【コラム】キノコとナマコと生贄と
変なタイトルでゴメンなさい。
アイキャッチで拝借したキノコはナメコですねー。しかも天然物は貴重です。
スーパーの食材としては常連のナメコですが、小粒のものをキュッとパッケージしたものが定番。
でも、山中で出会うナメコは傘が開いて大きいものが多いのです。(ま、タイミングの問題です)
それが残念なことなのではなく、実はそのほうが美味しかったりします。
キノコという食材は、総じてデカいほうが美味だと言えます。
私たち日本人の食文化というものは、実に多様で豊かですよね。
昨今の物価高には閉口するものの、何かしら食べるものは常に手近にある。
そして、基本的にかなり安全。
本当に有難いことです。
単に食いっぱぐれない豊かさ、という意味では、私が産まれ育った昭和後期において既に、必要十分な社会にはなっていたかと思います。
さらに時を経て、現代において変わったのは、食関連の商品やサービスの多様性でしょう。
とかく食関連を扱うメディアも数多。
シンプルに「食べる」ということから、
「美味しく食べる」
「楽しく食べる」
「手軽に食べる」
「手早く食べる」
さらには「映える」等々。
これら、食にまつわる付加的要素に価値の重心は移った、そんな数十年だった気もします。
確かに豊かにはなったのだけど、付加的な要素の方に経済的比重、価値が偏ると、そこに貧富の差みたいな現実が直撃する訳です。
悲しいことに、現代日本において、一日三食まともに食べられない子供たちがいるのも確か。
私たちが望んで手にしたはずの豊かさとは、かくも残酷なものかと悲しくさえなります。
昔話になります。
私のような農村部育ちの人間にとって、日常食べるものの多くは、結構な比率で流通経済の外にあったと記憶してます。
単純な話、自分の家で採れる自家消費用の米や野菜は「流通経済の外」。
また、親元を離れた学生さんや新社会人が、しばらく実家から援助される食べ物も「流通経済の外」。
隣近所で食材を融通し合うのも「流通経済の外」。
それが普通でしたし、日本全国のこんなやり取りを丹念に数値化したなら、GDP値が劇的に変わるんじゃないかとさえ思います。
さて、ここからが本題。
我が家は「採集」にもかなり力を入れておりました。やや狩漁採集生活というやつです。
最も依存度が高かったのは山。春から秋にかけ、季節に応じた山菜やキノコの類を大量に採っては保存食にしておりましたし、時には売ってもいました。
我が家が特殊なのではなく、そういう土地柄であったと思います。
そこには、決して教科書や学術書には著せない、膨大な「山の知識」が内包されています。
いつ、どの山の、どの辺りに獲物が生えるのか。
加えて、そこへ分け入り、無事に帰るというノウハウ。
地図も無ければ、山中に標識なんか無いのに、どうやって情報を積み重ねたのか不思議ですらあります。
そして、その山菜やキノコが食べられるか否かの知識は完全に確立されている訳です。
実際は親や子、孫が行動を共にし「これは食べられない」というような経験識というものを教わるのですが、これが如何なる伝達形式であるか、上手く表現しにくい。
何と言うか、図鑑的知識に収まらない、感覚的知見がそこにはあります。
この知見というものは、考えるとゾッとするのですが、かつて誰かが犠牲になった経験に裏打ちされいるのです。
少なくとも、その当時各家々にあった先祖代々の遺影について、例えば「何代前のこの人は毒キノコにチャレンジして亡くなった」なんてエピソードは無い。
恐らくは、私には手の届かぬ遥か昔に、誰かが身をもって経験した「このキノコはヤバい」という出来事が、集団の記憶として伝わっているということになります。
そう、誰かが犠牲になっている。
似たような感想は海の幸にもあります。
私は山里の育ちですが、最初に連れ添ったお相手は海側の家系でした。
日常食するものに大差はないのですが、折に触れ微妙な違いは感じる訳です。
私にとって、その代表格が「ナマコ」。
確か、正月料理の定番みたいな感じで供されていたのですが、山の民的には縁遠い食材に違いありません。
だってナマコですよ、海鼠。
生前のお姿は解説するまでもなくなかなかファンキー。そういう意味ではホヤ(海鞘)なんかも相当ファンキー。
というか、デスメタル。
も、勿論いただきます。
大概は酒のアテ的な位置付けなのですけど、酢の物なんかに仕立てますと、コリコリと爽やかな珍味となる。
決して嫌いではございません。
ただ、生前のお姿から受ける純粋な感想として「人類史上初、ナマコを食べた人スゲー」と嘆息した記憶があります。
あ、表現としてはヌルいです。
「よく、こんなん食おうと思ったなー」
が偽らざる本音(スミマセン)です。
そういう食文化は、それこそ地域が変われば枚挙に暇ナシでしょう。
毒という意味では、フグだってかなり厄介なシロモノです。
内臓の特定部位にのみ強力な毒があるわけですが、何の予備知識も持たずに挑んだなら、まさに運任せ。
毒に対して「当たる」という表現があるのも納得です。
そう、誰かが犠牲になっている。
人類史はある意味、食べ物探しの歴史でもあるわけですが、それは「犠牲の歴史」でもある。
ちょっと大袈裟でしょうか。
そしてです。
古い文化、習わし、あるいは宗教的儀礼と申しますか、「生贄」と呼ばれるものがあります。
前段の「食にまつわる犠牲」と「生贄」とは、何となく同じ空気感の中に存在している気がしてならないんです。
なんだ、そんな犠牲やら生贄やらは昔の話じゃないか、的な批判はごもっともですが、遠い過去のこと、と私には割り切れない。そんな昨今です。
例えば医療や薬事のこと。
例えば交通事故や交通災害のこと。
例えば極端な経済格差のこと。
どうでしょう。
これからも私たちは、色々な犠牲を伴いながら、経済的弱者という生贄を、サイコロ振るしか能のない「市場の神」に捧げながら、豊かそうな社会を維持して行くのでしょうか。
(念のためですが、ワタシ〈共〉の付く政治思想はございません)
少なくとも私たちのご先祖様たちは、長い長い年月をかけて、あるいは犠牲を伴いながら、「安全に食べる」という知恵をつないで下さった。
それだけで十分な気がしてなりません。
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