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優しさのコモンセンス



優しさとは、主体の中に苦しみを伴うものなのか。



自分は寂しさを感じるのがいやだ。

自分の中の寂しさを感じるのもいやだし、他者の中にある寂しさを感じるのもいやだ。

だからそれをなくそうとする。


例えば話す相手がいなくて寂しそうにしている新入生に話しかけに行く。

それが「優しさ」だと捉えられることは多い。

だから自分は昔から冷たいと思われがちだけど実は優しいのだと、そういう人間なのだと思っていた。

だが違うのかもしれない。


弟と話をした。

直接的に優しさについて話したわけではない。

だが、彼によると優しさとは自分の中に苦しみを伴うものだった。

例えば、友達を傷つけないように自分が言いたいことを我慢する、というようなものがある。

そこには我慢という苦しみが存在する。



私は優しいとされる行動を取る時、

つまり寂しそうな新入生に話しかけに行く時、

全く苦痛を感じていない。

自分が他人の寂しさを感じたくないから、自分のために起こした行動だからである。

ということはこれは優しさではないのかもしれない。



以前も優しさについて考えることがあった。

絶対的に優しいというものはないということ。

どんな行動も受け手がどう思うかに依存する、みたいなことを考えていた気がする。

一般的に広く優しいとされる行為はあるけども、それだけでは優しいと言えないと思った。
空虚。


わかった。


「主体にとって」の優しさとは苦痛を伴うものなのだ。

それに対して、「受け手にとって」の優しさは主体(与え手)の苦痛の有無に関わらない。

与え手はその信念に基づいて行動を取っただけで苦しいことなど何もなかったかもしれない。

そんな場合でも、受け手が優しいと感じたらそれは受け手にとっては優しい行動だったということになる。


反対に、与え手が「優しい」をしたくて苦痛とともに行動を起こしたとする。

でも受け手が優しいと感じなかったらそれは受け手にとって優しい行動だったということにはならない。

そこには優しさがあったはずなのになあ。



結局は、受け手が与え手のことをどう思いたいかに依存するのかもしれない。

優しいと感じるのは、その人のことを優しいと思いたいってことなのかもしれない。

そしてやっぱりみんなが共通して優しいと思えるものは存在しないのかもしれない。

ある行動に関して、「与え手の優しさ」と「受け手が感じる優しさ」が揃って初めてその行為が優しかった行動になる。
というわけでもないと思う。

与え手が優しさを持って起こした行動なら、与え手にとってそれは紛れもなく優しい行動である。

同様に、受け手がその行動によって優しさを感じたなら、受け手にとってそれは紛れもなく優しい行動である。

優しさとはそれぞれの中に独立して存在するものなのだと思う。


まあ全部同じか。

楽しいも嬉しいも悲しいも寂しいも。

その感を与える出来事が楽しい、嬉しい、悲しい、寂しいのではなく、

その出来事を体感した人が楽しい、嬉しい、悲しい、寂しいと感じたらそういうことだったってことになるんだ。



自分は優しさを感じられるようにありたいと思う。

なぜなのだろう。

わからない。

気づいてほしいからかな。

あとは感じたいから。あたたかいのは好き。

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