
縁側に腰を下ろして、僕らは何を言うでもなく、ただぼ〜っと光と緑と庭を眺める。
見つめ合うと、
その顔を見てると、
時々苦しくなるくらい、
ドキドキするのに。
並んで、
隣り合って、
ただぼんやりしてると、
こんなにも心穏やかになる。
矛盾してるけど、
支離滅裂だけど、
それが一番、
今の僕を表すのにしっくりくる。
こんな日々が、関係が、続けばって思ってた。
踏み込みすぎず、踏み込まれすぎず。
中途半端にふわふわと。
でも、今はわかってるんだ。
こんな日々は、なんとなくで続いていかないこと。
今のこの時間も、関係も、夏鈴ちゃんが行動してくれた結果生まれていること、続いていること。
それに甘え続けることに、抵抗を感じている。
あんなに望んでいた居心地のいい停滞に、僕は息苦しさを感じてる。
たくさん言い訳して、目を逸らしていたこと。
そろそろ、ちゃんと見つめ直そう。
体裁よく繕って、僕はちゃんと相手のことを慮っていますよ。なんて外面は置いて。
自分がどうしたいのか。
まず、それに向き合うべきなんだ。
相手がどう思うかは、相手が決めること。
僕は僕に、素直になるべきなんだ。
〜〜〜〜〜
〇〇「せっかく着たけど、結局ほとんどぼ〜っと過ごしちゃったね笑」
夏鈴「そうですね笑」
僕らは結局殆どの時間をぼんやりと並んで過ごすことに費やしてしまって。せっかくの和装も、さして趣ある町並みに映えさせることもなく返却して、それでも何故かある充実感を胸に、夕暮れの川沿いを歩きながら宿へ向かう。
夏鈴「…でも、なんか私達っぽいかなって」
〇〇「確かに、そうなのかも笑」
僕達がいつもワイワイとしているのは、行動力がある友人達や、先輩達の導きのおかげであって、僕達自身は何処にいても、なんにしても、比較的のんびりとしているのかもしれない。
夏鈴「目的は温泉なので」
〇〇「だね」
宿について夏鈴ちゃんがチェックインをしてくれている間、僕は荷物を預かって待機。
この旅は有り難くも申し訳なくもある。
なにせ、私が言い出しっぺなので私が手配します。と夏鈴ちゃんが何から何までやってくれて、僕は後日かかった費用を少し多めに出すだけという、完全なるおまかせ状態なのだ。
夏鈴「…あの」
〇〇「うん?」
夏鈴「…荷物、部屋に運んでくれるらしいので、先にお風呂行きませんか?」
なんとなくソワソワとしているように見える夏鈴ちゃん。
夏鈴「その…、そんなに暑くはなかったですけど、やっぱり汗もかいてますし」
〇〇「うん、それは全然構わないけど」
夏鈴「じゃあ、行きましょう」
僕は荷物をスタッフさんに預けて、夏鈴ちゃんとお風呂へ向かう。
夏鈴「…部屋の鍵、私が持ってるので、先に出ても待っててくださいね」
〇〇「うん」
もちろん待つけど。
なんとなく、夏鈴ちゃんの態度に違和感がある。
とは言え、とりあえずなにはともあれお風呂だ。
もちろん、男湯と女湯は分かれているので、一度ここでお別れ。
まだ時間が早いこともあってか、人は疎ら。
とはいえもうじき混み合ってくる時間なのは想像に難くない。僕は浴衣やタオルを借り、さっさと準備を済ませて浴場へ。
綺麗に頭と全身を洗い、温泉にゆっくりと浸かる。
タオルはもちろん頭の上に。
いつの頃だったか、何故頭の上にタオルを乗せるのか気になって調べたことがある。
一つはタオルを湯につけないルールがあるから。風呂の縁においたり、桶に入れておいたりするのもいいけど、頭の上に置いておけば、忘れて出てしまう心配もないしね。
もう一つはのぼせ、立ち眩みの予防だとか。
冷たいタオルならのぼせ対策に、温かいタオルなら立ち眩みの予防になるそうな。
そんな関係のないことで自分の緊張を紛らわせようと頑張ってるけど、あんまり効果はなさそう。
今日の内に伝えたいことがある。
なぁなぁにしてきたことをちゃんと明確にしたい。
先送りにしてきたことをちゃんと形にしたい。
今の僕の思っていることをちゃんと言葉にしたい。
頭がパンクするんじゃないかってくらいずっとずっと考え続けていることがある。
答えのない問いかもしれない。それでもギリギリまで整理する時間が欲しい。
何を言えばいいんだろう。
なんて言えばいいんだろう。
ずっとそればかり考える内に、考えた所でどうしようもないんじゃないかって思ったりもする。
正解がないなら、正解だと思うものを選ぶしかないし。どんな事にも絶対に明確な理由が必要?
開き直るつもりはないけれど、それが一番納得がいく結論だと思うんだ。
結果がどうあれ、変わるために動くんだ。
そろそろ出ようかなと思い始めた頃、カコーンッカコーンッと音が響く。
あぁ、これ、聞いたことあるな。
周りを見渡すと、皆その音には気づいたみたいだけど、特に反応して動き出す人は居ない。
もし違ったら申し訳ないけれど、誰もしないなら僕がした所で別に迷惑はかからないか。
それになんとなく、そうじゃないかなって気もするんだ。
僕は湯から出て、桶を一つ手に取る。
カコーンッと、一回。
桶を鳴らして浴場を出る。
〜〜〜〜〜
〇〇「…やっぱりそうだった」
夏鈴「…わかりましたか?」
〇〇「うん。浴衣、かわいいね」
夏鈴「…ありがとうございます」
ほとんど同時に暖簾をくぐって僕達は再会する。
湯上がりの浴衣姿に、またドキリとする。
〇〇「何かで聞いたことあったなって」
夏鈴「…映画で観たんです。伝わるとは思ってなかったんですけど、なんとなくやってみたくて」
男女に分かれて銭湯に入る時、出るタイミングを合わせるために、桶で合図をするんだって。
コーンコーンと2度鳴らして、もう出る?と聞く。
相手が一度鳴らすともう出る。
三度鳴らすともう少し入ってる。
いつの頃からあるのかわからない意思伝達の方法。
言葉以外の、コミュニケーション。
夏鈴「…部屋、行きましょうか」
〇〇「うん」
夏鈴ちゃんの後を追ってついた部屋。
夏鈴「どうぞ」
夏鈴ちゃんが鍵を開け、扉まで開いてくれる。
〇〇「ありがとう」
わざわざ開けてもらって申し訳ないなと思いつつ、部屋に入って振り返る。
夏鈴ちゃんの部屋は?
そう聞こうとした僕の視界に、部屋の中に入って、後ろ手に扉を閉じる夏鈴ちゃんが映る。
〇〇「…夏鈴ちゃん?」
夏鈴「…一つしか取ってないんです」
〇〇「え…?」
夏鈴「…部屋、この一つしか取ってないんです」
その表情は、決心と不安。
その2つがないまぜになっていて。
〇〇「…夏鈴ちゃん」
ビクッと、夏鈴ちゃんの体が震える。
どんな言葉が返ってくるのか、不安なんだと思う。
でもそれでも行動するって決心したんだろう。
僕は夏鈴ちゃんの手を取る。
少し、震えてるかもしれない。
それが僕の震えなのか、彼女の震えなのか。
…それは別にどっちでもいいかな。
〇〇「座ろう。話したいことがあるんだ」
夏鈴「……」
迷うように少しの間があって、
弱々しいけど、確かに握り返してくれたから、
僕は彼女の手を引いて、部屋の奥へ。
綺麗な畳の和室だ。
運んでもらった荷物が、丁寧に並べておいてある。
〇〇「ここでいっか」
僕は無造作に畳の床に座り込む。
直ぐ目の前に、夏鈴ちゃんがおずおずと座る。
〇〇「…僕は元々、人付き合いが得意じゃなくって。誰かと何かをしたいって思ったことがほとんどなかったんだよね。毎日なんとなく学校行って、なんとなくクラスメイトと話を合わせて、…孤独じゃないけど、腹を割って話す間柄の友達なんてのもいなくてさ…。学校が終わったらとっとと帰ってギターを弾くか、バンドの動画見たり、音楽聴くばっかりで…。とりあえず、高校に上がったらバイトをしようというのは決めてたけど、そこでもきっとなんとなく話を合わせて、のらりくらりやってくんだろうなって思ってたんだ…」
人との関わり合いに、意味を探してた。
人と関わるために自分を曲げて、何かに迎合までしなきゃいけない意味って?
小学校から中学校に上がる頃くらいからか、男子達は自分のことを指す時、僕から俺に変わって行ったし、女子達は自分のことを指す時、名前から私へと変わっていって、いち早く一人称を変えた子達が、まだ変えていない子達をイジったりすることに違和感を感じたこと、今でも覚えてる。
なんで過去の自分を否定してまで、誰かとの関わりを維持しようとするんだろう。
それがさも当たり前かのように。
なんか、しんどいなって思った。
今となっては可愛げの欠片もない子供だなって思うんだけど、当時の僕はそう言う子供だったんだからしょうがない。
〇〇「けど、チャイティーヨで働くようになって、考え方が結構変わったんだ。人と関わるのも悪くない…。ううん、素直に素敵だなって思える人とは、自分を変えてでも関わっていたいって思うものなんだなって気づいた」
自分を否定してまで周りに気を使わなきゃいけないなんてしんどいなって思って。音楽に傾倒して、そういう世界で自分を自由に表現する人達に憧れて。
自由とか、個性を履き違えてた。
まったく大した道化だ。
〇〇「それがわかった時、自分がちゃんと見ていないだけで、周囲にもたくさん、そういう人達はいるんだって気づいた。そうやって、少しずつだけど、人といるのって、誰かと一緒にいるっていいなって思ったんだ」
チャイティーヨで働いて、飛鳥さんや奈々未さん、さくらさん、美波さんと出会った。美月さん、祐希さん、史緒里さん。蓮加ちゃんや桃さん、麻衣さんやハマさん達とも。
みんな大好きな、尊敬する人達。
高2になって、意を決して軽音部に入ったけど、正直先輩はあんま尊敬できなくて。
それでも、設楽先生や、Buddiesで会った由依ちゃんや理佐ちゃんや天ちゃん。
そして、アルノ、茉央、奈央。
尊敬できる人達に確かに会うことができた。
〇〇「けど、父親のことがあって、僕は怖くなっちゃって…」
生まれて一番最初に尊敬した人。
大好きで、憧れだった人。
離婚するだけなら、それはもうしょうがないことだって割り切れた。
形式上、僕らは家族でなくなったとしても、血の繋がりはなくならないし、変わることはないって。
けど、あの人は大切な人を裏切って、それを悪びれることのない人だった。
形式上、僕らは他人になったとしても、血の繋がりはなくならないし、変わることはないって。
そう思うと、恐ろしかった。
僕はいつか、大好きな、尊敬する人達を裏切ってしまうんじゃないかって、怖くなった。
そしていつか、大好きで、尊敬する人達から裏切られてしまうじゃないかって、怖くなった。
あれだけしんどいなって思っていた自分を曲げるという事を、僕は心から望んだ。というよりも、僕は僕と言う存在を無かったことにしたかった。
〇〇「誰も裏切りたくなかったし、誰にも裏切られたくなかった。けど、あれだけ面倒がって曲げることすらしなかった僕を、僕自身が裏切らなきゃいけなくなった…」
すっからかんになった心で、それでも思うことはあった。
〇〇「…傷つけたくなかった。ほんのちょっぴりでも…。悲しい顔をさせたくなかったんだ…」
僕にとって、そこは優しい場所だったから。
ただただ、ふわふわと心地よい距離感で。
僕は僕を曲げないまま、そこにいれたから。
〇〇「Buddiesは、僕にとって、居心地のいい、優しい子達のいる場所だったから…」
夏鈴「あっ…」
辛い時ぐらい、頼ったり甘えたりしてほしいじゃないですか。そんな関係性すら築けてなかったのかなって悲しくなりますよ…。
あの日、久しぶりに訪れたBuddiesで、天ちゃんが僕に言った言葉。
〇〇「ごめんね。悲しい顔をさせたくなかった。甘えて、僕の苦しさや悲しさを共有させたくなかった。僕の気持ちに寄り添って、一緒に泣いて欲しくなかったんだ…。僕の辛さを感じて、悲しまないで欲しかった…」
夏鈴「……」
〇〇「僕にその勇気はなかった…。だから素直に逃げ込んで、甘えることもできなかった…」
そのせいで、悲しませてしまった。
でも、臆病な僕は目に見える皆の悲しみより、そこから離れて、見えないふりをすることを選んでしまった。
〇〇「…ごめん。君の前では苦しんだり悲しんだりする僕を見せたくなかった…」
夏鈴「…どうして」
〇〇「…だって、好きな人にはそんな姿は見せたくないよ。情けない自分なんて見せたくない」
夏鈴ちゃんが大きく目を見開く。
〇〇「色々あって、色んな人に支えられて、僕は僕を変える覚悟を決めて、そうしてる内に成り行きでBuddiesにまた行くことになった…」
きっかけは本当に偶然。
〇〇「正直気は進まなかった…。けど、僕が過去を乗り越えていくなら避けて通れない道だとも思った」
やっぱりそこはあったかい場所で。
そこに君がいて。
〇〇「あの日からずっと考えてた。
僕はどうしてあの時、夏鈴ちゃんに応援してほしいなんて言ったんだろうって。
ずっとずっと考えてた。でも答えは出なかった。
でもね、簡単な話だよね。
僕が夏鈴ちゃんに応援してほしい理由なんか、
僕が夏鈴ちゃんを好きだからに決まってるよね」
単純な話だ。
それだけで何にも勝る理由だ。
〇〇「僕は誰にも深く踏み込まなかったし、誰にも深く踏み込ませたくなかった。
面倒だから。しんどいから。
そのために、当たり障りのない言葉で会話してた。わたあめくらい軽いノリで、シンプルで、深くも重くもない。ただ耳障りのいい言葉を吐いてた」
それでいいと思ってた。
〇〇「けど君はいつも、言葉を選んでた。
誰に対しても、慎重に、丁寧に」
向き合う相手を想って、
どんな言葉を、
どんな箱に詰めて、
どんな包装をして、
どうやって渡そうか。
渡す相手を想いながら、贈り物を選ぶように。
〇〇「…そんな君が眩しかった。
上っ面だけの言葉で、表面上だけのやり取りを選んだ僕にとって、君のその在り方は憧れだった。
だからいくらでも待てた。
君が君らしい言葉を探すのを。
君が君らしい感性を見せてくれるのを。
何時間だって待てる。
君が美しいものを見て、
美しいなってそう思ってる姿なら、
何時間だって見てられる」
どうしてだろう。
涙が出てくるのは。
〇〇「もっと君を見てたい。
まだ見てない君を知りたい。
ずっと隣で君の言葉を待っていたい。
これから先も、君と美しい物を眺めていたい」
素直に、飾らない言葉でいいから伝えよう。
〇〇「君が好きだ。本当に。心から。
傷つけてしまうかもしれないって、
傷つけたくないって、そう思ってるのに。
君のそばから離れたくない。
君にはずっと、隣りにいてほしい」
僕に話せる言葉はこれで全部。
俯く夏鈴ちゃんが、どんな顔をしているかはわからない。
夏鈴「…最初は嫉妬でした」
俯いたまま、夏鈴ちゃんが話し始める。
夏鈴「…由依さんや理佐さんがどうして〇〇さんと楽しそうに話してるんだろうって…」
傍目から見ても、そう思う人は多かっただろう。
後輩の夏鈴ちゃんからすればなおのこと。
夏鈴「ちょっと困ったような顔で、でもいつもなんだかんだ付き合ってくれて。天ちゃんの無茶苦茶にも嫌な顔せず巻き込まれて…。
いつも私の反応を見て…、気を使ってくれて…。
私の話を最後まで聞いてくれて…。
いつの間にか私、由依さんに嫉妬してた…。
私達がワイワイ話してる時、2人は少し離れてそんな私達を優しい目で見てて…!
2人はなんか、特別な繋がりがあるように見えて…!
ただピアスの話ししてるだけなのに、なんだか胸がざわざわして…!
私、なんでこんな気持ちになるんだろうって!
わからなくて、苦しくて…!
それが何なのかわからないまま、〇〇さんがいなくなって…!」
少しずつ感情的になっていく夏鈴ちゃん。
夏鈴「由依さん達が卒業して、わかったんです。
私は、寂しいんだって…。悲しいんだって…」
〇〇「夏鈴ちゃん…」
夏鈴「…っ!」
夏鈴ちゃんは僕に勢いよく抱きつく。その勢いで、僕は畳に押し倒されるように寝転がる。
夏鈴ちゃんが顔を上げると、僕の顔に雫が落ちてくる。ポタポタと、雨みたいに。
夏鈴「…こんな事言うべきじゃないって分かってるんです。重いって。そんな権利も筋合いもないって」
でも…と、彼女は泣きながら言う。
夏鈴「おねがいだから…。
もうどこにもいかないで…。
貴方がいないのはもう嫌…。
教室のドアが開く度に、
貴方がそこにいるんじゃないかって…。
Buddiesの扉が開く度に、
貴方がそこにいるんじゃないかって…。
いつもみたいに、困った顔で笑う貴方がいるんじゃないかって…!そんなふうに過ごすのはもう嫌…!
傷ついてもいいから、一緒にいたい…。
一緒にいたいよ…」
僕は。
僕は、ある種の後悔は取り戻せると思ってた。
あの夏フェスの日、由依ちゃんを助けて、ある意味でこれまでの後悔の一部を取り戻せたと。
でもそれは僕の心にある後悔でしかないんだと、思い知らされた。
忘れてはいけない。
ずっと引け目を感じるということじゃない。
傷つけてしまったことを。
今日この日まで残る傷痕を彼女に負わせてしまったということを、忘れてはいけない。
引きずるんじゃなくて、それを忘れずに日々彼女を大切にしないといけない。
僕は夏鈴ちゃんを抱き寄せる。
〇〇「ごめん…!ごめんね…!」
もう自分の涙か彼女の涙か分からないくらい顔を濡らしながら、僕は彼女を抱きしめていた。
〜〜〜〜〜〜
〇〇「落ち着いた?」
畳で〇〇さんを押し倒したまま、私はしばらく抱きしめられながら、髪を撫でられている。
夏鈴「…少し」
お風呂上がりでよかった。
メイクを落としていなかったら、目も当てられないことになっていたと思う。
思っていたことは全部吐き出したと思う。
みっともないくらい、わがままなこと言った。
もう、怖いものなんかない。
だから、もう。
夏鈴「〇〇さん…」
〇〇「…なに?」
夏鈴「…私、もう我慢しなくていいですか?」
〇〇「…ん?どういう意味?」
私は体を起こす。
ちょうど〇〇さんを押し倒しているような状態。
〇〇「…えっーと?」
スッと、私は〇〇さんの耳に触れる。
〇〇「ヒイッ…」
夏鈴「…誰にも触らせてないですか」
〇〇「…ないよ。だから慣れないよ…」
その言葉が私の昏い独占欲を満たしてくれる。
夏鈴「…慣れなくていいです」
ピアス痕。
彼の過去そのもの。
この傷痕に触れていいのは私だけ。
触れることを受け入れてもらえるのは私だけ。
そんな都合のいい解釈が、私を満たしてくれる。
〇〇「夏鈴ちゃーん…、そろそろよくない?」
ギュッと目を閉じ耐える姿に、私の中に在る何がじわじわと顔を出そうとしている。
夏鈴「…よくないです」
私は〇〇さんの耳元に顔を近づける。
指で触れるだけでは満足できなくて、
私は唇で彼の傷痕に触れる。
〇〇「!?」
何かが違うことに気付いたのか、〇〇さんの身体が強張る。唇で挟むように振れると、ビクリと反応するのが嬉しくて、ついしつこく繰り返してしまう。
〇〇「か、かりんちゃん…ほんとにそろそろ…」
あまり聞き馴染みのない弱々しさに、昏い衝動が益々湧いてきてしまう。
私ってこんな意地悪だったかな…。
熱を帯びだして、赤くなった傷痕に私は無意識に舌で触れていた。
〇〇「ッ!?」
一際大きな反応。
カリカリと音がしたので視線をやると、彼の手がすがる何かを求めるように、畳に爪を立てていて。
私がその手を握ってあげると、まるで子供みたいに握り返してくる。求められているという感覚が、私を満足させてくれる。
でもこのままだと顔が見れないんだって今更気づいて、私は体を起こした。
〇〇「夏鈴ちゃん…。ちょっとヒドイよ…」
真っ赤になって、ちょっと泣きそうなその顔に、私はどうしようもなく突き動かされて、彼にキスをする。乱暴になってしまったかもしれない。
でもしょうがないよね。
だって彼は誰にでも優しいし。
誰とでも仲良くなるし。
そんな彼が好きだから、
それをやめろとは言わないけれど、
私にしかその傷痕は触らせないで。
私にしかあなたの後ろの席に座らせないで。
私しかそんな顔は見せないで。
わがままかも知れないけれどそれをわかっていて。
それをわかってもらうために、私達はしばらく畳の上でお互いの事を確認し合っていた。
〜〜〜〜〜〜
夏鈴「…そんなに怒らないでください」
しばらくして、僕は部屋の隅っこで小さくなっていた。
〇〇「…別に怒ってないよ。なんか、ちょっと情けない気持ちになっただけ」
女の子にあんな風にされてしまうなんて…。
情けなさと恥ずかしさでちょっと辛い。
夏鈴「その…、ごめんなさい」
〇〇「…だから別に怒ってるわけじゃ…」
色々溜め込ませてしまったのは僕だし、夏鈴ちゃんがちょっと我を忘れてしまったのも、たぶん僕のせいだから、怒るというのはお門違いだ。
夏鈴「あの…、実はお願いがあって」
〇〇「ん?」
夏鈴「…あんな事しておいてお願いなんて厚かましいんですけど…」
夏鈴ちゃんは荷物からピアッサーを2つ取り出す。
夏鈴「…ピアス、開けてもらえないですか」
〇〇「…病院で開けてもらうほうがいいよ?一生残るんだし」
夏鈴「…一生残るから〇〇さんに開けて欲しいです」
そう言われてしまったら、断れない。
〇〇「アイライナー持ってる?」
夏鈴「はい…?」
〇〇「あと、鏡と」
鏡とアイライナーを取り出した夏鈴ちゃん。
うーん…、そうだなぁ。
〇〇「…こっちおいで」
僕は膝をポンポンと叩く。
夏鈴「……」
少し恥ずかしそうに、夏鈴ちゃんは僕の膝の上に座る。今更…というのは野暮か。
僕は夏鈴ちゃんから鏡を受け取ると、彼女に見えるように持つ。
〇〇「開ける所に印つけて」
夏鈴「はい…」
耳たぶに印をつけたのを確認して、僕は鏡を置いて、ピアッサーを手に取る。
空いている左腕で、夏鈴ちゃんを抱きしめた。
〇〇「不安だったら、浴衣とか掴んででいいから」
夏鈴「……」
腕が背中に回され、ギュッと浴衣が掴まれる。
〇〇「じゃあいくね」
夏鈴「はい…」
バチンと、音を立てて、
夏鈴ちゃんの耳にピアスが装着される。
夏鈴「…音大きくてびっくりします」
〇〇「耳元だからね笑」
僕は使い終わったピアッサーを置く。
反対側の耳に印をつけてもらうために、また鏡を手に取ろうとして、ふと思いつく。
〇〇「…夏鈴ちゃん」
夏鈴「はい?」
〇〇「僕も一つお願いしてもいい?」
夏鈴「なんですか?」
〇〇「…ピアッサー、一つもらっていいかな?」
夏鈴「…え?」
〇〇「…良ければ僕にもピアス開けてくれないかな」
夏鈴ちゃんは少し驚いた顔をして、すぐ真剣な顔になる。
夏鈴「…いいんですか?」
〇〇「…うん」
夏鈴「…わかりました」
夏鈴ちゃんはピアッサーを手に取り、僕を抱きしめる。
夏鈴「…浴衣、掴んでてもいいですよ」
〇〇「抱きしめてもらえてるだけで十分笑」
この傷痕を塗り替えようと思う。
新品みたいにピカピカにはならない、僕の傷で、凹みだけど、きっとそうすることで、もっといい味になると思う。
この粗が、僕の人間味なんだ。
夏鈴「いきます」
〇〇「お願いします」
バチン!
〜〜〜〜〜
数年後、僕は喫茶チャイティーヨから独立。
と、すぐに行くわけもなく、支店として新たな業態のお店を始めることになった。
軌道に乗って、しっかり稼ぎが安定したら、ゆくゆくはお店の権利ごと買い取って、独立を目指す。
それが出来てようやく巣立ちの時。
それまでなんとかかんとか頑張るのみ。
〇〇「これでどう?」
夏鈴「…うん。大丈夫」
店内に飾る最後の写真の位置を整え、ついにお店が完成する。
〇〇「長かったような、短かったような…」
夏鈴「長かったよ、1年以上かかったし…」
店内は瀟洒なアンティークの家具や雑貨。
テーブルや、椅子ももちろんそれなりの時を経て来た物で統一してある。
カップやソーサー、グラス類も。
これらを揃えるだけで僕らの資金はかなり目減りしたし、チャイティーヨ系列として色々援助がなければ仕事として到底立ち上げることはできなかっただろう。いつまでも甘えてはいられないから、しっかり頑張らなくては。
飛鳥さん的には、うちもアンティークで揃えたい所はあるし、夏鈴が窓口として間に立ってくれるんならこっちにもメリットはあるから。なかったら普通に却下してるし。とのこと。
色々課題は在るけれど、それでもなんとかこうしてレセプションの日を迎えることが出来た。
〇〇「緊張するね」
夏鈴「…そう?」
〇〇「え、しないの?」
夏鈴「…うーん、やることはやったかなって」
〇〇「…カッコいいなぁ」
夏鈴「それより…」
夏鈴は僕の手を握る。
夏鈴「久しぶりに皆に会うから、〇〇がデレデレしないかの方が心配」
〇〇「信用がないなぁ」
夏鈴「信用してる。誰にでも優しくするって」
〇〇「…喜ぶところ?」
夏鈴「…知らない」
ぷいっとそっぽを向く夏鈴。
キラッと、ピアスが光った。
では改めて。
本日レセプションを迎え、
明日からプレオープン致します、
喫茶とアンティーク 風見鶏です。
誰かの想いと共に時を経た物は、時間の経過でしか生み出せない美しさが在ると思います。
そういったアンティークを眺めたり、手に取ったりしながら、ゆっくりと悩んだり、もの思いに耽る時間を過ごせるように、喫茶を併設しております。
傷も、凹みも、そのものが持つ味です。
それを愛おしく思うお手伝いができれば幸いです。どうぞどなた様もお気軽にいらしてください。
喫茶チャイティーヨ エンディングK“痕” END.
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ライナーノーツ。
随分と癖癖とした内容で、尚且つ長いという…。
どうしても飛鳥ちゃんと比べて本編中に書き足りてないことが多くて…。
最後までお付き合いありがとうございます。
想うことにフォーカスを当てたエンディングA。
想われることにフォーカスを当てたエンディングK。
どちらが正史ってこともなく、色々ある可能性のうちの一つと思っていただけたらと思います。
長々とした本文。イチャイチャも少なく、読みづらかったと思います。それでもお付き合いしていただけた方々、本当にありがとうございます。
励みになりました。
ぜひ、心に残ること、感じたこと、
疑問に思ったこと、なんでもいいのでお聞かせ頂けたらと思います。
コメントでも、Xでも、Xのプロフィールに乗せてる質問箱みたいなやつでも構いません。
近い内にアラカルトのあとがきなどを載せまして、チャイティーヨの更新もとりあえず終わりかと。
打ち上げにでも来る感じで、あとがきもお付き合いいただければと…。
では、よろしくお願いします。
前のお話。
シリーズ。
シリーズ本編。