役割という概念と国家について。雑記。

昨今のポリコレを更に煮詰めたようなドラマを朝からやっていて、私も飛び飛びで2話分くらい目を通した。虎に翼という、一見すると女性法曹の出世街道を描きそうな雰囲気のものだったが、蓋を開ければフィクションだからと言って実在の人物を背景にしながらもあることないこと、更には時代に即した日本語もままならない状態で法律を抑圧としか捉えていない現代人特有の思考が隙間風のように入り乱れていた。

時は遡ってアレクシ・ド・トクヴィルという人物がいた。私の記憶が正しければ意訳になるが彼は「私が理解されたしと思うことは、何より女性と男性の平等化についてだ。何故なら今風の乱雑で幼い想像力がこれ程根深い議題を他に見ないからである。両性の持つ自然な特徴を顧みず、全く同一の職、義務、権利を設けようとしている。このように彼らが両性を同一と看做す作業を続ければ共に堕落して行く。即ち、ひ弱な男性と無恥な女性とへである」という具合の事を記していた。

トクヴィルもまた法律家であり、同時に民主制に対して憂慮を持ち、上記のような文章を忠実忠実しく残していたようだ。法曹家を名乗る人間のドラマには果たして今の調子から国家の機構としての法律という側面を描き出したシーンが登場するのか期待を増すばかりだが、近視眼的なポリコレに耽溺して行く様相がその希望を徐々に削ってくれる。

あの時代は姓を単なる記号ではなく財産と福祉の出所として見ることが出来たし、LGBTは戦前は更に多かっただろうし、性別違和に関しては医者でもないのに軽々に立ち入って良い問題ではない。また、それらの個人的な問題を国家が扱うにあたって国益を鑑みず法典の紙幅を肥やすのは悪手中の悪手であり、何故なら言語は時に限界を迎えて矛盾を生み、その矛盾を解消する為に暴力が台頭するからだ。

戦後の法律体系の殆どは植民地化に依る退廃推進策だった事実を脱脂粉乳とパンで受け入れれば仮初の安寧に憩う事は出来るかもしれないが、事実、暴力的に同性愛や家族間の福祉や当人の責任における肉体関係をを禁じたのはその限界を迎えたアメリカである。その法律を鵜呑みにしておきながら他者に権利のなんたるかを説く姿は、法曹家ではなく飼いならされた活動家に酷似していると感じる。

もし法曹家の役割がドラマ程度で良いのなら巷に溢れている通りAIで充分だろう。まあ、とはいえフィクションですからね。実際には違うでしょうが演者が勉強しないで法曹になろうがタイムスリップしようがこの後本当に虎に翼を生やそうが自由ですけどね。

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