西田幾多郎 「一般者の自覚的体系」現代的改定+補足(作業遂行中)
このnoteは、西田幾多郎の著作を現代語的に書き換えることを意図したものです。書き換えを行う筆者は大学等で哲学を学んだことは無く、哲学的素養に関しては完全に素人です。読解の助力になることを願い書いたものですが、私の誤読が介入してる可能性があります。読まれる方は、このnoteを鵜呑みにされず、必ず現本を読まれてください。誤読と思われる箇所があればご指摘いただけると助かります。また、没後70年を経過しているため著作権は失効していますが、同一性保持権に抵触すると判断される可能性があり、その場合すぐ削除することを宣言します。
※筆者の独断により、(~)という形で補足を付け加えています。
※西田自身が補足としてつけているかぎ括弧は、【】で表しています。
※旧字体は新字体に、一部表現を現代的に改訂しています。
※筆者が分からない部分は?をつけています。お判りになられる方がいたらご指摘いただけると幸いです。
小論「私の判断的一般者といふもの」
前著 「働くものから見るものへ」後編
一般者の自覚的体系
序
この書は「働くものから見るものへ」の後編において述べた考えを基として種々の問題を論ずると共に、その考えを洗練し発展させたものである。第一の論文から第三の論文に至るまでは、判断的一般者の自己限定から出立して、主語的なるものがその底に超越すると言うことによって、種々なる知識を限定する一般者を考えた。我々の知識と考えるものは判断の形式によって成立し、我々が何物かを考えるには、かかる形式によって考えるのであるから、判断的一般者というものから出立したのである。しかし最初その背後にあるものについて論ぜなかったから、私の考えの全体が明らかでなかったでもあろう。第四の論文において私の考えの大体を述べた。そして後、第五の論文において第一の論文の背後にあるものを論じ、第六の論文において第二の論文の背後に含まれたものを論じた。第七の論文においては、全体に通ずる一般者の自己限定の意義とその基づく所とを論じたのである。しかし総説において翻って私の考えの全体を総括的に述べて置いた。この書における私の思索の結果は総説について理解せられんことを望む。
私は暗夜に幽なる光を認めて、只管に荊榛の野を進んだのである。岐路に入った所もあろう。迷路にさまようた所もあろう。ただ、私は私の蹈み歩いた道筋を述べて同学の士の教を乞うのみである。私の考えは漸次に発展したものであるから、すべて前の論文は後の論文によって補正すべきものである。この書を書き終わって、更にまた私の考えの明らかにすべきもの、正すべきものの多きを自覚せざるを得ない。
昭和四年十一月 著者
所謂認識対象界の論理的構造
【この論文においては、既に「働くものから見るものへ」の後編に論じた多くのものが、前提となっているのである。「総括」において述べた如く、私の一般者の自己限定というのは本来、自覚的限定を意味するものである。判断的一般者の限定というのはその対象化されたものに過ぎない。ノエマ面的限定を意味するものである。しかし概念的知識というのは判断的一般者の限定として成立するものであり、少なくともかかる限定の可能が予想されねばならないものであるから、私は先ず判断的一般者の上に立って一般者その者を反省し、かかる立場においていかなる知識内容が限定されるかを考えてみたのである。
仮にも一般者の自己限定によって判断的知識が成立すると考えられるかぎり、一般者の自己限定というのは既に意識一般的自己の自覚的限定の意味をも有っていなければならない。規範的意識の意味を有っていなければならない。一般者の自己限定の底には、後の「叡智的世界」において述べた如き自己自身を見るものの直観的限定というものが予想されねばならないのである。無論それは主語的なるものが述語面の底に超越するということによって、単に論理的に考えられるのではなく逆に一般者の自己限定を自覚的限定となすことによって考えられるのである。一般者が何処までも自己自身の限定の底に深まって行くということは、それが本来、自覚的なるが故である。一般者の限定を基礎付けるものは我々の自覚に外ならない。
もし然らば、判断的一般者の自己限定という中にも、既に種々なる関係が含まれなばならない。先ず超越的述語面の自己限定を知るものと考え、「五」以下において、判断的一般者の自己限定の関係に於いて自己とか実在界とかいうものを考え、主客の対立、合理非合理の対立の如きもかかる限定において含まれていると考えたのである。
判断的一般者の自己限定を右の如く考えるならば、判断的知識すなわち概念的知識と考えられるものはすべて判断的一般者の自己限定として成立し、判断的知識の種々なる構造及び種々なる階段は判断的一般者の限定から明らかにされなければならない。判断的一般者の超越的述語面というのは主語となって述語とならない個物の於いてある場所であって、判断的一般者に於いてあるものは述語的に自己自身を限定し、すなわち判断的に自己自身を限定し、いわゆる述語面というのは判断的一般者が自己自身に於いてあるものの内容を限定する一般者自身の自己限定面と考えることができる。かかる判断的一般者から自己限定の意義を極小にしてただ、潜在的に判断的限定を含むと考えられるものが、抽象的一般者と考えられるものである。抽象的なるものは他の述語となるものであり、判断的一般者の述語面というものがすぐ抽象的一般者と考えられるかもしれないが、それに於いて分類的知識の成立する抽象的一般者は、むしろ判断的一般者の無媒介的なるものと考えるべきである。自己自身の限定を含まない超越的述語面、すなわち主語的に限定された場所と言うことができる。しかし抽象的一般者が具体的なる判断的一般者に於いて含まれていると考えられる時、一方において判断的一般者に於いてあるものが自己自身を限定する述語的統一面と考えられると共に、それ自身が判断的一般者に於いてある第二本体の如きものとも考えることができるのである。斯く一方に判断的限定の委縮せる抽象的一般者というものを考え得ると共に、一方に述語面的限定が既に自覚的限定の意義を有った推論式的一般者というものを考えることができるのである。
推論式的一般者に於いては、その述語面が自覚的限定の意義を有っているのである。推論式的一般者の場所というのは意識一般の意識面に相当するのである。自覚的限定というのは、自己が自己に於いて自己を見るということである。「自己が」から見れば、「自己に於いて」は自己によって限定された自己限定面であって、「自己を」から言えば自己はかかる限定面に於いて限定されるべきものである。かかる自覚的限定からノエシス的限定の意義を除去したものが推論式的一般者となるのである。かかる推論式的一般者の場所そのものの自己限定が意識一般的自己の限定と考えられるものであり、それが述語面的限定たるの故を以て、また範疇的限定と言い得るであろう。そしてかかる場所そのものの直接限定の内容が認識対象界と考えられるものである。認識対象界の論理的構造は推論式的一般者の自己限定として明らかにすべきである。
推論式的一般者に於いて私はしばしば小語面とか大語面とかいうことを言ったが、小語面というのは推論式的一般者の場所そのものの直接なる限定として小前提的内容を限定するものであり、大語面というのは推論式的一般者の限定面として一般法則的なる大前提的内容を限定するものを意味するに過ぎない。推論式的一般者に於ける特殊と一般の対立を言い表したまでである。判断的一般者に於ける主語と述語の対立に当たるものである。推論式的一般者というのは判断的一般者の一般者という意義を有するを以て、特殊と一般の対立も判断的一般者と判断的一般者との対立の形を成すのである。故に面と言ったのである。普通では大語面が小語面を包むと考えるべきであるが、帰納法的一般者に於いては、小語面的なるものが場所そのものの直接限定として大語面的なるものを限定する意味を有っているのである。演繹法的一般者に於いても、それが推論式的一般者の意義を有するかぎり、直覚面的限定というものがなければならない。然らざれば無意義の形式に陥るの外ないのである。小語面的に限定された判断的内容は無論大語面に包まれるという意義を有するが、小語面的限定そのものは場所そのものの限定として範疇的限定の意義を有するのである。一般者の場所と考えられるものは自覚的限定の意義を有し、これに於いてあるものが自己によって限定されたものたると共に自己自身の内容を限定する意味を有するのである。判断的一般者に於いても、主語的なるものは特殊として一般によって限定される意義を有すると共に、場所に於いてあるものとして自己自身を限定する意義を有っているのである。
すべて種々なる判断的一般者の限定と考えられるものは、「総説」の付論において言った如き表現的一般者の中に含まれるべきものである。表現的一般者に於いて行為的自己の知的自覚の意義が見られるかぎり、判断的一般者の限定というものが見られるのである。推論式的一般者の限定というのは知的叡智的自己の自覚によって成立する表現的一般者の限定と考えるべきものである】
一
私は認識主観を離れてそれ自身に於いて存在する超越的実在、すなわちカントのいわゆる物自体物如きものが、如何なるものなるかを論じようとするものではない。私はそういう意味においての形而上学者でない。私は何処までも概念的知識自身の自省の立場に立ちたいと思うのである。その意味において、私はむしろカントの批評哲学の途を歩みつつあるものと信じる。ただ、私は何らの独断的仮定のない純なる概念的知識自身の自省の立場から出立してみたい。いわゆる認識論者といえども、その出立点において、なお反省すべき独断的仮定を遺していると思うのである。
知るということは、認識論の拠って立つ根本概念でなければならない。知るとは、如何なることを意味するか。普通には、知るものと知られるものとが対立し、知るというのは一種の作用の如くに考えられる。しかし働くということは知るということではない。我々は働くものをも知るのである。働くとはなお対象と対象との間における一種の関係を意味するに過ぎない。知るものがカント哲学においての様に純なる論理的意義にまで純化され、知るということは形式によって与えられた質料を総合統一することであると考えられても、なお主客の対立とか作用とかいう意義が完全に除去されたとは言い得ない。我々はこれらの独断的立場の残塁を棄てて、なお一度その出発点に還って深く考えてみなければならない。形式によって質料を構成するということから、知るということは出て来ない。知ると言うには、変じるものの根柢に変ぜざるものがなければならない。変じるものを見るものがなければならない。
二
私が或物を見ている時、私というものがないとは言われない。しかし私というものはまだ意識されていない。直ちにこれを反省して私が何々を見ていたという時、私というものが意識されるが、その私というのは知られた私で、知る私ではない。無論、知られた私といっても、知る私の対象化されたものとして、知られたものと同列的とは言われない。他を限定する意味を有っていなければならない。しかし後の私は前の私と私ならざるものとを知っているのである。真に知るものは両者を包んだものと言うことができる。私が私を知る。知るものが知るもの自身を知るという場合でも現在の私がその私自身を対象としているのである。私が或物を見ている時、対象化された私というものが潜在的であったが、この場合逆に物が潜在的となっているのである。「於いてあるもの」とその場所が一となるのである。
我々が物を知るという場合、知るものと知られるものとが対立する。すなわち意識内というものが限定されて、その外というものが考えられ、物は意識の外に於いてあると考えられるのである。しかし意識の外というも、ある意味において知られたものでなければならない。非我もある意味において我に於いてなければならない。完全に、我の外にあるものに対しては知るということはなく、またすべてが我の内にあるもののみならば、知るということはない。自己が自己の中に自己を映すことによって自己の内容を限定するということが知るということの根本的形式である。単に私が物を見ていたという如き場合、私というものが意識されていないとしても、後に意識していたと考えられるのは、やはり右の如き形式に於いてあったと考えられる故でなければならない。我と非我の対立及びその統一が明らかになっていないとしても、既にかかる反省の可能が含まれていなければならない。
知るということが、右の如きものであるとするならば、かかる意味において知るということは、如何なることを意味しているであろうか、知ることを知ることはできないと言われるかもしれないが、仮にも知るということが考えられる以上。それがいかにして考え得られるかが明らかにされねばならない。意識されたもの、されないものと言えば、対象に属する目印となるかもしれないが、知るとか、意識するとかいうことは、知るものと知られるものとの関係でなければならない。如何なる関係が知ると考えられるのであろうか。対象化された二つの物と物との間の関係において、その一が他を知るということはない、少なくとも同列的なるものと物との関係において、知るということはない。同列的なるものと物との間においては、互いに相働くということはあるであろう。一つの物が変じることによって、他の物が変じられると考えることが出来るであろう。しかし知るということはそれから出て来ない。変じるものは相反するものに変じ行くと言われる如く、変じるものの根柢に変ぜざるものがなければならない。かくの如き一般的なるものが対象的に限定し得られるかぎり、それは知るものとは言われないのである。
同列的なる二つの物の関係から、知るということが考えられないとすれば、知るものは知られるものに対して高次的なるものでなければならない。同列的対象としては考えられないものでなければならない。しかも知るというものが考えられる以上、それは単なる無であるとは言われない。あるいは自己によって自己を限定するものとして、知るというものを考えることができると言うでもあろう。しかし自己自身を限定するものと言っても、それが何らかの意味において知られるものと対象的関係を有するかぎり、知るものとは言われない。知られるものに対して、知るものは対象的関係においては、完全に無でなければならない。何らの対象的関係に入り込まないものでなければならない。非我に対する我は真に知る我ではない。真に知るものは両者を包んだものでなければならない。知るものというものを対象化することはできない。対象化することができれば、それだけ知られたものであって、知るものではない。既に対象化すべきものではなく、従って知られるものと対象的関係に入り込むことができないとすれば、如何にして知るものとか、意識するものとかいうものを考えることができるであろうか。対象化的方向あるいは判断の主語的方向において意識を考えようとする人は単なる無と考えるの外はない。否、意識するとか、知るとかいう考えも出て来ないはずである。単に映すものとか、意識の場所とか考えても、映すものと映されるものとの間、場所と「於いてあるもの」との間には、何らかの関係がなければならない。しかもそれが対象的関係でないとすれば、かかる関係は如何に考えるべきであるか。
それでは、如何にして我々は知るものというものを考えるのであるか。また考えねばならないのであるか。仮にも知識があると考える以上、知るものというものが考えられねばならない。これに於いて、我々は深く概念的知識自身の構造について反省して見なければならない。仮にも判断的知識が成立する以上、主語となるものについて述語することが可能でなければならない。述語するということは、主語が述語に於いてあるということを意味する。特殊が一般に於いてあるということを意味するのである。外延的関係においては、判断とは或物が或物に於いてあるということを意味しなければならない。勿論、すべての判断が包摂判断であるというのではないが、何らかの意味において述語可能であるということは、主語となるものが述語的なるものに於いてあるということを意味しなければならない。斯くして後、更に種々なる範疇的限定が成立するのである。しかし斯く判断的知識の根柢に何処までも一種の包摂的関係が考えられねばならないと共に、概念的知識は単なる包摂的関係によって成立するものではない。真の概念は抽象的概念ではなく、具体的概念でなければならない。いわゆる抽象的概念と考えられるものも、仮にもそれが概念的知識として考えられる以上、少なくとも潜在的に特殊化の原理を含んだものでなければならない。これによって判断的知識が成立するのである。
概念は具体的でなければならない。そうでなければこれによって知識が構成されるとは言われない。しかしそれが単に自己限定的なる客観的原理という如きものであるならば、それはなお客観的なる一種の有であって、概念ではない。概念的知識成立の根柢には、特殊が一般に於いてあるという包摂関係がなければならない。一般者は単に自己自身を限定するのみならず、自己自身の限定をも内に含むものでなければならない。特殊と一般の関係には自ら判断の主語と述語の関係を含むと考えざるを得ない。かかる関係を何処までも推し進めて行けば、いわゆる主語となって述語とならざる個物に至っても、なお述語的一般者に於いてあると言うことができる。かかる意味において何処までも内に判断的関係を包むものが具体的概念でなければならない。かかる具体的一般者が限定し得られるかぎり、いわゆる対象的知識が構成されるのである。しかし判断の主語と述語の関係を、何処までも主語的方向に進め行くと考え得ると共に、何処までも述語的方向にこれを包むものを考えることができる。主語となって述語とならないものに反し、主語とならない超越的述語面ともいうべきものが我々の意識面と考えられるものである。すなわち知るものであるのである。要するに、具体的一般者の超越的述語面というものが意識面と考えられるのである。
【ここに超越的述語面として意識面というのは、意識一般の意識面という如きものでなければならない。その自覚的限定によって判断的知識が成立するものを意味するのである。述語面的限定を意識的限定と考えることは既に「働くものから見るものへ」において論じた。判断が一般者の自己限定として成立し、判断的に知るということが一般者の自覚と考えられる時、斯く考え得るのである。
無論、超越的述語面が直ちに意識一般の意識面の意味を有つのではない。それには、自覚的一般者の限定すなわちいわゆる意識的限定を超えて、これを内に包む意味を有たなければならない。判断的限定から考えられた超越的述語面すなわち判断的一般者の場所という如きものは、意識一般的自己の対象面というべきものである。しかしここでは未だそこまで考えていない】
上に言った如く、二つの物が同列的に考えられるには、両者を包む一般者が限定されていなければならない。そしてかかる一般者が限定されたものであるかぎり、一が他を知るという関係は成立しない。両者は互いに対象的関係に立つのみである。一が他に対してこれを包むとか統一するとかいう如き関係にあるとしても、それが一つの具体的概念として限定され得るかぎり、なお主語的方面において見られる対象的関係たるを免れない。知るものと考えられるものすら真に知るものではない。主語的なるものに対して何処までも述語となって主語とならないもの、すなわち主語的対象としては無というべきものであり、しかも主語的なるものがこれに於いてあり、これによって成立するものが知るものと考えられるのである。
以上述べた如く、我々が意識するものとか、知るものとか言うものを考えることができるのは、主語的本体としてではなく、また何らかの因果関係に於いて働くものとしてでもなく、ただ、超越的述語面としてのみ考え得るのである。またかくの如きものを考えざるを得ざるのは、判断が具体的一般者の自己限定と考えられ、知識の客観性が超越的述語面ともいうべきものによって立せられるとするならば、判断的知識の成立する限り、何処までもかかる超越的述語面が考えられねばならぬ故である。知るものと知られるものとの関係は、判断の述語と主語との関係に外ならない。何らかの意味において主語的なるものが述語面に於いてあるということが、知るということである。知られるものが知るものに対して外的と考えられるのは、自己自身を限定した述語面の外にある故である。しかもそれがまた知るものに於いてあると考えざるを得ざるのは、超越的述語面に於いてあるからである。ただ、超越的述語面が自己自身を限定して能限定面にあるものと所限定面にあるものが対立する時、知るものと知られるものと相対立し、その間に一種の作用的関係が考えられるのである。しかも上に言った如く作用的関係が対象的に考えられるかぎり、知るということは出て来ない。意識を意識するとか、知るものを知るとかいうことは、超越的述語面が自己自身を限定する【場所が場所自身を限定する】ということから考えられるのである。無論、我々はいわゆる一般概念を限定するという意味においてかかる限定を考えることはできない。かかる限定の意義を現すものは我々の自覚の意識であるのである。
【超越的述語面が自己自身を限定するとか、場所が場所自身を限定するとか言うことは単に論理的に考えられるのではない。論理的にはただ、自己の中に自己自身の矛盾を包むという如きこと以上に出ることできないであろう。かかる限定を裏付けるものは我々の自覚である。「総説」において言った如く、判断的限定というのは自覚的限定によって基礎付けられたものであり、判断的限定は自覚的限定の一種と言ってよい。自覚的限定においては、一般者が一般者自身を限定するものとして、主観界と対象界が対立すると考えることができる。後に言う推論式的一般者の限定に於いても、既に小語面と大語面が対立するのである】
三
知るものとか、意識するものとかいうものが、ただ、超越的述語面としてのみ考え得るとするならば、知るもの、すなわち私というものは、働くものとか、構成するものとか言うものではなく、概念の外延を限定する一般者の性質を有するものであると言うことができる。自己を限定する一般者が具体的一般者と考えられるが、更に述語的方面にこれを超えたものが、知るものとか、私とか考えられるのである。この意味において我とは真の一般者であり、逆に真の一般者は知るものであると言ってよい。概念は具体的でなければならない。抽象的概念というのはその不完全なる形に過ぎない。そして知る我というのは具体的概念を包むものである。具体的概念を更に一般者の方向に超越したものである。いわゆる抽象的概念といえども、かかる述語面によって裏付けられているのである。感覚とか知覚とかいう如きいわゆる無反省の意識とは、斯くして考えられるものである。しかのみならず、ヘーゲルの如くいわゆる実在界をも一つの具体的概念と見るならば、概念、実在界、意識の三つのものは皆具体的一般者の種々なる象面と見ることができる。
【私がここに概念というのは、ヘーゲルの論理学でいう如き概念を意味しているのである。私の具体的一般者というのは、完全に同一とは言われないが、大体においてヘーゲルの概念という如きものと考えられてよい】
物があるというのに、色々の意味に於いてあると言うことができる。普通に物があるというのは、主語としての有、すなわち主語的有を意味するのである。こういう意味においては、主語となって述語とならない個物という如きものが、最も根本的なる有と言わねばならない。しかし「私がある」というのは、こういう意味においてあると言うのではない。私は個物的と言っても、主語的有の意味においての個物ではない。唯一的なるものは自己自身の述語となるものであり、自己自身の述語となるものは単に自己同一なるものに過ぎないが、自己同一なるものの述語面が主語的なるものを自己の中に包み込んだと考えられる時、すなわち主語が述語の中に没入したと考えられる時、私があると考えられるのである。繋辞の「ある」ということは、一方において特殊が一般に於いてあるということを意味すると共に、一方において一般者自身の自己限定を意味しなければならない。主語が超越的にしてその述語的統一が成立しないと考えられる時、いわゆる物の存在が考えられるが、述語面が超越的にして主語的統一が形成し得られないと考えられる時、意識的存在が考えられるのである。単に自己自身を限定するというだけの一般者が当為の意識と考えられ、かかる一般者の限定としていわゆる繋辞的「ある」というものが考えられるのであるが、これを主語的方向に超越するか、述語的方向に超越するかによって、二種の有が考えられるのである。何らかの意味において特殊が一般に於いてあるということが、判断成立の根本的条件であるならば、意識的存在が判断成立の根柢となるものでなければならない。当為の背後に意識的有がなければならない。いわゆる認識対象は直接にこれに於いてあるのである。
【単に自己自身を限定する一般者の自己限定を当為の意識と考える所以は、一般者の自己限定が知ると考えられても、しかもその知るものが見られないで、単に一般者という如きものが自己自身を限定すると考えられる時、すなわち自己の限定面自身が自己を限定すると考えられた時、当為の意識という如きものが考えられるのである。かかる意識的限定の相対者Korrelatが繋辞の「ある」ということである】
デカルトのcogito ergo sum(我思う、ゆえに我あり)のsum(我)は主語的存在の意味でなくして、述語的存在の意味でなければならない。その我は何処までも考える我であって、考えられた我であってはならない。如何にしても判断の主語的方向に於いて見ることのできないものであって、しかも主語的なるものはすべてこれに於いてあるものでなければならない。かかる意味に於いてあるものは、真に内在的として明白なるものと言い得るであろう。なぜなら自己自身が知識成立の根本的条件となるが故である。そしてこれと同じく直接にして明白なるものは存在しなければならない。自己はなお自覚的意識の対象として述語面的限定たるを免れないが、絶対に超越的にして、いわゆる自覚的なるものもこれに於いてあるというべきものは、更に直接にして明白なるものと言わねばならない。かかる意味において、神は自覚と同じく、否、これにもまして直接にかつ明白にして、かつ勝義において存在すると言い得る。神はquod in se est(それ自身によってあるもの?)と共にquod per se concipitur(それ自身によって考えられるもの?)でなければならない。デカルト学派の人々は神を主語的有と考えたから、いわゆる形而上学に陥ったのである。
或物が私に意識されているということは、それが右の如き超越的述語面に於いてあるということを意味するのである。述語面が超越的となればなるほど、これに於いてあるものは判断の主語として限定することのできないものとなる。すなわち主語的統一の成立しないものとなる。これにおいて、これに於いてあるものは、すべて時間的なるもの、事実的なるものに分解されねばならない。かかる方向の極限において、もはや主語として統一することのできないもの、換言すれば、ただ、否定的にのみ限定し得るものが私に意識されたものである。故に意識の事実は流れ去るものでなければならない。そしてかかる事実と結合する我は一瞬の前にも還ることもできないと言い得るのである。意識されるものと意識するものとは、同一の場所にあるものではない。意識は何処までも超越的述語面である。単にかかる意味においては、私に意識されているという意識もない。かくの如き超越的述語面が自己自身を限定した時、すなわちいわゆる自覚の意識が成り立った時、私に意識されるということが意識されるのである。かかる場合、一般者そのものの中に主客の対立が成立し、両者の関係が考えられるのである。述語面が超越的となるに従って、主語的方向に見られた個物が働くものとなり、更に超越的述語面そのものの直接なる自己限定としていわゆる知るものとなるのである。超越的述語面に於いてあるものは、この点に関係を有たなければならない。この点を中心としなければならない。かかる関係が私に意識されるということである。この点は何処までも主語的方向において見ることはできない。すなわち対象化することはできない。この意味においては無である。しかもこの点によってすべての内容が統一され、すべてが内在的としてこの点に直関的と考えることができるのである。
四
私はいわゆる概念を以て直ちに真実在とかまた知るものとか考えるのではない。しかし仮にも概念的知識というものが成立する以上、意識とか、真実在とかいうものも、何らかの意味において概念的知識の構造と関係を有っていなければならない。真に直観的なるものは知ることができないと言うも、既にある意味においてかかるものを知っていなければならない。しかのみならず、かかるものが知識の根柢として考えられるならば、そう考えられる所以がなければならない。逆に私は概念的知識をば直観的なるもの、自己自身を見るものの不完全なる形と考えるのである。弱き直観と考えるのである。
普通に概念といえば、類と種の関係から成る抽象的概念という如きものが考えられるのであるが、かかる関係はそれ自身に於いて完全なるものでなく、それ自身に於いて理解されるものでない。我々は判断の主語と述語の関係を離れて種と類の関係を理解することはできない。種と類の関係には自ら主語と述語の関係が含まれていると考えることができる。判断は客観的対象を志向するによって判断となる。判断を判断たらしめるものは客観的対象でなければならない。判断の根柢は客観的なる或物に於いてあるのである。これを主語となって述語とならない個物的本体と考えることもできるが、判断の主語として述語可能なるには既に何らかの意味において一般的性質を帯びたものと言わねばならない。判断の真の主語はかえって一般的なるものにあると考えることができる。これに於いて判断は一般的なるものの自己限定となる。斯くして具体的一般者というものが考えられるのである。
しかし右の如き意味においての具体的一般者という如きものを考えたのでは、単なる主語的統一として考えられる本体という如きものとは異なるとしても、かかる一般者の自己限定として考えられるかぎり、なお意識作用としての判断を明らかにすることはできない。一つの具体的一般者として限定される以上、それはまた主語的に考え得るものでなければならない。考えられたもので考えるものではない。これより判断の主観性は出て来ない。かかる判断作用を内に包むものは、述語となって主語となることなき超越的一般者でなければならない。かかるものが真の具体的一般者として、判断作用というのはかかる一般者の限定として考えられるのである。
自己自身を理解する概念は少なくも具体的一般者でなければならない。いわゆる抽象的一般概念という如きものはその不完全なるものに過ぎない。しかし具体的一般者の根柢には、これを包む超越的述語面すなわち意識面がなければならない。斯くして初めて真に具体的ということができ、自己自身を理解すると言うことができる。しかし述語面が超越的であるということは、もはやそれを対象的に考えられないと言うことを意味する。これについて対象的知識が成立しないと言うことを意味する。これに於いて我々はいわゆる概念的知識の世界を超えて直観の世界に入るのである。斯く具体的一般者の一方に抽象的一般者が考えられ、他の一方に超越的述語面として意識面というものが考えられるのであるが、具体的一般者の中に於いても判断的一般者と推論式的一般者を区別することができる。自己の中に自己の主語を包むものを判断的一般者とすれば、更にかかる一般者を包むものが推論式的一般者である。概念の特殊と一般の関係を押し進めて行けば、いわゆる抽象的一般者に於いては真に主語となって述語とならない個物的なるものを包むということはできない。判断的一般者に至ってはこれを内に包むということができる。しかしそれはなお対象的個物である。なお限定された一般者に於いて限定されたものである。未だ自己自身を限定するものではない。自己自身を限定するものをも包むものは更にこれを超えたものでなければならない。推論式的一般者に到って、漸く自覚的に限定されたものを包むということができる。反省的対象界という如きものが考えられるのである。小語面と大語面の対立が主観と客観の対立を表し、媒語的なるものによって両者が結合されて、一つの一般者を構成するのである。主観と客観を包む一般概念はないと考えられる如く、無論それは単なる判断の根柢となる判断的一般者という如きものではない。しかし媒語面的統一によって一つの推論式的限定が成立するかぎり、私のその根柢になお限定された一種の一般者を考え得ると思う。ここまでを概念的知識ということができる。これを超えれば超越的述語面の世界、すなわち直観の世界に入るのである。そして翻って見れば、これらの段階は超越的述語面の自己限定の段階に過ぎない。抽象的一般者から具体的一般者への内的発展の要求は、裡面(裏面)から見れば知るものの要求である。
【超越的述語面の背後に直観の世界というものが考えられるが、無論単に述語面の超越ということから、すぐ直観の世界というものが考えられるのではない。それにはなお自覚的限定の超越ということがなければならない。ここではただその自己限定として概念的知識の成立する一般者の立場において論じているのである。かかる具体的一般者、すなわち広義における判断的一般者というものの立場において、厳密なる意味においての判断的一般者と既に直観に裏付けられた推論式的一般者、すなわち超越的述語面的方向に広げられた一般者を考えることができる。故に推論式的一般者の底には、既に主観と客観の対立が予定され、小語面と大語面が対立するのである。小語的なるものは自覚によって限定されたものとして、自己自身を限定すると言い得るのである】
具体的一般者を推論式的一般者の形にて考えるならば、繋辞は媒語となり、媒語的限定は「時」の範疇の意義を有っている。媒語的なる「時」の種々なる意義によって、いわゆる主観界、客観界等種々なる世界の区別、関係が限定されるのである。種々なる作用の意義も、媒語的なる「時」の意義によって変じるのである。更に推論式的一般者をも包む具体的一般者を考えることによって、直観の世界と概念の世界の関係を明らかにすることができる。かかる一般者に於いてあるもの、すなわち小語的方向に超越したものに対しては、もはや大語面的限定は成立しない。「有るもの」は「時」に於いてあるものでなく、ただ、「時」に於いてその影を映すものである。
【具体的一般者の超越的述語面というのが、その裏から見て既に意識一般の意識面という意義を有し推論式的一般者においては既に直観によって裏付けられているとするならば、かかる一般者の内容として客観的に限定されたものは、我々の客観的対象界と考えるものでなければならない。かかる一般者の超越的述語面自身の限定が範疇的限定と考えられるものである。しかし推論式的一般者というのは既に直観の世界に直接するという意味において、単に対象界を限定するというのみならず、直観的なるものの自己限定面たる主観面を含むものでなければならない。小語面と考えられるものがそれである。故に媒語面的限定が超越的述語面自身の限定として直ちに客観的対象界を限定すると考えられたのも「時」の範疇である】
五
私はいわゆる主客の対立をも概念的知識の構造に即して考え、抽象的概念から直観に至るまで同一の型によって考えようとするのであるから、いわゆる合理的なるものと非合理的なるものとの対立をも、普通に考えられる如く相反し、相対立するものではなく、すべての概念的知識の構成的要素として考えたいと思う。逆説のようではあるが、如何なる概念にも、合理的部分と非合理的部分が含まれている。すべて超越的述語面に於いてあるものが非合理的と考えられるのである。故に我々に対して与えられると考えられる非合理的なるものは、すべて小語面に於いて与えられ媒誤的なる「時」を通じて合理化されるのである。ただ、知るということを作用的関係と見る考えから出立して、その背後にこれを包む超越的述語面を見ないから、合理的と非合理的とが相対立するのである。
我々がこの物として考えるものは、経験的に与えられたものとして非合理的と考えられる。しかし我々がこれについて何らかの判断を下す以上、それは何らかに意味において一般的なるものに於いてあると考えねばならない。判断が一般なるものの自己限定と考えるならば、斯く考えざるを得ない。非合理的なるものとは概念的となるとは考えられないのである。ただ、かかる一般者が超越的述語面という如きものであって、限定することができないと言うに過ぎない。それは推論式的一般者をも超えたものであることを意味するのである。それで、何処までも主語的統一の成立しない超越的述語面の直接の限定ともいうべき我々の自覚的意識に於いて与えられるかぎり、それについて判断的知識が成立するのである。自己意識というものが成立するかぎり、事実的判断が成立するのである。自覚的意識に於いて現れるものが真に時間的なるものであり、「時」の範疇によって非合理的なるものが概念化されるのである。そして我々の自覚的意識というのは、ただ、述語となって主語とならない超越的述語面の自己限定としてのみ考え得るのである。あるいは如何にして超越的述語面という如きものが考え得るかというでもあろう。我々は主語と述語を結合して何は何であると言う時、判断的知識が成立するのであるが、更にかかる一般者の限定を超えて、一方に主語となって述語とならない、すなわち主語に付着して述語面に達せない判断を考えることができるとすれば、一方に述語面的限定として主語とならない、すなわち述語に付着して主語面に達しない判断という如きものを考えることができる。「私がある」という判断は普通に考えられる如き事実の意識ではなく、かかる判断を意味するのである。述語不完成の判断に対して主語不完成の判断を意味するのである。判断が一般者の限定として成立し、判断の根柢に一般者がなければならないとするならば、「私がある」ということによって判断が成立すると言わねばならない。私が知るということは、概念的に限定されることを意味するのである。
経験的事実の知識が右の如き意味において合理的と考え得ると共に、合理的と考えられる数学的知識の如きものであっても、非合理的なるものを含まないのではない。数学的知識の根柢に直覚があると考えられる如く、その内容は超越的述語面に於いて与えられるものでなければならない。ただ、その述語面がまた主語面的に限定することができ、いわゆる同一判断の両面の如き形を成すが故に、その所与は概念の外延という如きものとなる。無内容なる対象と考えられるのである。そして主語面と述語面を繋ぐ媒語的なる「時」は、言わば過、現、未が一点に合した「時」である。従って経験的知識においてその根本的条件となる如き自覚的意識の限定は、数学的知識においては必要ではない。ただ判断を包む思惟意識というにて十分である。数学的対象は純粋思惟の対象と考えられる所以である。しかし数学的知識といえども単に抽象的思惟によって考えられるのではない。その内容を与える一般者は何処までも具体的でなければならない。
六
我々の知識は「私がある」ということから始まる。しかし「私がある」ということは物の知識でもなければ事実の知識でもない。また真に知るものは西南学派などで考えられる総合統一の主観でもない。超越的述語面が自己自身を限定することである。自己の中に自己を認めることである。超越的述語面が自己の中に自己を認めるとは何を意味するか。特殊が一般に於いてあり、前者が主語として後者が述語として判断によって結合されたもの、すなわち特殊と一般の関係に主語と述語の関係を含めた一般者を真の概念とするならば、判断の主語的方向に於いて何らかの意味において主語的統一が成立するかぎり、対象的知識が成立するのであるが、主語的方向に於いて主語的統一として成立しない時、すなわち主語的なるものが超越的となった時、我々の自覚の意識が成立するのである。前にはこれを単なる述語的限定と言ったが、それは主語的なるものがないということを意味するのではない。特殊を含まない一般は一般とは言われない。ただ、述語面の底に無限に深い超越的主語を含むということである。意識作用から言えば、無限に深く自己の中に自己を志向するということである。対象として考えられない対象が自己である。一般者が自己自身を限定するということは、何らかの意味において自己自身の中に主語的統一を見ることである。主語的有を意味するものが見られるかぎり、その一般者は限定されたものとして、これに於いて概念的知識が成立するのである。判断的知識は述語的一般者の限定によって成立すると考えるならば、我々の知識は実に「私がある」ということから始まるのである。
私の超越的述語面というものは、自己の中に無限に深い主語的統一を見るものである。自ら無にしてしかも自己自身の中に自己を限定するものである。超越的述語面というのは判断的限定の立場から考えられたものであるが、我々の真の自己というのはかかる一般者を超えてあるものである。かかる一般者を超えた無限に深い一般者の中に映された達することのできない主語的統一が、我々の真の自己というべきものである。自己の内容が限定されるかぎり、何らかの意味においてそれが概念的知識への関係を有つと考え得られるであろう。しかし我々の真の自己は何処までも深い所にあるのである。それは主語的統一の意味を絶したものである。故に意志するもの、否、自己自身を見るものが真の自己である。真の自己は概念を絶した世界に住むのである。主語的統一の成立しない世界に於いてあるのである。そしてかかる世界が我々に最も直接な世界である。この世界の底には何物もない。我々は知的対象の世界に於いて住むのではなく、知的対象の世界は真に我々の住む世界の表面に過ぎない。
【この論文においては単に判断的一般者の自己限定の立場に於いて考えているから、ただ、超越的述語面自身の自己限定という事によって自覚というものを考えるの外なく、それ以上のものは考えられないのである。しかし述語面が述語面自身を限定するという時、既にこれを超えて自己自身を限定するものがなければならない。超越的述語面に於いて限定されるものは個物という如きものであるが、これを超えて自己自身を限定するものを包む一般者というものは、自覚的一般者という如きものでなければならない。更にこれを超えて自己自身を見るものを限定するものとして叡智的一般者というものが考えられねばならない。超越的述語面が無限に深くその底に深められることによって、無限に深い自己を包む一般者に到るのである。これに反し、判断的一般者の述語面が主語的に限定され、判断的自己限定をも失ったものが、抽象的一般者と考えられるものである。抽象的一般者とは自己限定を失った判断的一般者である】
しかしかかる超越的述語面を超えた世界については後に語ることとする【「叡智的世界」を見よ】。具体的一般者の超越的述語面の底に、更にこれを超えた無限に深い一般者が考えられると共に、その反対の方向に抽象的一般者という如きものを考えることができる。抽象的概念は普通に述語面と考えられるのであるが、逆に述語面の主語的に限定されたものとして主語的と言うこともできる。述語面が主語的に限定されたものと考えられることによって、いわゆる抽象的一般者が成立するのである。種と類の関係は単に判断の主語となるものの関係である。判断の真の主語は総合的全体にあると考えられるが、かかる意味において主語と考えられるものは、私のいわゆる超越的述語面という如きものであって、いわゆる判断の主語ではない。かかる述語面が自己の中に自己を限定したものが、いわゆる判断の主語となるのである。そしてかかる意味において限定されたものは、自己の中に自己限定を含まないものとして何処までも抽象的たるを免れない。
抽象的概念は判断の述語となると考えられる。赤が色であるという時、色という如きものが抽象的一般概念と考えられる。しかしかかる一般概念が限定されるのは、更に大なる一般概念に於いて限定されねばなるまい。それは更に大なる述語面に於いて主語的に限定されたものである。ただ、これをその中に含まれたものに比して、一般的と考えられるのである。真に自己自身の中に特殊を含む一般者は、具体的一般者の超越的述語面という如きものでなければならない。そしてそれはもはや主語的に限定することはできないかえって個物もこれに於いてあるものである。ただ、超越的述語面の直接なる自己限定によって限定された述語面として、潜在的に自己限定を含むと考えられるかぎり、述語的一般者の意義を有するのである。しかしそれが限定されたものであるかぎり、それは自己自身を判断的に限定することはできない。主語的に限定されたものである。抽象的一般者はいつも具体的一般者の中に含まれるものでなければならない。
七
主語的なるものが述語面に於いてあり、判断によって両者が結合される。述語面の主語的限定が判断となるのである。述語面の主語的限定の形式がいわゆる範疇であって、これによって種々なる判断が成立するのである。故に判断の根柢には「私」というものがなければならない。超越的述語面そのものを直ちに現すものは自覚的意識である。かかる意識面の主語的に限定されたものが、上に言った如く超越的述語面自身の直接なる自己限定として抽象的一般者となる。一般者の自己限定をその背後から見て自覚的と考えるならば、一般者は自己の中に自己の影を映すものである。それが超越的述語面の直接なる自己限定である。判断は主語と述語面を繋ぐものであるが、判断が述語面の主語的に限定された主語面に属し、潜在的にこれに含まれると考えられる場合は、抽象的一般者というものが考えられ、これに反し、判断が述語面に属し、完全にその中に含まれると考えられた時、具体的一般者というものが考えられるのである。
それで、首都類の関係において統一されるいわゆる抽象的一般者と言われるものは、すべて主語面に於いてあるものである。種と類の関係は主語面的統一である。無論、それも元来超越的述語面の限定されたものであるが、その中に自己自身を限定するものが、見られない。かくの如き意味において自己自身を直接に限定する超越的述語面が、我々の直覚的意識と考えるものである。そしてそれが抽象的一般者にその内容と関係を与えるのである。抽象的一般者の限定には、一方にいつもかかる直覚面が予想されねばならない。いわゆる直覚的意識と考えられるものは、自覚的意識と同一面に属するものであるが、未だに自覚的意識の如く自己自身を媒介しないものである。
首都類の関係には自ら主語と述語の関係を含み、かかる概念的関係の背後にこれを包む超越的述語面がなければならない。これによってかかる関係が成立するのである。ただ、媒介的なるものが隠れているから、主語的に限定された類概念、アリストテレスのいわゆる第二本体の如きものが、直ちに超越的述語面の役目を演じる如くに考えられるのである。しかし真の概念は自己の中に主語を有ち、自己自身を媒介するものでなければならない。私のいわゆる判断的一般者でなければならない。特殊と一般の関係に主語と述語の関係を含め、かかる関係を何処までも押し進めて行けば、主語的方向に於いて主語となって述語とならない個物、すなわちアリストテレスの第一本体の如きものに到達すると共に、述語的方向に於いて述語となって主語とならないものが見られねばならない。そして後者が前者を包むと考えられなければ、個物についての判断は成立しないのである。判断的一般者に至って、初めて超越的述語面という如きものが明らかになるのである。
超越的述語面そのものは主語的に限定されるものではない。しかし主語的に自己を限定するが故に述語面である。述語面に於いて主語的限定が成立するかぎり、いわゆる概念的知識が成立するのである。超越的述語面は自己自身の中に自己同一なるものを含むことによって、自己自身を限定する。主語的方向に自己同一なる個物を見ることによって、自己自身を限定するのである。第一本体としての個物という如きものは、直ちに超越的述語面に於いてあるものでなければならない。これ故に、抽象的一般者の立場からは、主語となって述語とならないと考えられるのである。そして自己同一なるものにして初めて超越的述語面自身の直接の限定と言い得るが故に、それがアリストテレスの考えた如く根本的範疇となるのである。これを主語として種々なる判断が成立するのである。しかし判断的一般者に於いては、なお推論式的一般者に於いての如くに媒介的なるものは現れない。ただ、自己同一なるものは超越的述語面自身の限定として、自己自身を媒介するものの端緒を開くのである。超越的述語面たる自覚的意識は、先ず自己同一なるものとして自己を媒介し自己を限定するのである。
抽象的概念を統一するものは、背後よりこれを包む超越的述語面であり、抽象的概念の体系とはその主語面に於いてあるものの統一なるが故に、反対とか矛盾とかいう如き概念と概念との関係もかかる立場から考えてみることができる。概念を包む概念、すなわち述語的一般者が主語的に限定し得るかぎり、いわゆる包摂的関係が成り立つ。しかしある一つの概念とその否定的概念はこれを包む主語的概念はない。我々は肯定と否定を含むものを主語として考えることはできない。しかし我々が或物とその否定的なるものを区別する以上、この両者を包むものがなければならない。そしてそれは既に述語となって主語となることなき超越的述語面の性質を有ったものでなければならない。アリストテレスの変じるものとは、かかるものの自己限定に外ならない。かかるものに於いては、もはや主語的統一の成り立たない、ただ超越的述語面自身の直接限定なる「私」という如きものが基礎となって、肯定と否定を包むものが考えられるのである。変じるものが考えられるには、いわゆる「私」というものの反省がなければならない。ある一つの限定された一般概念から出立して、その特殊化の極限において、主語となって述語とならない個物というものを考えることが出来るであろう。そしてそれは直ちに超越的述語面に於いてあると言うことができる。しかし斯くしてなお変じるものというものは考えられない。変じるものはかかる極限をも超えたものでなければならない。超越的述語面が自己の中に自己を限定するに当たって、個物的なるものを超えても、なお主語的なるものを考え得るかぎり、「変じるもの」という如きものが考えられるのである【そして更にかかるものを超えたもの、生滅するものが考えられる】。矛盾するものは完全に主語として統一することのできないものである。
八
特殊と一般の関係に主語と述語の関係を含め、かかる関係を何処までも押し進めて行けば、一方に主語となっていわゆる述語とならない個物に達すると共に、一方にこれを包む超越的述語面という如きものが考えられねばならない。主語的統一によって成立する概念的知識は、この上に出ることはできないであろう。しかし判断は主語によって成立するのではなく、述語的一般者の自己限定によって成立するのである。判断的知識の成立する前に、いわゆる主語的統一の成立しない超越的述語面の直接の限定という如きものがなければならない。一方に主語となって述語とならないものを考え得るならば、一方に述語となって主語とならないものを考え得るのである。「私がある」というのはかかる判断を表すものでなければならない。すべての判断的知識の根柢には「私がある」という如き限定がなければならない。単に主語的限定を中心とする判断的一般者に於いては、なおかかる超越的述語面自身に直接なる自己限定が現れないまでである。
超越的述語面の直接なる自己限定とか、主語的統一の成立しない述語的統一とか言っても、私は主語的なるものがないと言うのではない。述語面が自己自身を限定するということは、自己の内に主語的なるものを見ることである。述語的なるものはいつも主語的に自己を限定するのである。ただ、無限に深い超越的述語面は、自己の内にいわゆる判断の主語として限定のできない、無限に深い主語的なるものを見るのである。「私がある」ということも、かかる意味に考えれば、一種の主語的限定ということができる。「私」というのは元来意識の外に、またはその底に考えられた形而上学的実在ではない。また心理学者の考える如き一種の現象でもない。主語的統一として成立しないものを主語とすることによって、自己自身を限定する超越的述語面の直接なる自己限定として考えるべきものである。自己同一なるものに至って、主語的なるものが超越的述語面に撞着したと言い得るでもあろう。しかし「私」というのはかかる自己同一なるものを内に包んだものである。自己同一なるものにおいては、主語と述語が合一すると考えることができる。なお述語が主語的に限定されると考えることができる。「私」の意識に於いては、ただ自己の中に自己同一なるものを見るのみである。抽象的一般者に於いては、外に超越的なるものを見、自覚の意識に於いては、内に超越的なるものを見るのである。自己自身の中に自己の影を見るのである。自己自身の影を自己の中に映すことによって自己を限定するのである。論理的には矛盾とも言えよう。しかしかかるものが、我々に最も直接なる体験的所与である。論理的知識もこれによって成立するのである。述語面の主語的限定の極致として、かかる自覚的限定が成立するかぎり、なお概念的知識の世界が構成されるのである。我々が判断的一般者を超えて、なお推論式的一般者に於いて成立する概念的知識の世界を有し得るのは、かかる限定に基づくのである。
推論式的一般者に於いては、小語と大語が対立し媒誤によって結合されて、一つの一般者を成すのである。小語的なるものは特殊的なるものであり、主語的なるものであり、大語的なるものは一般的なるものであり、述語的なるものである。媒語的なるものは判断的一般者に於ける判断に相当するのである。小語的なるものと大語的なるものが、相対立し、小語的なるものが直ちに大語面に於いてないと考えられることによって、推論式的一般者が判断的一般者から区別されるのである。然らざれば、主語が直ちに述語的一般者に於いてあるものとして、判断的一般者と異なる所はない。推論式的一般者に於いて主語的意義を有する小語的なるものは、単に主語となって述語とならない個物的意義を有するのみならず、いわゆる主語的統一として成立しないという意義を有するものでなければならない。すなわち自覚的意識に於いてあるものでなければならない。逆に言えば、自覚的意識というものがあって、超越的述語面が反省され、これによって推論式的一般者という如きものが構成されるのである。例えば、帰納法的一般者に於いても、自覚的意識に於いて限定されることによって、特殊なる事実が一般的意義を有するのである。数学的知識の如きものについても、直接所与の意識がなければならない。そしてすべて直接所与の意識は超越的述語面の直接なる自己限定として、一種の自覚と考えることができるのである。
それでは大語的なるものは如何なるものであるか。推論式的一般者に於ける大語面とは何を意味するか。それは推論式的一般者が小語面的に、すなわち主語的に自己自身を限定することによって現れる述語面的限定でなければならない。超越的述語面の抽象的限定面ということができる。判断的一般者に於いて我々は個物について述語する時、述語的なるものは抽象的一般者に於いてあるものである。判断的一般者は自己自身に於いてあるものの内容を、自己自身の抽象的限定面たる抽象的一般者に於いて限定することによって、自己自身を限定すると言ってよい。推論式的一般者が個物的主語により更に深い主語的なるもの、すなわち「私」という如きものによって自己自身を限定する時、これに対して述語的方向に現れるものは、抽象的一般者に於いてあるという如きものではなくして、判断的一般者に於いてあるという如きものでなければならない。推論式的一般者に於いて大語面的なるものは、その限定として判断が成立する判断的一般者という如きものでなければならない。そしてそれは推論式的一般者の超越的述語面の抽象的限定面と考えるべきものである。推論式的一般者とは判断的一般者を包んだものである。判断的一般者の一般者である。普通の形式論理学に於いて考えられる如き推論式は単に類と種の包摂的関係を重ねたものに過ぎない。推論式的一般者の意義のみならず、判断的一般者の意義をも有たないものである。
すべて一般者は主語的限定によって自己自身の内容を限定する。判断とは一般者が自己自身を限定する過程である。推論式的一般者は小語面的限定によって自己自身の内容を限定する。すなわち既にその背後に自覚的意識というものが成り立ち、その自覚的限定によって自己自身の内容を見るのである。自覚的意識によって小語面的内容が限定されると共に、これに対して大語面的なる対象界が成立し、かつて「知るもの」において論じたように、媒語的なる「時」によって推論式的一般者が自己自身の内容を発展するのである。我々の世界と考えるものは斯くして成立する推論式的一般者の内容である。我々の自己というのは見る眼という如きものであり、世界は「時」によって自己自身を顕現するのである。これ故に我々は種々なる主観の立場によって種々なる世界を見るということができる。自覚の種々なる意義によって種々なる意義の小語面が限定され、所与の範疇たる「時」の内容が種々に考えられるに従って、種々なる認識対象界が限定されるのである。何処までも主語とならないもの、ただ自己の中に無限に深い主語的なるものを見るもの、すなわち超越的述語面そのものの直接限定とも考えるべき「私」というものが定まることによって、超越的述語面の内容が限定されるのである。かかる限定がいわゆる範疇的限定と考えられるものであり、かかる自己がいわゆる認識主観である。単なる判断的一般者に於いては未だ潜在的であったこれらの関係が、推論式的一般者に於いては顕現的となるのである。
【単なる判断的一般者に於いてはなお主語面と述語面が対立しない。すなわち能限定面(超越的述語面そのもの)と所限定面(前者の抽象的限定面)が対立しない。主語となって述語とならない個物は超越的述語面に於いてあると考えられるのである。しかもその超越的述語面は何処までも限定すべからざるものである。然るに推論式的一般者に於いては、小語的なるものは自覚的限定によって与えられたものとして、小語面は超越的述語面すなわち場所の直接の限定面と考えられ、小語面と大語面が対立するのである。かかる推論式的一般者の限定に於いて、その大語面的方向すなわち所限定面的方向に限定されたものが客観的世界と考えられるものであって、かかる客観的世界が推論式的一般者の場所(超越的述語面)すなわち能限定面によって限定されたものとして、範疇的に限定されたものと言うことができる。範疇的限定とは推論式的一般者の場所そのものの限定を意味するのである。そしてかかる場所そのものの限定が述語面的限定として自覚的限定と考えられるが故に、認識主観の自覚的限定と考えることができる。意識一般的自己の自覚は小語面的に自己自身の内容を限定すると共に大語面的に客観的世界を限定するのである】
普通に自覚というのは単に知的自覚を意味するのであるが、「私」というのは自己の中に無限に深い主語的なるものを包むもの、逆に超越的述語面の直接の限定として主語的なるものと言い得るならば、自覚そのものに無限に深い階段を見ることができる。考えるとか、知るとかいうも時間的なる作用としては、なお推論式的一般者に於いて限定されたものたるを免れない。そして知的自覚と考えられるものは、考えるとか、知るとかいうものが考えられるもの、知られるものとして、対象的に限定されると共に、それが直ちに考えるもの知るものであるとして、これを包む超越的述語面自身の直接限定と考えられたものである。しかしかかる意味に於いての自覚はなお対象的に即して考えられた自覚である。完全に主語的なるものを自己の中に没し去った自覚ではない。真の自己は意志する自己、見る自己でなければならない。いわゆる自覚を超越するが故に、それは自己を失うとも考えられるであろう。しかしかかる意味に於いて自己を失う時、我々は真に自己を得るのである。知的自覚は真の自己の影像に過ぎない。これ故に我々は無限に深い自己を見ることによって、無限に深い世界を見るのである。
九
私は種と類の関係に主語と述語の関係を含め、かかる関係を何処までも押し進めて行って、仮にも概念的知識として成立するものは、すべてかかる形式に於いて成立すると考えるものである。そしてかかる関係をその底から見れば、我々の自己が自己自身を限定することである。自覚とは論理的に言えば無限に深い主語的なるものを含む述語面的限定である。いわゆる主語的統一の成立しない述語面的限定を意味するのである。かかる述語面的限定に於いて判断的知識が成立するのである。概念的知識の底に何処までも深いものがあると考えられるのはこれによるのである。しかし今はただ、概念的一般者に於ける種々なる限定についてのみ考えてみよう。
判断とは主語と述語を結合するものであり、判断が成立するというのは主語が述語に於いてあることを意味するのである。主語的なるものが、直接に超越的述語面によって限定されるかぎり、真の判断が成立する。述語面が主語的に自己自身を限定すると言うことができる。私の判断的一般者というのは、かかるものを意味するのである。しかし広く概念的知識を自覚的限定と考え得るならば、これと異なった種々の概念的知識が成立すると考えることもできる。一方には、主語的統一が主となって超越的述語面が隠れたもの、無論述語面なくして概念的知識は成立しないが、述語面がまた主語的に限定され得ると考えられるもの、すなわちこれに対して述語面の直接なる自己限定の見られないものが考えられると共に、一方には、超越的述語面の直接なる自己限定の上に立って、かえって主語的統一が成立しないと考えられるもの、無論主語的限定なくして概念的知識は成立しないが、自己の中に無限に深い達することのできない主語的なるものを見るもの、すなわち述語面が自己自身を主語とするものを考えることができる。そしてその間になお種々の階段を見ることができるであろう。
超越的述語面が未だ自己自身の限定に達しない時、すなわち主語的に限定されるものが述語的一般者となる時、抽象的概念の体系が成立する。真に特殊と一般を媒介するものがその中に含まれていないから、単に特殊は一般に於いてあるものと考えられる。特殊と特殊の間、特殊と一般の間を結合するものは単なる関係という如きものに過ぎない。述語面的限定が蔽われている時、主語的なるものと主語的なるものを結合するものが関係と考えられるものである。元来、類と考えられるものも、その実、特殊と対立的に考えられるものである。共に主語的に限定され、比較されるものである。斯く考えれば、類が種を含むということすら言えない。ただそれが超越的述語面の限定されたものとして、類が種に於いてあるとか、類が種を含むとか考えられるのである。しかしそれは超越的述語面の限定されたものであって、自己自身を限定する超越的述語面そのものではない。これ故に、抽象的概念の関係に対しては、超越的述語面の直接の限定として知覚的意識という如きものがなければならない。そしてそれは自覚的限定に於いてのみ見られるのである。例えば、二つのものを単に主語的対象として見るならば、赤は色であるということすら言い得ない。赤が色であるということは、赤は色という一般者の自己限定であるという事を意味していなければならない。ただ、一般者が自己自身を媒介しない時、すなわち単に主語的に限定されて述語的媒介者が潜在的である時、類と種の如き関係が成立するのである。かかる意味に於いて考えられる一般者というのは、単なる外延的一般者と言う外はない。
右の如く主語的統一に傾いた概念的知識が考えられると共に、述語的統一に傾いた概念的知識というべきものを考えることができる。「私がある」という自覚によって基礎付けられる概念的知識がそれである。「私」というのは判断の主語として考えることのできないものである。主語として限定し得るものなら、それは既に「私」というものではない。然らば、「私」というのは主語とならないものであろうか。一方から言えば、かえって真に主語となって述語とならない主語と言うことができる。主語が超越的述語面を超えた主語ということができる。これ故に判断的一般者の立場からは、その限定が超越的述語面自身の直接限定とも言い得るだろう。これを主語的方向に於いて見れば、自己同一として超越的述語面をも超えたものと考えられるが、これを述語面から見れば、述語面自身の直接なる自己限定と考え得るのである。自己とは単に自己同一なるものではなく、自己同一なるものを内に包むものである。自己の中に自己を見るものである。既に「私がある」という如き自覚によって基礎付けられる超越的述語面の自己限定ともいうべきものが成立するならば、かかる具体的一般者に於いて主語的なるものと述語的なるものを結合する媒介者は如何なる形を取るであろうか。判断的一般者に於いて判断と考えられたものは、自覚的一般者に於いて如何に考えるべきであろうか。自覚とは、限定された述語面の中に、無限に達することのできない深い主語的なるものを見ることであるとするならば、主語面と述語面は相対立し、判断的一般者の意味に於いて両者を包む一般者という如きものは考えられないと言わねばならない。しかし自覚に於いて初めて主語面と述語面と相対立し、しかも主語的なるものが我々の自覚的内容として考え得るとするならば、なお概念的知識成立の範囲内にあるものとして、両者の結合を示すいわゆる媒介的なるものが限定されねばならない。私は推論式的一般者とは斯くして成立するものと思う。右の如き意味に於いて判断的一般者と推論式的一般者はその性質を異にするのである。数学的知識も推論式的と考えられるのは、小語面的所与が何処までも大語面的なるものに対立しているによるのであろう。いわゆる経験的科学の知識においては、我々の自覚に於いて与えられる事実的知識に基づいて、概念的知識が構成されるのである【純粋自我の総合統一によって我々の経験的世界が構成されると考えられるのもこれによるのである】。
推論式的一般者は述語面の中には無限に到達することのできない主語的なるものを含まねばならない。小語面的限定が成立することによって推論式的一般者が成立するのである。推論式的一般者の超越的述語面に於いてあるもの、すなわち真にその主語となるものは、固より概念的に限定することのできないものであろう。しかしそれが自覚的意識に於いて小語面的にその内容が限定され得るかぎり、概念的知識として推論式的一般者という如きものが成立するのである。斯くして、その限定された内容は超越的述語面に反映されて、大語面というものが形成されるのである。それで推論式的一般者は直接に小語面的に自己自身を限定することによって、間接に大語面的に自己自身を限定すると言うことができる。推論式的一般者は小語面的に自己自身を限定するのであるが、その内容が大語面的に限定され、媒語的なるものの結合によって一つの一般者を形成するのであるから、推論式的一般者の内容はいつも媒語的なる「時」に於いて限定されなければならない。推論式的一般者の内容は時間的に自己自身を限定して行くのである。小語面的なるものが、いつも現在と考えられ、その限定の行先が未来と考えられ、大語面的に反映された部分が過去と考えられるのである。これに反し小語面的限定によって推論式的一般者の内容が限定されるという立場から言えば、「時」は主観的統一の形式すなわち範疇として、これによって我々の経験的認識の対象界が構成されると考えることができる。推論式的一般者に於いてその内容を限定する小語面的自覚が、いわゆる認識主観と考えられるのである。自己自身の中に無限に深い主語的なるものを見る小語面的自覚が、何らかの意味に於いてこれに於いてある主語的なるものを限定し得るかぎり、認識対象界が成立するのである。すなわち自覚の内容によって種々の認識対象界が成立するのである。無論、既に述語となって主語とならない述語面に於いてある主語的なるものは、到達することができないと言いながら自覚に於いて主語的なるものが限定されると言うのは矛盾と考えられるでもあろう。しかし私がここに小語面的自覚というのはなお概念的に自己自身を限定する自覚を意味するのである。知的自覚を意味するのである。述語となって主語とならないと言うもなお概念的限定に即した自覚である。先ず一般概念的なる述語面というものが限定され、これに於いて無限に到達することのできない主語を含むと考え得るのである。いわゆる有限の中に無限を含むと考えるのである。故にその内容は翻って直ちにこれを述語面的内容として限定し得るのである。かかる限定を我々は自己の内容を反省すると考えるのである。
大語と小語が媒語によって結合される推論式的一般者の内容を、大語面に基礎を置いて考えれば、客観界が時間的に自己自身を限定し行くと考えることができる。かかる考え方の極限に於いて、小語面は単なる数学的点の如き現在となり、推論式的一般者の内容は形式的「時」すなわちいわゆる物理学的「時」に於いて現れるものとして、いわゆる自然界という如きものを考えるの外はない。これに反し、小語面的自覚によって、「時」の現在が種々なる意味を有つに従って、種々なる意味の経験界が考えられる。小語面的限定を基礎として考えれば、その極限に於いて、これに対し大語面が成立しないとすら考えられる歴史の世界という如きものが考えられるのである。これ故に歴史の世界に一般的法則はないと考えられる。しかし歴史の世界といえども、なお自覚的内容が概念的に限定され得るという意味において成立するのであって、なお認識対象界に属するのである。【更に小語面が超越的述語面の直接なる自己限定という意味に於いて如何なる意味に於いても時の中に入り来ることなく、従って何らの意味に於いても働くと言うことのできない、かえって時を自己自身の限定となす認識主観という如きものも考えられねばならないのである。】
十
判断は主語と述語の結合によって成り立ち、述語的一般者に於いて主語的なるものが限定され得るかぎり、概念的知識が成立すると言うことができる。主語について述語すると言うことは、一方から見れば特殊が一般に於いてあるということを意味する。かかる意味においては一般は「於いてある場所」と考えることができ特殊は「於いてあるもの」と考えることができる。概念的知識成立の根柢には、かかる関係がなければならない。具体的一般者に於いては、かかる関係が見逃されるのであるが、私は仮にも判断的知識と考えられるかぎり、何処までもかかる外延的関係が付き添うものと思う。事実的判断の如きものについても斯く考えるのである。
普通の形式論理学に於いて、内包が増加するに従って外延が減少されると考えられるが、概念は何処までも自己自身の中に自己を特殊化し、何処までも特殊化されたものを包むと考えるならば、内包が増加するに従って外延が増加すると考えることができる。概念の外延的関係というのは特殊が一般に於いてあるということを意味するのである。かかる場合、一般は「於いてある場所」の意味を有するのである。ある一つの一般概念を特殊化して行き、いわゆる最後の種に至るも、なお元の一般的なるものに包まれていると考える時、外延的関係というものが成立するのである。特殊化の方向と逆の方向に於いて(外延的関係が)成立するのである。我々が或物を考えるには、その物は何らかの内容を有たねばならない。そして或物が内容を有つと言うには、他との関係に於いてでなければならない。唯一のもののみにて内容を有つと言うことはない。しかし関係というものが成立するには、関係の項となるものがなければならない。項なくして関係というものは成立しない。かかる項を包み、その関係を成立せしめる場所となると言うことが、一般概念の外延的意義でなければならない。一般概念の内容を特殊化して行くと言うことは、裏から見れば一般概念が自己の中に自己を限定することであって、「於いてある場所」の性質によって「於いてあるもの」の内容が定まると考えることができる。すべて、一般者が自己自身の中に自己を限定すると言うことによって、概念的関係が成立するのである。こういう意味において、外延と考えられるものは、一般者の直接なる自己限定を現すものと考えることができる。判断的一般者について言えば、個物という如きものが超越的述語面の直接なる自己限定を示すものと考えることができる。無論、単に無内容なる或物は何物でもない。内包的限定を離れた外延的限定という如きは無意義と考えられるでもあろう。いわゆる抽象的概念という如きものに於いては、未だ超越的述語面の自己限定の意義が現れない。構成的原理というものが明らかとなっていない。単なる主語面的統一と考えられる所以である。しかし単なる内包的関係から、含むとか含まれるとかいう関係は出て来ない。類と種の関係であっても、内包的に言えば、単なる相異とも言える。かかる意味においては、類と種は相対立し、ヘーゲルの如く具体的一般者から見ては、一般もまた特殊と考えることができる。内容の主語的に限定された一般は、特殊たるに過ぎない。真の一般概念として特殊を含むと考えられるものは、何処までも特殊と同列的にその内容を比較することのできないものでなければならない。この意味において超越的でなければならない。しかも特殊を離れたものではなく、特殊を自己自身の限定として自己の内に成立せしめる場所の意義を有ったものでなければならない。ただ、かかる超越的述語面の内容が主語的に限定されると考えられた時、いわゆる抽象的概念となり、その述語面的限定が外延と考えられるのである。述語面に構成的意義を含まないから、これに於いてあるものは「単にある」と考えられる外はない。
判断的一般者に於いては、これに反し超越的述語面の構成的意義が現れて来なければならない。個物というのは、一方から言えば主語となって述語とならないものと言わねばならないが、一方から言えば既に超越的述語面の直接なる限定という意義を有ったものである。類概念に於ける種という如きものとして考えることはできない。かえってかかる意味において主語となるものを内に包むものと言わねばならない。種として考えられるものは、最後のものと言えども性質として個物に含まれるものである。この意味においては含むもので含まれるものでない。ヘーゲルの如く個物が真の一般と考えられるのはこれによるのである。判断の真の主語となるものは、いわゆる主語ではなくして、かえって述語的一般者である。一般的なるものの自己限定として判断が成立するのである。その主語となって述語とならないものとして、主語的方向に見られるものは、超越的述語面の自己限定に外ならない。述語とならないとは類概念的一般者の中に入り来らないということを意味するのである。そして斯く主語的なるものが超越的述語面の自己限定と考えられると共に、特殊が一般に於いてあるという外延的意義が失われる様になって来る。述語面が場所の意義を失う様になる。超越的述語面の代わりに、主語的方向に、すなわち客観的にただ具体的全体という如きものが考えられるのである。しかし我々が個物的なるものを考え得るかぎり、それも一般者に於いてあるものでなければならない。具体的なるものは直ちに具体的概念ではない。具体的概念とは具体的なるものを外延としてこれを包むものでなければならない。(具体的概念は)個物的なるものの於いてある場所の意義を有たねばならない。判断は「於いてあるもの」と場所との媒介となり、「於いてあるもの」は抽象的一般者に於いての如く単に或物という如きものではなく、すべて判断によって媒介されたものである。物とか性質とかいう如きものがその範疇となり、場所そのものは類概念的一般者の如き意味において考えることはできない。超越的述語面として自覚的に反省する外はない。思惟意識という如きものが、かかる場所を示すものであろう。【私は判断の様相とはかくの如く場所と於いてあるものとの関係に於いて考えるべきではないかと思う。「於いてあるもの」が場所に直接すればするほど、判断的知識は必然となるのである。】
推論式的一般者の場所に於いてあるものは、単に自己同一なる個物という如きものではなくして、自覚的限定によって裏付けられ、自覚的限定の意義を有ったものでなければならない。超越的述語面が述語となって主語とならないという様に自己自身を限定したものである。範疇的限定というのはかくの如き意味に於ける限定に外ならない。無論、自己とか自覚とかいうのは何処までも深い意味において考え得るであろう。真の自己というべきものは、かかる一般者に於いてあるものでもない。しかし我々が概念的に自己というものを考えるには、先ず述語的なるものを場所として限定し、その中に無限に達することのできない自己自身の主語を含むと考えるのである。主語を包む述語が主語と同一であるということから、部分と全体が同一であるということから、無限の系列というものが考えられる。無限の系列というのは、なお主語的限定たるを免れないが、場所そのものがかかる主語的系列に対して超越的であると考えられる時、自己の中に自己を映す自覚の概念が成立するのである。述語的に場所が限定され得るかぎり、知的自覚が成立するのであるが、意志的自覚に至っては、更にかかる限定をも超えたものである。右の如き意味において、知的自覚という如きものが成立するかぎり、推論式的一般者が成立し、これに於いてあるものは自覚的限定の意義を有ったものと考えられるのである。
【推論式的一般者の場所に於いてあるものを明らかにするにはなお詳細に考えるべきであろう。小語面というのは、やはり一つの判断的一般者と考えるべきものである。しかしそれは単なる判断的一般者ではなく、場所に於いてあるものとして既に自己自身を自覚的に限定する意味を有っていなければならない。能限定面の意味を有っていなければならない】
推論式的一般者の内容は前に言った如く小語面的内容によって定まって来る。小語面的内容とは自覚の内容を現すものである。小語面的内容が大語面に反映され、両面が相対立すると共に、媒語面的なる「時」によって結合され、一つの推論式的一般者が構成されるのである。その内容はこれを大語面的基礎から見れば、自然界と考えられるであろうが、小語面的限定が自覚によって裏付けられたものとしては、その底に意識界という如きものも見られるであろう。しかし単に有るものとしての自覚、単なる場所そのものの自己限定を自覚と考える立場からは、右の如き推論式的一般者の内容は認識対象界と見られ、場所そのものの自己限定として自覚は意識一般的自覚と考えることができる。自覚とは自己の中に無限の系列を含むものである。しかしこの系列と結合し、その中に入り来るものではない。これ(無限の系列)に対し超越的なる場所の意義を有たねばならない。小語面的に自己自身を限定すると共に、媒語的なる「時」を超越し、しかも媒語的「時」によって自己の中に自己の内容を限定する推論式的一般者の場所は意識一般的自己の意識面という如きものでなければならない。かかる意味における推論式的一般者の超越的場所はこれを限定された推論式的一般者の内容から見れば、かかる内容を限定するが、しかもその中には入り来らない構成的認識主観と考えられねばならない。しかしそれは直ちに超越的場所そのものとしては、また単に構成的なるのみならず、知識内容を与える直覚的主観の意義を有つと考えることができる。大語面的対象界に向いた方面に於いては構成的と考えられるが、小語面的に自己自身を限定し小語面が直ちにあるものとしては、自己自身の内容を直覚し、これを大語面的対象界に反映するものでなければならない。真の認識主観は一方に構成的意義を有すると共に、一方に直覚的意義を有せねばならない。
後の論文によって明らかになる如く意識一般的自己というのは知的叡智的自己というべきものであって、その意識面というのは叡智的一般者の限定面と考えられるものである。かかる意識面に於いてはノエマ的限定とノエシス的限定が対立し、そのノエマ的限定の極限に於いて判断的一般者というのものが考えられるのである。推論式的一般者というのは判断的一般者の中に於いて既に自覚的限定の意義を含んだものである。意識一般的自己の意識面の意義を有ったものである。故に既にノエシス的なる小語面とノエマ的なる大語面が対立し、小語面の底に於いてノエシス的限定面たる自覚的一般者によって限定された意識界に連結すると考えることができる。しかしそれはなお広義に於ける判断的一般者に属するかぎり、意識一般的自己の意識面から自覚的限定の意義を除去したるものとして、そのノエマ面が推論式的一般者の場所と考えられるのである。
【小語面というのは、推論式的一般者に於いてあるものとして、無論ノエマ的面であるが、場所そのものの限定として、一面にノエシス的限定の意義を有っているのである。故に自覚的限定によって裏付けられ、自覚的限定の意義を有つというのである。そしてそれがまた場所に於いて直ちにあるものとして、直覚面的意義を有っているのである。】
判断的一般者の場所の自己限定というべきものが直覚的限定と考えられるものであり、狭義の判断的一般者に於いてはそれは思惟的意識と考えられるものであるが、推論式的一般者に於いては右に言った如く自覚的意識と考えられるものでなければならない。一般者が自己自身の中に自己限定作用を含むかぎり、主語的なるものと述語的なるものを結合する媒介的なるものが考えられねばならない。概念的知識はかかる媒介者の結合によって成立すると考えられるのである。しかしこれを場所そのものたる意識面から見れば、判断とは一方から見れば、主語が述語に於いてあるということであり、その根柢に「於いてあるもの」と「於いてある場所」との関係がなければならない。すなわち外延的関係がなければならない。かくの如く主語的なるものが直ちに述語的なるものに於いてあるということが、いわゆる直覚とか直観とかいうことである。すべて概念的知識成立の根柢にはかかる直覚がなければならない。類と種の関係より成るいわゆる抽象的概念の体系に於いては、その中に媒介者を含まない。主語的なるものはすぐ超越的述語面に於いてあるのである。かかる超越的述語面がいわゆる知覚という如きものと考えられるのである。未だ場所と「於いてあるもの」との間を媒介するものはないから、知覚は全からざる判断と言うことができる。普通には知覚の如きものが直覚と考えられるが、自己自身の中に判断を含まない、すなわち自己自身を媒介することのない直覚は、未だ真の直覚ではない。真の直覚は自己自身の中に主語を含み、自己自身を媒介するものでなければならない。すなわち自覚的なるものでなければならない。知覚という如きものは、かかる自覚的意識面の限定されたものとしてのみ考えることができるのである。主語面的に限定された述語面である。述語面の中に無限に達することのできない主語的なるものを見る時、いわゆる自覚となる。これに反し、その中に見られる主語的なるものが限定されたものと考えられるかぎり、かかる述語面が知覚的意識面と考えられるのである。意識面自身は斯くして限定し得べきものではない。その底にはなお無限の行先が残される。かかる行先は斯くして限定された意識面の中に包むことはできないものである。それでいわゆる知覚面とは自己自身を媒介することのできない超越的述語面であり、その内に構成的意義を有せないから、これに於いてあるものは単に「於いてあるもの」であり、判断的知識としてはいわゆる種と類の如き抽象的概念の体系が成立するまでである。抽象的概念とは、述語となって主語とならないという超越的述語面の中に含まれた無限に達することのできない主語的なるものが限定されたものとして、「六」に於いて言った如く述語面が主語的に限定されたものと言うこともできれば、またかえって真に主語的なるものを包み得ない述語面と言うこともできる。限定された述語面と考えることもできる。要するに判断的一般者にして、主語的方向に於いて主語となって述語とならない超越的主語に達することはできない、述語的方向に於いて述語となって主語とならない自覚面に達することのできない中間的一般者が、抽象的概念と考えられるのである。故に一方からは主語として見ることもできれば一方から述語として見ることもできる。
私は数という如きものも超越的述語面に於いてある一種の有と考えるのである。しかしそれは種と類の関係から成る単なる類概念に於いて考えるべきものでもなく、また単に判断的一般者に於いてある個物として考え得べきものでもない。数の世界というのはやはり推論式的一般者の超越的述語面に於いてあるものとして、認識主観に対する一種の客観界でなければならない。数の世界は法則の世界、推理の世界である。最勝義においてかかる世界と言うことができる。かかる意味においては、数の世界はいわゆる経験界とその論理的意義を同じくするのであるが、その異なる所は小語面的所与にあるのである。その小語面的所与が直ちに構成的であるのである。小語面と大語面が合一しているのである。推論式的一般者としては小語面と大語面は何処までも相対立するものであり、その間に媒語的なる「時」が考えられねばならないのであるが、その「時」が過、現、未の傾斜なく、いつも現在と考えるべきものである。小語面的所与の根柢となる自覚は単に主語と述語が合一した自覚である。右の如くにして数の世界は直覚的所与の世界であり、純なる論理的思惟の対象界と言うことができるであろう。
十一
以上、私は判断的一般者を中心として、一方に類概念的一般者を考え、一方に更に判断的一般者を包む推論式的一般者を考え、これによって種々なる認識対象界を考えてみた。我々の概念的知識を論じるには、判断を中心としなければならないのである。しかし始にも言った如く、概念的一般者とは元来一種の「私」である。判断とは自覚の一過程に過ぎない。何処までも超越的述語面というべき「私」が自己自身を限定するかぎり、判断的知識が成立するのである。
我々の自己は何らかの意味において判断の主語となるものでもなく、またいわゆる認識主観に止まるものでもない。知的自覚はなお真の自覚ではない。真の自覚は意志の自覚、自由我の自覚でなければならない。最も深い自己から見れば、判断という如きものは自己限定の一種に過ぎない。しかもその最も外面的なるものである。判断が自己を限定するのではなく、自己が判断を限定するのである。知的自覚が成立するには、述語面的なるものが限定され、これに於いて無限に達することのできない主語的なるものを包むと考えるのである。知的自覚にはなお場所が限定されねばならない。しかし真の自己はかかる意味において限定されるものでもない。これ故に真の自己の深い内容はいわゆる認識対象界の内に盛り切れるものではない。いわゆる認識対象界に於いてある実在界は、その表現となり、象徴となるのみである。表現の世界は最も深い自己の自覚によって成立するのである。かかる立場から見れば、認識対象界とは最も外面的なる表現の世界に過ぎない。意志の対象界といえども、なお認識対象界に即して、その裡面に於いて考えられるのである。思惟を裏から見たものが意志となる。実在界に即した表現がいわゆる意志の実現である。意志作用といえども、なお表現作用の弱きものたるを免れない。
述語的論理主義(諸事情により更新ペースが遅くなっています。作業終了次第載せていきます)
自己自身を見るものの於いてある場所と意識の場所
叡智的世界
直覚的知識
自覚的一般者に於いてあるもの及それとその背後にあるものとの関係
一般者の自己限定
総説
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