9/14。東京だ(形容動詞)

 老い先長くないと嘆いていた犬が、健気にひょこひょこ歩いているのを見て、また涙腺が緩みかけた。雨が降ってきたので、抱えて室内に入れた。僕が一番犬を抱えるのが上手だろう。抱えるとき、顔と顔が近くなる。好き。

 今日は、まあ勉強するべき日だったのだろうけど、しなかった。何をするか自分の中で固まっていなかった。(言語化、紙媒体化)しなかったのが原因。

 パン屋のパンをおやつとする。さつまフランス。紅茶を飲みすぎるバカ。

 白のレースと紺のカーテンがあるのだけれど、いままであまりレースを使っていなかった。今日一面レースで日差しを遮ると、部屋の中が明るくなって、おしゃれだった。エモい。東京だ。

 エモいという言葉を使った。語彙力がないといわれているのだろうか、と思い、「エモい 語彙力」と検索したところ、二番目に肯定的なツイートがあって、そんなものかと思った。僕は、ここで都合よく内田樹の「ためらいの倫理学」を引用する。

何かが言葉に命を与え、その代償として言葉の中で死ぬ。私たちはその「何か」に、生きたままのかたちでは決して触れることができない。それは消え失せることによって、はじめて「何かがあった」ことを事後的に回想させる「痕跡」だからだ。

「ためらいの倫理学」内田樹

 (ページ数はわからないです。すみません。)
  つまり「その言葉を使用した人が真に感じたことは、その言葉からはわからない」ということになるであろう。だから、エモいことが起こったとして、それはどんな言葉を以てしても真に伝えることはできない。
 「エモい」と述べることは、なにかエモいことがあったのだと、「事後的に回想させる」ことだ。


言葉はすべて「事後的に回想させるもの」で、そのうちの一つの「エモい」が、低コストで使えてしまうことが問題なのだろうなって今考えました。


 さりげなく、「東京だ」(形容動詞)を造った。僕の中では白みがかった部屋はとても東京です。あまり伝わらないかもしれないけど…。

 

 土曜の朝は元気がない。栄養学とか学ぶといいのかなと思った。

 ランニングを最近さぼってる。そのせいかは知らないけど、うんちのタイミングが朝じゃなくて、ばらばらになった気がする。どうだろう。食物学とか学ぶといいのかな。

 

終わり

勉強しまーす

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