場所の作業を通じて感じた事

私は大学等で哲学を学んだこともなく、西田以外の哲学をまともに読んだこともない不勉強な人間であるため、あまり分かったようなことを述べる立場にある人間ではありません。しかし今までの作業から少し思うところもあるため、この文章をしたためています。

西田哲学とは何ぞや、どういった哲学かと疑問に思う方も多いと思います。その疑問に的確に応じられると思われる文章が小坂国継先生の「西田哲学の研究 場所の論理の生成と構造」の序章において述べられているため、そこを抜粋します。

『いま仮に、西田哲学とはいったいどのような哲学であるのか、一言でもって説明するよう求められたとしよう。おそらく、この問いに対するもっとも適切な返辞は、それは本質的に「生の哲学」(philosophy of life)だと答えることであろう。西田自身、若い頃の日記に「学問は畢竟lifeの為なり、lifeが第一等の事なり、lifeなき学問は無用なり」(XVII・七四)と記し、また「余はpsychologist, sociologistにあらず、lifeの研究者とならん」(一四八)と記している。しかし、西田のいう「生の研究」はいわゆる生の人間学的研究でもなければ、かといって生の解釈学的研究でもない。いいうべくんば、生の実存的探究である。西田にとって生涯の関心事は自己の在所の問題であった。自己の根源の問題であった。いいかえれば、真正の自己の探究であった。したがって、彼のいう「生の研究」は単なる論理的関心から惹起されたものではなく、それ以前に、またそれ以上に生来の強い実践的関心から惹起されたものであった』

西田哲学は「自己の在所の問題」を追求した体系的思想と言えます。そしてそれは必然的に、自己の「深い体験の内省」を伴ったものとなります。西田全集第三巻の後記において下村寅太郎氏も

「著者は常に論理の追究に厳正強靭であったが、しかし決して論理主義者でなく、常にそれの形式主義を排して、あくまで内面的充実化と現実的体験的なるものに即せんとし、それからの乖離を厳に戒め、かくして論理と同時に心理を重視することが積極的自覚的意志であった」

と述べています。論理の形式主義を排し、論理が現実的体験的なものから乖離しないこと。ここに西田特有の思想の特徴があると思います。恐らく西田哲学は他の哲学より、徹底的に「現実的、体験的」なものに即したものと言えるでしょう。西田自身も「意識の問題」の改定の序において、以下のように述べています。

「カントが一度、形而上学を排斥し、事実の問題と価値の問題を峻別して以来、一途に形而上学は過去の学問と思われ、体験の内省は、なべて心理主義に陥るの恐れあると思われる傾がないでもない。しかし形而上学が爾く容易に葬り去ることができるや否やは疑問であり、またいわゆる新カント学派の人々があまりに論理に偏して、深い体験の内省を欠いていたということは、殊更に問題を局限し、明らかにすべきものをも明らかにしなかったという弊がなかったかと思う」

上述したように西田は、「lifeのための学問」、つまり生とは何かという実践的意義と論理の乖離の戒めを念頭に置いて、自らの思想を体系的に発展させました。逆説的に言うと、読み手は西田哲学から何らかの意味において実践的意義を得、その思想を自らのlifeの為に役立てることができることになります。「善の研究」が広く読まれている所以は、その実践的意義が殊更に強く表れているからでしょう。その意義を得るために私が一番大事だなと感じたことは、西田同様に自らの「体験の内省」に即して読むこと、西田の論理と自らの体験を照らし合わせ、論理と自らの体験の内容をなるべく乖離させずに読み進めることです。内観しながら読むことです。その理解は日常への内観に繋がります。「自己を知る」ということ、日常の中で自らを内観するということ。この事に深い実践的意義があると私は思っています。今深くこの話題に踏み込むことは私の余力的にできませんが、禅やマインドフルネスがうつ病などの心の病を治すものとして有用視されているのも、この実践的意義と無関係ではないでしょう。(念のため付言しておきますが、自己を知ることは他者を知ることです。西田哲学は決して独我論ではありません)。

私自身、論理のみ先行させ自らの体験を伴わせないで読み進めると、途端に迷子になってしまう感覚を何度も味わいました。特に西田哲学史上、とても重要と言われている「場所」の論理に関しては、気を抜くとすぐ迷子になってしまう感覚があります。場所の論理の構築に当たり、西田が体験の内省を欠いていた訳ではありません。むしろ場所は宗教的立場というものをも含めた徹底した体験の内省を包含するために作り出された論理であると言えると思います。ただその論理の生成の過程が過度に思弁的、抽象的であるため、論理の方に意識が向いてしまい、体験の内省との乖離が生じやすいのです。また前期西田哲学の理解なくして、場所の論理を理解するのは相当困難かもしれません(少なくとも私は無理です)。場所は前期西田哲学が持つ「意志」などの特有の概念を内包したものであり、またそれらの概念の理解にも自らの体験を伴わせることが必要になります。場所は過度に思弁的、抽象的でありながら、また同程度に体験の内省が伴うことを要求します。西田の西田たる所以であると思います。いきなり場所を読んでも分かるはずがないというのが私の率直な感想です。

場所の論理の誕生により西田哲学は他に類のない独自のものとなり、西田哲学たる確固とした地位が築き上げられました。その反面、それが晦渋な論理であるが故に、読み手が論理だけにフォーカスしその実践的意義の方面が結果的に軽視される傾向が生じているようにも思います。論理だけ抽出して上滑りしている感じを受けるのです。場所の論理の功罪というものがあれば、前者が功、後者が罪に当たるのではないか。論理ばかりにフォーカスするのではなく、内面的充実化の方面をできるだけ分かりやすく教示してくれる人たちがもっといないと、西田哲学は実践的意義がないものという正反対な誤解を受け、読んでみようと思う人がいなくなってしまうのではないか(だとしたら「善の研究」などの前期西田哲学だけ読んでいた方がよほどいいのではないかとすら、今の私は感じています)。そんな問題意識を提示して、この文章を締めたいと思います。

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